2022年6月13日月曜日

20220612 中央公論新社刊 中公クラシックス 竹山道雄著「昭和の精神史」pp.49-52より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 竹山道雄著「昭和の精神史」pp.49-52より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 412160122X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601223

青年将校の運動は、封建時代このかた持続された支配階層たる「天皇制ファッショ」が、自己の本質を一直線に実現していった過程の一齣ではなかった。その代表者を殺すことによってその真の姿を生かしたのだという「呼出し役」説は、堅白同異の詭弁であり、歴史を都合よく体制化して考えるためにつくりだされた便宜の仮想にすぎない。これによって組み立てられた全体を、歴史としてうけとることはできない。

旧勢力の人びとも国の一員だから、国の保全とか国勢伸張とかいうことは、当然願っていた。願いすぎた人もたくさんあった。これは幣原外相も高橋蔵相も考えていた。しかし、国の隆盛を欲すること自体がすなわちファッショなのではなく、ファッショといわれるためには特定の形態をもち理念をもち方法をもったものでなくてはなるまい。「かれらが一見ファッショと対立して見えるのはただ手段の緩急についての意見の差にすぎず、本質的には同一利害の上に立っていた」。故に、かれらもファッショだった、ということはできない。これは極端な「部分的真理の一般化」であり、もしこのような論理を用いるならどんな体系もたてることができる。

 青年将校の運動は既成秩序に対する真向からの反撃だったが、しかし階級闘争ではなかった。上からの革命でもなく、下からの反抗でもなかった。かれら自身はおおむね中産階級の出で、実社会から離れた生活をしていた(極端ないい方をするなら、これもこの三十年来いまもつづいている、社会の不正に対する若い世代の反撥の一齣だった。)檄文にも見るように、かれらはみずから革命の前衛をもって任じていて、後から国民大衆がつづいてかれらのはじめた仕事を完成することを期待していた。かれらの動機は自分の階級の利益のためではなくて、観念の情熱からだった。階級は一つの権力の主体であるが、階級のみがそれなのではない。階級の悪を否定しようとする情熱もそれとなりうる。軍縮時代の軍人が肩身がせまかったから、それへの怨恨が軍隊の中にあったし、これが軍人の政党嫌いの一因をなしていたのにちがいないが、かれら自身はもっと若く、その根本の動機は檄文に表明されたとおりのものと思われる。

 しかし、このように主観的動機を重視することは、はたして歴史の闡明になるだろうか?歴史をうごかすのは、もっと「根本的」な要素なのであり、証明は経済ないし階級的利害によって裏づけられなければならないのではないだろうか?青年将校の運動は、独占資本にあやつられたか、農民の反抗であったか、あるいは苦しんでいる小市民のあがきであったか、とにかくそのような観点に基礎づけられなくてはならないのではないだろうか?観念の情熱ー?そんな頼りのない話ではなくて、もっと「実質的な」要素に還元して、そこの上からの演繹をするのでなかれば、すべては非科学的な「むなしい唯心論」なのではないだろうか?

 人間のすべてをその根本的と想定される一元的要素の因果関係に還元したときのみ、科学的実証となるとする考え方は、前世期の固定観念だった。これは必然の立証がすなわち科学であるとして、それに対して自立する人間の主体的意思を認めない。

 しかし、「哲学は世界を解釈するのではなくて、改造すべきものである」と説いて、歴史解釈にすら主体性を要求しながら、その歴史の中に行動する人間には主体性を認めないのは、ふしぎである。

 歴史は人間の行動によってうごく、そして、この行動から主体的意思をのぞいて考えることはできない。人間は外界によって機械的に反射的に規定されるものではない。

 もともと、人間の行動と外界とは直接につながっているのではなく、その間に心がある。これはその後の学問によって確認されたことであり、もしこの事実を認めないならそれは非科学的である。人間の行動は、外界によって直接に条件づけられるのではなく、むしろ外界について彼がいだいているイメージによって条件づけられる。故に人間の行動はしばしば外界とズレるのであり、たとえ彼が外界に対して正しく反応したときにも、彼はなお彼がいだいている外界像にしたがって行動したのである。

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