2022年12月3日土曜日

20221202 株式会社講談社刊 千葉雅也著「現代思想入門」 pp.116-118より抜粋

株式会社講談社刊 千葉雅也著「現代思想入門」
pp.116-118より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065274850
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065274859

哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとすることでした。世界のなかに混乱を見つけて喜ぶような哲学は、あるとしても異端。そういう意味で、混乱つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初にはっきりと打ち出したのは、やはりニーチェだと思います。

「悲劇の誕生」(1872)という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、つまりヤバいもの、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。古代ギリシャにおいて秩序を志向するのは「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバいものは「ディオニソス的なもの」であるという二元論です。

 ギリシャには酒の神であるディオニソスを奉じる狂乱の祭があったのですが、それが抑圧され、もっと調和のとれたかたちに収められていった。アポロン的なものというのは形式あるいはカタであって、そのなかにヤバいエネルギーが押し込められ、カタと溢れ出そうとするエネルギーとが拮抗し合うような状態になる。そのような拮抗の状態がギリシャの「悲劇」という芸術だ、というわけです。

 こういう暴れ出そうとするエネルギーとそれを抑えつける秩序との闘いに劇的なものを見る、言い換えれば、善と悪、光と闇の対立があるところに、どちらかをとるのではなく、その拮抗状態にこそ真のドラマを見る、なんていうのは今日のコンテンツではよくあるもので、みんなそういうドラマ性を当り前だと思っていると思いますが、それをはっきり形式化したのはニーチェなんです。

 まずディオニソス的エネルギーが大事であって、しかしそれだけでは物事は成り立たず、アポロン的形式との拮抗において何かが成立する。僕のドゥルーズ論である「動きすぎてはいけない」という本のタイトルも、動くというのがエネルギーの流動性を表しているとするなら、そこにある抑制がかかることで何事か成り立つという意味で会って、そういう意味では、ニーチェ的なダブルバウンドが僕の仕事にも、あるいはドゥルーズにも継承されているということになります。

 ここで重要なのは、「秩序あるいは同一性はいらない、すべてが混乱状態になればいい」と言っているわけではないということです。しばしば現代思想はそういうアウトローを志向するもののように勘違いされることがありますが、そうではないのです。確かに混乱こそが生成の源なのですが、それと秩序=形式性とのパワーバランスこそが問題なのです。ですからここでも二項対立のどちらかをとるのではなく、つねにグレーゾーンが問題であるという脱構築的発想が働いているわけです。

ニーチェは古典文献学者として、24歳の若さでバーゼル大学教授に就くのですが、その後、「悲劇の誕生」によって学者たちの不興を買うことになります。ニーチェは、堅実な研究者として生きるのでは満足できなかった。「悲劇の誕生」は、本来なら丹念な歴史研究をすべきところ、大ざっぱな図式を打ち出し、かつギリシャ悲劇を当時ニーチェが入れあげていたワーグナーの音楽に結びつけ、ワーグナーの革新性を謳うもので、研究というより今日風に言えば「批評」的な著作でした。当時の文化状況に一石を投じたいという野心があったのです。こいつは学者の道を踏み外した、と思われたことでしょう。

 批評的な仕事が、大学=アカデミアの学者から、いわば「出すぎた」ものとして反発を受けるというのは今もあって、批評の世界すなわち論壇と大学にはときに対立が生じます。ニーチェはそういう対立を生んだ生きたパイオニアだと言えるでしょう。