2019年12月8日日曜日

草思社刊 セバスチャン・ハフナー著 瀬野 文教訳 「ヒトラーとは何か」pp.159-161より抜粋引用

マルクス主義とヒトラー主義には、すくなくともひとつ共通点がある。それは世界史全体を、ひとつの視点で説明しようとすることである。「これまでのすべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と「共産主義宣言」はいう。そしてこれに答えるかのようにヒトラーはいう。「すべての世界史的現象は、人種の自己保存本能の発揚にほかならない」
 マルクスにせよヒトラーにせよ、このようなフレーズには強烈な暗示力がある。呼んだ者はとつぜん光がさしたように目が覚める。迷いがふっきれ、重荷がかるくなる。悟りがひらけて物事がわかったような、心地よい気分に包まれる。そしてかくも素晴らしいフレーズを受け入れない者たちにたいして、えもいえぬ怒りといらだりがこみ上げてきて、つい激越な憤懣をぶちまけてしまう。「これがわからないやつはばかだ!」愚かな優越感と情け容赦のない冷酷さ、マルクス主義心酔者にもヒトラー信奉者にも共通して見られる感情の高まりである。
 だが、「すべての歴史はこうだ・・ああだ」などと断定するのは、むろんまちがいである。歴史というのは奥深い森のようなもので、林道の一本や二本通したところで森全体を切りひらくことはできないのである。歴史には階級闘争もあれば、人種闘争もある。さらには国家や民族、宗教やイデオロギー、王朝や政党その他のあいだでありとあらゆる闘争が繰り広げられてきた。人間社会に衝突はつきものである。歴史のいたるところで、そんなけんかやもめごとが起こっている。
 だが歴史というものは、闘争だけから成り立っているのではない。マルクス主義もヒトラー主義もここらあたりを勘違いしている、命令口調の断定的なフレーズによく見られるあやまりである。
 民族にしても階級にしても、人間の歴史は戦争をしていた時代よりも、平和に暮らしていた時代の方がずっと長かったのである。だから戦争の原因をいっしょうけんめいにさぐるのもけっこうだが、いかにして平和を打ち立ててきたかを研究するのも、これに負けず劣らず興味深く有益なことなのである。』
セバスチャン・ハフナー著 瀬野 文教訳
ヒトラーとは何か
ISBN-10: 4794222920
ISBN-13: 978-4794222923

20191207 教養と人文社会科学系について

12月に入りしばらく経ち、ここ徳島でも「寒い」と感じる日が多くなってきました。こうした日はやはり、あまり遠出せずに、屋内で読書などをしている方がしっくりきます。

さて、以前投稿のブログにて書きましたが、現在もまた、いくつかの書籍を読み進めており、その中の一つである岩波書店刊 岡義武著「明治政治史」下巻は、二百頁過ぎ、全体の半分程度まで読み進みました。おそらく、この調子にて読み進めますと、年内には読了に至ることも出来るかもしれません。また、当著作を読んでいますと、これまでに読んだ、同時代を扱った著作をあらためて読んでみたくなってきますが、こうした思いを読み手に生じさせる史書は、やはり優れた著作であると思われます。くわえて、これまで当著作を読み進めていて大変面白かったことは、自身が六年前の二〇一三年に、フェイスブック上にて陸奥宗光著「蹇蹇録」内の記述を抜粋引用したことがありましたが、そのまさに抜粋引用部とほぼ同じ箇所が当著作においても記されていたことです・・。

こうしたことは、やはり偶然の一種であるとは思われますが、それでも自身が当時の国内情勢を知るために適切であると考え、抜粋引用した箇所が、史書においても引用されていたことは、自身が、そうした目利きが出来ていたのではないかと、多少嬉しくなります(笑)。

とはいえ、休日などに書店に行きますと、多くの新刊書籍が並び、それら著作の題名を眺めていますと「教養が身に付く~」「これを読めば大人の教養が身に付く」といったものが比較的多く見受けられますが、おそらく、少なくとも人文社会科学系の教養といったものは、自然科学系の合理性に基づく思考とは、何かしら異なる性質を持っているのではないかと思われるのです・・。

つまり、人文社会科学系の教養といったものは、一般的に、職業上必要不可欠な知識体系とされないことが多いことから、必要に迫られたものでなく、より、その人が持つ素の性質によって、どこまで取り組んできたかが理解され、それが、何と云いますか、その人が持つ「文化」あるいは「味」のようなものと認識されるのではないでしょうか・・。

それ故「教養を身に付ける」といった言語表現自体に対しても、多少違和感を覚えてしまいます・・。おそらく、教養といったものは意識して身に付けるようなものでなく、あくまでも自然と(知らぬ間に)身に付いていたものが本当ではないでしょうか・・。

そして、こうした「教養」に対する一般的な認識もまた、以前、ブログにて書いた「明治期の意識的なそして急速な西欧化」に連なる、あるいは関連があるのではないかとも思われるのです・・。

おそらく、こうした、いわば演繹的な思考が多く為される社会、あるいは異言しますと、先ず、何らかの大前提が設定され、そこから個々要素の判断を行っていくといった思考の流れが主である社会、そして、そうした社会にある組織全般は、概ね速やかに硬直化していくといった傾向があるように思われます・・。

そして、そうした社会・諸組織の速やかな硬直化を和らげるためにも、個々人の能動性に基づいた自然な姿の教養の意味・価値といったものがあるように思われるのですが、これは、我が国社会全般においては「個々人の自然な能動性にはあまり価値がないとされ」また「実学に分類することが出来ないことから、人文社会科学系学問はあまり価値がない」とされ、軽視され、そして、現在の社会になっているように思われます・・。

また、その意味で夏目漱石による「現代日本の開化」などは今なお、大変興味深い著作であると考えます・・。