2017年2月19日日曜日

20170219 自然風土と精神の関係について・・躁と鬱およびハレとケガレ

おかげさまで昨日投稿した記事の閲覧者数は投稿翌日にしては増加しました・・。
読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

また、昨日も関連する既投稿記事の大変興味深いご指摘がありましたが、これも早速活用させて頂きました。
『ご指摘どうもありがとうございます!』

さて、昨日投稿記事の題材とは主に「躁状態」についてでしたが、これは作家の北杜夫によると季節と関連があるとのことでした・・。

たしかに自身の場合も気温の上昇に伴い徐徐にテンションが上がっていくような実感があります・・(笑)。

また、おそらくこのことは季節毎の既投稿記事を比較して読んで頂けますと多少は納得して頂けるのではないかと思われます・・。

さらに、こうしたことは居住地の移動などによっても大きな影響を受け、精神を含む身体が移住先に落ち着くまで、ある程度の期間を要し、また同様に心身に対しても負担を強いるのではないかとも思います・・。

それ故「ある程度の高齢になった場合、移住はしない方が良い」と一般に云われているのではないでしょうか・・?

そして自身に関しても、やはり鹿児島在住初年目、二年目はじめとは、あまり調子が上がらず、元気も出ず、また、その気候、暑さのためか茫然とすることが多く、日に何度も実験室の流し場で顔を洗っていたことが思い出されます・・。

そうした経験から、私見ではありますが、鹿児島の自然風土(人間は少し違うかもしれない・・)とは、はじめて訪れ在住する人々に対しあまり歓迎的ではないと思われます・・。

これは和歌山、南紀、福岡市などと比べてですが、その(鹿児島の)自然風土とは、九州最南端の南国的といっても良い立地にありながら、大昔の周辺火山噴火・降灰の影響により、その地味は決して豊かではなく、全般的に南国特有の植生の横溢、旺盛さなどは、本州南端の南紀と比較した場合、むしろ南紀の方に軍配が上がるのではないかと思われます。

一方、日射量に関しては、やはり南紀以上に南国的であり、さらに鹿児島市内では降灰も同時期にあることから、その自然風土とは、やはり、はじめて住む人々にとっては、少なくとも歓迎的であるとはいえないと考えます・・。

とはいえ、そこで数年過ごし、ある程度適応出来たと思われる状態になりますと、今度は変に元気になってしまい、特に2012年秋頃はピークといってもよく、和歌山市某所にて開催された勉強会において、修士課程の頃は詳細については分からなかった銅鐸(紀州全土に出土例が多く、また、その分布も興味深い)についてを鋳造技術(歯科理工学においては必須)と関連させ、さらにトーマス・マン著「魔の山」からの抜粋引用をそのイントロに用いた至極奇怪な報告を行っていました・・(苦笑)。

ああした報告は現在では出来ないのではないかと思われます・・(笑)。

とはいえ、その報告の評判とは、そこまで悪いものでもなかったとも記憶しておりますが・・。

しかし、それを記憶として、現在、そういった(至極奇怪・現在では出来ない・そこまで悪いものではない)判断を下せるだけ、まだマシであるのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、あの当時の『勢い』とは、現在になり考えますと、また訪れて欲しいと思わないこともありません・・(笑)。

いや、むしろ、その後の反動さえなければ積極的に来て欲しいと思います・・(笑)。

そして、ここまで書いておりますと、今度は民俗学で、特に谷川健一が述べていた『ハレ・ケガレ』などについてを想起してしまうのです・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨2016年に熊本、山陰東部および福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」










20170218 文章作成と躁状態について・・

ヒトは自身が何かを創造、創作している状態を客観視することは出来ない。」と云われますが、それは一般的な創造、創作行為全てにも適用することができるのではないかと思われます・・。

そして、その意味において昨日投稿した記事内容に創造的な要素は見受けられないと考えます。

しかしながら、その主題であった「口語→文語の変換そして文体の獲得」には、ある程度の妥当性、事実が認められるのではないかとも考えます。

一方、我々とは、あまり深刻にこうしたことを認め合うことはしませんが「文体の獲得」とは、誰であれ、それなりの困難を伴うものなのではないでしょうか・・?

いや、それ以上に、そうしたこと(文体の獲得)とは日常生活を送る上において積極的に必要でもないことから、それは日常的な話題にもならないのかもしれませんが・・。

無論、自身もまた「文体の獲得」に対し未だ半知半解でありますので、あまり知ったようなことは書けませんが、そうであっても上記に述べたこと大体、事実に即していると考えます。

また、文章を書く際においては日常と多少異なった心的状態にある方が自然であるといったことを書きましたが、これは換言すると一種の『躁状態』に近いのではないかと思われます・・。

そもそも、ある程度の躁状態でなければ、公表を前提とするような文章など書くことはできないのではないでしょうか・・(笑)。

いや、もう少し表現を和らげますと「公表を前提とする文章を書く際においては躁状態である方が都合が良いのではないか?」といった感じになりましょう・・(笑)。

また、かつての文筆家で、ある種の薬品摂取を日常としていた方々とは、一面において、薬品を摂取することにより、いわば人工的に躁状態となり、その「勢い」を用いて文章を作成していたのではないかとも思われるのです・・。

さて、2012~2013年の自身を振り返ると、薬品云々はさて置き、躁と鬱の間を不安定に行き来していたのではないかと思われます・・。

そして、後知恵にはなりますが、異郷の地にて不安定な精神状態であったにしては、どうにかそれをまさしく『生きて』脱することが出来たのは、ひとえに周囲の方々のお蔭であったのではないかと思われるのです・・。

また、現在こうしてブログ記事作成を継続することが出来ていますが、今後、その内容の更なる向上、洗練をはかるため躁状態になれたら良いのでは・・?と正直、時折思うこともありますが、その後に何らかの反動つまり虚脱、慢性疲労、知力・精力の減退といった状態にならなければ、それもまた良いのではないかと思います・・(笑)【この反動は生命力を大きく摩滅させる力があります。】

そして何より、客観的に見て、書かれた文章の向上、洗練が認められるのであれば・・(笑)。

しかし、そもそも我々の社会には、躁状態になっている人間に対し特に水を差すことはなく、その行状、言動の成り行きを見て、機に応じ、それを流行、時代精神の源泉としたり、あるいはまた非難の対象ともするような傾向があるのではないでしょうか・・(笑)。【社会での凝集性の核となる心理的な要素とは、ある種、躁的なものではないだろうか?】

それは大昔の狩人から族長預言者予言者巫女宗教家殉教者将軍騎士冒険家芸術家資本家技術者革命家文筆家フェミニスト政治家軍人神がかり参謀医学者科学者に至るまで・・。

たしかにそれは人工知能AIには真似出来ない仕業であるようには思われますが・・・。

去る2016年に熊本、山陰東部および福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。