2024年3月23日土曜日

20240322 岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.217-220より抜粋

岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.217-220より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003226216
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003226216

わずか一年前にハースト・アンド・ブラケット社から出版された「わが闘争」の無削除版は、ヒットラー擁護の立場で編集されている。これこそ歴史の動きの早さを示すものだ。訳者はその序文と注で、あきらかにこの本の残忍さを弱め、ヒットラーをできるかぎり好意のもてる人物に仕立てようとしている。というのも、当時のヒットラーはまだまともな人物だったからである。彼はドイツの労働運動を粉砕した。その結果、有産階級は彼のすることならたいてい大目に見ようという気になった。左翼も右翼も、国家社会主義と保守主義の一種にすぎないとする浅薄な見方では、一致していたのである。

 ところがとつじょとして、ヒットラーはやはりまともな人物でないことが明らかになったのだ。その一つの結果として、ハースト・アンド・ブラケット社の再版本には、本書から上がる利潤はすべて赤十字に寄付するというという説明入りの、新しいカバーがついたのである。だが「わが闘争」の内容を考えてみただけでも、ヒットラーの目標や主張には、なんら本質的変化があったとは考えられない。一年くらい前の彼の発現と十五年前のそれとを比べてみて驚かされるのは、その世界観にまったく発展がみられない、彼の精神の硬直性なのだ。これは偏執狂の固定した幻想であって、現実政策の一時的な戦術くらいでは、たいした影響をうけることは考えられない。ヒットラーの精神にとっては、おそらく独ソ不可侵条約も単なる時間表の変化にしかすぎないのだろう。「わが闘争」の中での計画では、まずロシアを叩き、つづいて英国を叩く予定になっていた。ところがロシアのほうが懐柔しやすいものだから、まず英国から片づけようということになったのである。だが英国を抹殺したなら次はロシアの番だーこれがヒットラーの計画であることに疑いはない。むろん、結果としてそうなるかどうかは、むずかしいところだが。

 ヒットラーの計画が実現したとしてみよう。彼が百年後に画策しているのは、広い「居間」を持った二億五千万のドイツ人が住む、ひとつづきの国である(その「居間」はアフガニスタン周辺あたりまでひろがる)。それは戦争のための青年の訓練と、砲弾の餌食となる人間を無際限に産ませる以外本質的には何もしない、恐るべき、愚かしい帝国である。彼がこんな途方もない計画を立てられたのは、なぜだろうか?その生涯の一時期に、彼ならば社会主義者や共産主義者をつぶせると見た重工業家たちが財政的支援を与えたからだというのでは、あまりにも安易な解釈すぎる。この重工業家たちにしても、彼がその弁舌に物を言わせて、一つの大きな運動が実現したかのような幻想をすでに与えていなかったら後援などしなかっただろう。失業者七百万というドイツの情勢が扇動家たちにとっては有利だったことも、一面では当たっている。だが、ヒットラー自身の独自な個人的魅力がなかったなら、多くの競争相手を敵にまわして彼一人が成功するというわけにはいかなかっただろう。その魅力は、「わが闘争」の不器用な文章からもうかがわれるが、演説を聞いたとすれば、さぞかし圧倒的な力をもっているにちがいない。わたしは、自分が一度もヒットラーを嫌いになれなかったことを、はっきり言っておきたい。彼が政権を握って以来ーそれまでは、たいていの人と同じように、わたしも彼など問題にならないものと思いこんでいたーわたしは、もし手の届くところまで近づければぜったいに彼を殺すだろうが、それでも個人的な敵意を抱くことはできまいと考えてきた。つまり彼にはどこかふかく人の心を動かすところがあって、それは写真を見てもわかるのである。とくにハースト・アンド・ブラケット社版の巻頭にある、初期のブラウンシャツ時代の一枚の写真を見てもらえばいい。それは憐みをさそう犬のような顔というか、耐えがたい虐待に苦しんでいる男の顔である。やや男らしいところはあるものの、無数にある十字架上のキリストの絵の表情にそっくりなのだ。そしてヒットラー自身が、自分をそういう目で見ていることはまちがいない。宇宙にたいする彼の恨みのそもそもの個人的な原因は、推測するしか方法がないけれども、とにかく、ここに恨みがこもっていることはたしかである。彼は殉教者であり、犠牲者なのだ。岩につながれたプロメテウスであり、徒手空拳で自己をかえりみず耐えがたい不正と戦う英雄なのである。ねずみ一匹殺すにしても、彼はそれをうまく恐龍に見せる方法を知っている。われわれはナポレオンにたいする時のように何となく、彼は運命と闘っている、勝つことはできまいが勝ってもいいではないかといった気持になる。こういうポーズはきわめて魅力的なものだ。映画の主題の大半はこれなのである。