2016年1月28日木曜日

加藤周一著「言葉と戦車を見すえて」筑摩書房刊pp.220-225より抜粋20160128

君たちはいま、ユダヤ人排撃運動でさわいでいる。君たちというのは、ドイツ人だけのことではない。ぼくのような極東の住民からみれば、西ドイツばかりではなく、英仏の人たちもあわせておよそ西洋人ということになるが、君たち西洋人についておどろくのは、いかにも記憶力がよすぎるということだ。
戦後15年もして、今再びカギ十字があらわれると、すぐにさわぎ出すのは、アウシュウィッツで何百万のユダヤ人を、老若男女、ただユダヤ人なるが故に、毒ガス室へ送り込んで、組織的に、計画的に、一糸乱れず虐殺したヒトラー総統とその国家社会主義ゲシュタポSSの歴史を、忘れないからであろう。

そればかりではない。
君自身も、今の西ドイツ政府の高官が昔ナチに属していたことを思い出している。イギリスの新聞のなかには、アーヘンボンドルトムントデュッセルドルフエッセンゲルゼンキルヘンケルンの刑事部長がのこらず、もとSSの高い地位を占めていた、ということさえ忘れていないものがある。何という記憶力だろうか。われわれは、そういったことをみんな忘れてしまう。

現に日本の諺には、水に流すということがある。
君たちからみれば、記憶喪失症とうけとられるかもしれないが、これこそは、昔のことを一切忘れて、幸福に暮らそうという日本の国民的伝統だといえるかもしれない。
江戸っ子は宵越しの金を使わない。
その日暮らしに、どうして過去を思い出す必要があろうか。日本の過去にも悲劇がなかったわけではない。

アウシュウィツほど組織的・計画的ではなかったようだが、とにかく無秩序で衝動的な南京大虐殺があった。

そのほか、戦後の東京裁判もさらけ出したように、「無責任な軍国主義者」の侵略と人権無視のあらゆる例があり、ゲシュタポの日本版・特高警察もあった。そういうことは、すべて昨日あったのだが、われわれの流儀では、昨日のことは水に流して綺麗さっぱりと忘れるのである。

今の日本政府の高官に、もと「無責任な軍国主義」政府の閣僚がいないわけではない。
その高官とは誰よりも総理大臣であり、絶対多数党の総裁である。
しかし、われわれ日本国民の少なくとも大多数は、その過去を一切水に流して、この総裁をいただく政党を支持し、あらゆる国政をあずけ、殊に国の安全保障に関しては、その「大東亜戦争」指導の手腕に鑑み、満腔の信頼をよせている。
昨日は昨日、今日は今日。
そのとき巷に声あり、うたって曰く、昨日は日独軍事同盟、今日は日米安保体制と。しかし、ぼくのような一般庶民が過去を思い出すのは、そういう小さな巷の声よりは、むしろ日本人ならぬ西洋人の、途方もない記憶力に接しておどろき呆れるときだけなのだ。
岸さんがアメリカへ新安保条約の調印に出かける。するとアメリカの有名な週刊誌は、こう書く。

1920年に岸信介東京大学法学部を卒業し、農商務省に入った。26年には最初の米国訪問。41年には商工大臣として、戦争を積極的に支持した。44年には戦局不利とみて東条追い出しを策し、戦後は戦犯として巣鴨に3年を過ごした。

その間、床掃除をし、西洋の本をよみ、詩をつくった、と。そして、その詩の一つを英訳で引用する。英訳からもう一度訳しなおせば、「わが名を犠牲にしても、後世に伝えたいのは、日本が正義の聖戦をやったということだ」というのである。―そんなことを、われわれ日本人自身はめったに思い出さない。

しかし、われわれが一切水に流しているのは、敗戦までの軍国主義や聖戦や南京虐殺ばかりではない。敗戦後の平和憲法や武装放棄や人権擁護の理想主義もまた綺麗さっぱり忘れようとしている。

君も知っているように、われわれの憲法の第九条には、戦争の放棄が規定され、その次に「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と書いてある。この憲法は敗戦後、占領中にできた。それができたときに、総理大臣吉田茂は、議会で「自衛のための戦争を正義の戦争だと考えることは許さるべきでない」と説明した。
ところが今の総理大臣岸信介は、「自衛のための戦力は、憲法に矛盾しない」といい出している。

総理大臣の憲法解釈、それも肝心なところで、一体軍隊をもってはならぬという憲法なのか、もってよろしいという憲法なのか、ということの解釈さえ、10年そこそこのうちには豹変するわけだ。こういう便利なことが、自由自在に行われるのも、われわれ日本人が、10年まえのことは水に流して、一切覚えていないからである。

憲法制定議会で田中耕太郎さんは文部大臣であった。海野晋吉さんという日本人としてはめずらしく過去に拘泥する人が、「速記録」から引用している田中さんの第九条に関する説明は、こうであった。

「不正義の戦争を仕掛けてきた場合において、これに対して抵抗しないで不正義を許すのではないか、というような疑問を抱く者があるかも知れない・・併しながら・・不正義は世の中に永く続くものではない。

剣をもって立つ者は剣にて滅ぶ、という千古の真理について、我々は確信を抱くものであります。・・仮に日本が不正義の力に依って侵略されるような場合であっても、併しそれを抵抗することによって、我々が被るところの莫大な損失を考えて見ますと、まだまだ日本の将来の為にこの方を選ぶべきではないか・・戦争放棄ということも決して不正義に対して負ける、不正義を認容するという意味をもっていないと思うのであります。」

今いわゆる砂川裁判で最高裁判所が憲法解釈を論じるときに、田中さんは最高裁判所長官である。その判決はいう。
「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」

「自衛のための戦力の保持」を憲法が禁じているかどうかは判断を保留するが、「自国の安全と平和を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとることは当然」憲法の趣旨に適っていると。「剣をもって立つ者は剣にて滅ぶという千古の真理」の方は、もうこの判決のなかには出てこない。「千古の真理」とは、少し話が大げさすぎたのであろう。
千古どころか、10年もちこたえる真理もなさそうな気配だ。
いや、ぼくがいおうとするのは、10年もちこたえる真理があるかないかではない。いわんや、それが田中さんにとってあるかないかではない。おそらく文部大臣としての発言と最高裁長官としての法律解釈が、いくらかちがうのは、あたりまえなのかもしれない、ぼくがいいたいのは、そういうことではなく、君たち西洋人の過去にこだわり、もとナチの領袖を信用せず、10年まえの解釈を覚えていて、事ある毎に思い出すという式の窮屈なやり方に対し、わが日本の伝統的水流し方式が、どれだけ楽天的で、どれだけ和気あいあいとした人生と国家の妙法であるか、ということである。

たとえば敗戦直後にも、だれかが一億総ざんげという言葉を発明した。一億総ざんげというのは、皆がわるかったということで、裏返していえば、誰が特にわるかったわけではないということである。つまりあれほどのいくさのあとで、責任をとる必要のある人間は一人もいなかったというのだから、素晴らしい。一同これには大賛成をした。従っていわゆる「追放」さえ解除されれば、戦争責任問題は忽ち消えてなくなり、そもその戦争があったことさえ、ほとんど覚えていない。覚えているのは、敗けた戦争ではなく、勝った戦争、たとえば明治大帝日露戦争だけだから、幸福になるのがあたりまえである。われわれは不愉快なことは一切忘れ、愉快なことだけを思い出すという心術に長じているので、これこそは人生の幸福を獲得する最高の方法だという悟りに達しているのである。君たちは忘れたくても、忘れられない。も少し鈴木大拙さんの英語の本でも読んで、心術を勉強しなければ、どうにもならないという気がする。
それでは日本流の生き方とは要するに無原則ということだろうと君は考えるかもしれない。しかし、君のように原則に固執することこそ、理想主義的であって、現実的でないのだ。そういう理想や原則を持つことを、日本語では、まだ大人になっていないという。われわれとしては、西洋人を育成して、西洋人が一日も早く大人になることを、悲願としている。
言葉と戦車を見すえて
ISBN-10: 4480092382
ISBN-13: 978-4480092380