2022年2月28日月曜日

20220227 ここ最近での記事作成から思ったこと【ブロガーとツイッターとの連携に関連して】

 本日の首都圏は日中、気温は気温が上がり、この時季としては、かなり過ごし易かったと云えますが、日が暮れてからは、気温が下がり、この時季らしい寒さとなりました。また、去る2月14日以来のロシア軍によるウクライナへの侵略は、今なお続き、まさに予断を許さない状況であると云えます。

ツイッター界隈を見ていますと、この侵攻についてのさまざまな意見が見受けられて興味深いのですが、同時に、投稿可能文字数によるものか、ツイッターでは「簡潔に意見を述べる」といった傾向が強く、一方で、そうした発信があまり上手いとは云えない私としては、未だにどちらかと云えば、ぎこちなくツイッターを運用をしていると云えます・・(苦笑)。

また、私はツイッターを始める以前から、ブロガーにてブログ記事の作成を続けていますが、それら投稿記事をツイッターにて連携可能であることから、たとえ、ぎこちないツイッターの運用であっても、当ブロガーを基軸として、現在に至るまで、どうにか続けることが出来ています。

つまり、ブロガーを基軸としてツイッターを運用しているのですが、2020年1月にツイッターをはじめて以来、現在に至るまでの2年間は、以前にも述べましたが、ブログ記事作成に対する緊張感が明らかに上昇しました・・。

それは、ツイッターにてブログ記事を連携ツイートしますと、時折は直の反応があり、そうした反応により「ああ、本当に読まれていたのだ・・」といった実感が湧き、次いで「あまりいい加減な記事は作成できないな・・」となり、それにより緊張感が生じるのですが、では、この緊張感は、果たして記事作成において良いものであるのかと考えてみますと、未だに判然とせず、現在においても「ツイッターを始める前の方が自由に記事作成をしていたな・・」と思うことが度々あります。

また、ブロガーでの閲覧者数は、ツイッターとの連携によって著しく増えたということはありませんが、他方で、閲覧者数の推移を見て、平均的に閲覧者数は少し増え、また、その偏差は小さくなったように感覚的には思われます。

その意味においては、たしかに未だツイッターの運用に習熟はしていませんが、しかし同時に、以前と比べると、いくらかは慣れてきつつあるようにも思われるところです・・。

くわえて、当ブロガーでの、これまでの閲覧者数は約65万人となっていますが、これは今後1800記事まで投稿しますと、どのようになっていくのでしょうか・・?

ともあれ、ここまで作成して、やはり現在、自身による文章作成は鈍って、またスランプでるようにも感じられてきましたので、しばらくの間は、冒頭にとり上げた、ロシア軍によるウクライナへの侵攻に関連した引用記事を投稿しようと考えていましたが、少し方針をあらため、たとえ拙くとも、意識して、自らの文章による記事も作成していきます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2022年2月27日日曜日

20220226 投稿記事の閲覧者数から思ったこと

 ここ数日間はロシアのウクライナへの侵攻という世界規模の大きな出来事があり、当ブログにおいても、この出来事の考察に資するような書籍の記述を引用記事としてきましたが、おかげさまで、それらの記事はどれも、それなりに時宜を得ていたためか、比較的多くの方々に読んで頂けていました。そしてまた、本日に関しても、引用記事を以て充てようと考えていましたが、内からのよく分からない圧力によって、自らの文章にて作成することに考えを変えました。

たとえブログであっても、しばらくの期間、自らの文章を作成しないでいると、鈍ると云いますか、ある程度集中している状態での文章作成に至るまでに掛かる時間が長くなるようで、反対に、この時間が短い方が、より効率的な文章作成が出来ると思われ、実際にそれは間違いではないと云えますが、他方で、意識して効率的な文章作成を試みた方が良い文章をより多く作成出来るというわけではないようです・・。

これまでに(どうにか)ブログ記事の作成を続け、ある種の感覚が麻痺したためか、あまり気負いや気後れなどを感じることなく、公表する文章の作成が出来るようにはなった感覚はありますが、しかし未だに「自分の文体を獲得・確立した」といった認識はありません。では、そうした状態にて、良い文章の指標となるものを検討しますと、それは記事(文章)の閲覧者数により示されるのではないかと思われます・・。

それは「良い記事(文章)であれば、より多くの方々に読んで頂けるであろう」という単純な考えに基づきますが、ともあれ、そこから、比較的多くの閲覧者数を得ている当ブログの記事をいくつかあたり、各々作成していた頃を想起してみますと、概して効率的な文章作成を意識していた時期ではないものの、ほぼ毎日でのブログ記事の作成を日課としていた頃であり、具体的には2017~2018年の作成記事に集中していたと云えます。

丁度この頃は1000記事への到達が現実味を帯び、勢いづいていた頃であり、また、その文章からは、あまり意識はされていないものの「自信」のようなものが感じられます。では、それに対して現在はと考えてみますと、何と云いますか、そうした「勢いや自信」はないものの、ブログ記事作成いや、文章作成での新たな段階に至ろうとして、右往左往しつつ、どうにか続けているといった感じがあります。

こうした時期は、さきの大きな目標(1000記事到達)を目指し、進めていた時期と比べますと現実味のある大きな目標はなく、ただ、これまでのブログ継続の経験によって何とか続けているといった感が強く、また、その「勢い」は、かなり減衰していると云えます・・。とはいえ、それでも(どうにか)続けることが出来ていることから、客観的には、あまり、それらの間に違いなどは認められないのかもしれませんが、作成者側からしますと、明らかに異なるように感じられ、また、それが閲覧者数にも関与しているのではないかと思われるのですが、このあたりのことに関しては、あるいは「何か」があるのかもしれませんが、今後、またしばらく作成を続けつつ、その「何か」を検討し続けてみようと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。







2022年2月25日金曜日

20220224 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著 「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」pp.56-59より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.56-59より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106037866
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106037863

ここで少し歴史を紐解いて、ロシアとトルコの戦略・地政学的な対立構図を整理してみよう。ロシアは帝国として台頭する際に、ポーランドなど西欧方面への支配領域の拡大と、ウラル山脈を越えてシベリアを支配下に置き太平洋岸にまで到達する「東漸」、そして黒海北岸地域や南北コーカサス、中央アジアに侵攻する「南下政策」の三方向で拡大していった。西欧への拡大が先進国の仲間入りをするためであったとすれば、東漸の目的は資源獲得であり、南下政策の目的は世界帝国に不可欠な不凍港を求め、地中海へのアクセスを確保することにあっただろう。オスマン帝国はロシアの南下政策の圧力を正面から受け、繰り返し露土戦争を戦っていくことになる。

 露土戦争は、歴史を遡れば16世紀に始まる。クリミア半島を中心とした黒海北岸地域は、かつてはタタール人という、トルコ人とも類縁性の深い、広い意味でのトルコ系の言語(チュルク系諸語)を話す諸民族が住んでおり、「タタールの軛」とも言われたように、スラブ系のロシア人を征服・支配し従属させる立場だった。オスマン帝国は15世紀のスルターン・メフメト2世紀以来、たびたびクリミアに軍事遠征を行なって、タタール人の現地の政権である「クリミア・ハン国」を服属させることで、黒海沿岸地域を間接的に支配し属領とした。これに対してロシアがたびたび遠征を行なってクリミア半島を支配下に置こうとした。これがロシアとトルコの間で数世紀にわたって続けられた、数え方によっては十数回に及ぶ「露土戦争」の発端である。もっとも古くまで遡れば、1568年にオスマン帝国がロシアの支配下にあったアストラ・ハン国に遠征を行なってロシアと戦い、敗れて、1570年にコンスタンチノープル条約を結んだが、これ以降ロシアはオスマン帝国の黒海沿岸地域を脅かすようになる。

 この時点でオスマン帝国とロシアの関係は拮抗していた。しかし17世紀末以降。オスマン帝国が緩やかに軍事的な衰退期に入るのに対して、ロシアは帝国として勃興し、「南下政策」を推進してオスマン帝国領土を蚕食していった。

 オスマン帝国は軍事的な最盛期に達する16世紀までは、西欧・ロシアとの国際関係を圧倒的に優位な立場から結ぶことができた。イスラーム法に基づいたオスマン帝国側のルールを適用して西欧諸国との外交も行い、西欧諸国はオスマン帝国と外交・通称関係を結びたければそれに従うしかなかった。オスマン帝国在住の西欧諸国民に領事裁判権などの特権を与えた「キャピチュレーション」も、元来はイスラーム法の下での異教徒支配の原則を準用して、外国人の異教徒に「恩恵」として与えたものであった。

 オスマン帝国が軍事と外交面での優位性を失い、西欧の国際法秩序を受け入れることを余儀なくされた時期が、1699年にハプスブルグ帝国との間で締結したカルロヴィッツ条約とされる。1683年にオスマン帝国が、16世紀のスレイマン1世以来となる第二次ウィーン包囲でハプスブルグ帝国を脅かしたものの、失敗。逆に、ローマ教皇の呼びかけでカソリック諸国の「神聖同盟」が結成され、正教のロシアもこれに加わって、オスマン帝国の侵略に立ち向う同盟が結成されていた。それによって不利な条約の調印へ追い込まれたのである。

 ロシアがオスマン帝国との関係で決定的に優位に立つのが、1768-1774年の露土戦争の結果のキュチュク・カイナルジャ条約で、ここでオスマン帝国はクリミア・ハン国への宗主権を失うと共に、オスマン帝国領内のギリシャ正教徒にロシア皇帝が保護権を持つと認めさせられる。それ以来、ロシアは軍事的に領土を蚕食するだけでなく、正教信徒の保護を理由とした内政干渉を行うようになっていく。他の列強諸国も対抗して軍事介入を行うと共に、オスマン帝国内の少数派の保護を名目とした介入・内政干渉も競うようになる。ロシアはこの時、クリミア・ハン国をまず形式的にオスマン帝国から独立させた上で、1783年にクリミアを占領し、属国とした。軍事力を背景にした内政干渉により、外国の領土の中に親ロシア派の「自治」の領域を切り分け、のちに独立承認といった手続きを経てロシアに併合する、というロシアの拡張のパターンが定まってきた。

2022年2月24日木曜日

20220223 作成記事の書きぶりにより、体力消耗の様相が異なることから思ったこと

ここ数日間のブログへの投稿は、書籍からの引用としましたが、おかげさまで、どれも比較的多くの方々に読んで頂けました。くわえて、直近投稿の「【架空の話】・其の83」も自身作成の記事としては多い閲覧者数となっていました。これらを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

また、本日に関しても、さきほどまでは書籍からの引用にて記事作成を行うつもりでしたが、考えをあらためて、自分の文章での作成としました。とはいえ、その主題は未だ決めておらず、見切り発車的に記事作成を始めたわけですが、こうして何やら作成していますと、それまでの印象的な出来事や書籍の記述などが思い出され「ああ、ここから、この展開で書き進めれば、またそれなりの文量を作成することが出来るかもしれない・・。」といった感じになることが多いのですが、スランプ状態にある場合では、この主題・テーマの飛び移りが上手く行かないといった感じがあると云えます。

あるいは、記事作成時の主題・テーマの飛び移りの際が、体力を多く消耗すると云えることから、端的にスランプ状態とは、何らかの理由により、体力が消耗している状態であるとも云えるのかもしれません・・。

また、それに加えて興味深く思われたことは【架空の話】の作成に際しては、その最中に主題・テーマの飛び移りをする必要はあまりなく、ある種、頭の中にあるストーリーを文章へと変換しているといった感があるのですが、このストーリーに関しては、大きな流れは既にありますが、その中の個々の話の展開については、ストーリーを文章へと変換をしているさ中に、作成した記述から、それに関連する記憶が想起されて、さらに先に繋がっていくといった感があると云えます。そして【架空の話】の作成においては、さきに述べた主題・テーマの飛び移りに際しての体力の消耗は少ないものの、一方で、記憶が励起され想起に至るまでの文章の作成において、体力が消耗するように思われるのです。

つまり、独白形式であれ【架空の話】であれ、作成時の体力の消耗の様相は若干異なるものの、消耗自体は少なからずあると云え、あるいは、それらにどうにか対応出来るようになったことも、私としては進化と評し得るのかもしれません・・。

また、であるからと云って、ここで更なる効率的な文章作成技術の向上を願うのではなく、多少緩慢ではあっても、ともかくも、何かしらの文章を作成し続けることの方が重要であるように思われるのです。

そして、ここで想起されたのは、以前投稿のブログ記事にて引用したゲーテ著「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」内以下の記述です。

「小説でも戯曲でも、われわれが見るのは、人間の性質と行為とである。両者の差別は単に外形にあるのではない。即ち一方では、人物が話をし、他方では、通常その人物について語られるというような点に、差別があるのではない。だが、情けないかな、多くの戯曲は対話体の小説に過ぎない。これでは、戯曲を書簡体で書くこともできないことはない。小説では特に心情と事件とが現されねばならない。戯曲では性格と行為とが現されねばならない。小説は徐徐に進行し、主人公の心情が、どんな方法によるにせよ、全体の急速な進展を引き止めるのでなければならない。戯曲は急ぐべきもので、主人公の性格は終局に向かってまっしぐらに進むべきであって、ただそれが食い止められているのでなければならない。小説の主人公は受動的であるべく、少なくとも甚だしく能動的であってはならない。戯曲の主人公には活動と行為とが望ましい。小説では偶然の働きを許すことはできるが、それは常に人物の心情によって導かれねばならない。これに反し、人間の関与をまたず、独立した外的の事情によって不測の破局へ人間を駆って行く運命は戯曲にのみ存在する。偶然というものは愁嘆場をひき起こしはするが、悲劇的な情態を作り出すことはできない。これに反し、運命は常に恐ろしいものでなければならない。そして、罪のある、あるいは罪のない、互いに独立した行為を、不幸に結びつけるような場合には、運命は最も高い意味で悲劇的となる。こういう考察は再び、あの驚嘆すべきハムレットと、この作品の特性との考察にもどった。みんなは次のように言った。この主人公は元来心情を持つだけである。また彼に起こって来るものは事件だけである。したがってこの戯曲には小説のように間ののびたところがある。しかし全体の結構は運命の描くところであり、全曲は恐ろしい行為から出発している。また主人公はたえず恐ろしい行為に向かって駆り立てられている。したがってこの戯曲は最高の意味で悲劇的であり悲劇的結末に終わるほかないのである。」

さて、以上を読み思ったことは、小説と戯曲の間にある相違について、それは書きぶりのなかで小説は心情と事件に重点を置き、それに対して戯曲は性格と行為に重きを置くと述べていますが、これは、さきに述べた当ブログでの独白形式と【架空の話】それぞれの、記事作成時における体力消耗の様相とも何かしら関連があるように思われたということです。そしてまた、今後作成する【架空の話】の書きぶりについては、以上の点をもう少し踏まえて検討してみたいと思います。というのは、ここ最近作成した【架空の話】から、その書きぶりが当初の頃と比べ、随分変化したと感じられたからですが、こうした変化の基層には、何らかの法則やパターンそして普遍的な要素といったものはあるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2022年2月22日火曜日

20220222 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.299-302より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.299-302より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

私たちはぞくっとするような「ポスト・トゥルース」の新時代に生きており、どちらを見ても嘘と作り事ばかりだと、近頃繰り返し言われている。例はいくらでも出に入る。たとえば2014年2月下旬、軍の徽章をつけていないロシアの特殊部隊がウクライナに侵入し、クリミア半島の主要な軍事基地を占領した。ロシア政府とプーチン大統領本人が、彼らをロシアの部隊であることを再三否定して、自発的に組織された「自警団」だとし、地元の店でロシア製のように見える装備を手に入れたかもしれないと主張した。この荒唐無稽な説明を口にしたとき、プーチンとその側近たちは、嘘をついていることを百も承知していた。

 ロシアのナショナリストたちは、より高い次元の真実のためになると言い張って、この嘘を大目にみることができるだろう。ロシアは正義の戦争を行っていたのであり、大義名分のためには人を殺すことが許されるなら、嘘をつくことも当然許されるのではないか?ウクライナ侵攻を正当化するとされる、このより高次の大義名分とは、ロシアという神聖な国家の維持だった。ロシアの国家神話によれば、ロシアは神聖な存在で、不埒な敵たちが侵略して分割しようと何度も試みたにもかかわらず、1000年にわたって持ちこたえてきたことになる。モンゴル人、ポーランド人、スウェーデン人、ナポレオンのグランダルメ(大陸軍)、ヒトラーのドイツ国防軍に続いて、1990年代にはNATOとアメリカとEUが、ロシアの一部を切り離してウクライナのような「似非国家」に仕立て上げて、ロシアを破壊しようと試みたという。ロシアの多くのナショナリストにとっては、ウクライナはロシアとは別個の国家であるという考え方のほうが、ロシアという国家を再統合する神聖な使命を果たす間にプーチン大統領が口にしたことのどれよりもはるかに大きな嘘となる。

 ウクライナ国民や傍から見ている人や専門の歴史学者がこの説明に呆れ返り、それをロシアの欺瞞の兵器庫から跳び出した「原爆級の嘘」と見なしたとしても当然だろう。ウクライナは一つの国民としても独立国としても存在しないと主張すれば、多くの歴史的事実を無視することになる。たとえば、ロシアが統合されていたはずの1000年間に、キエフとモスクワが同じ国に含まれていたのは約300年にすぎない。また、ロシアが以前は受け入れ、独立国ウクライナの主権と国境を保護してきた、非常に多くの法律や条約に違反することになる。そしてこれが最も重要なのだが、その主張は、自分はウクライナ人だと考えている何百万人もの人々の意見を無視している。彼らには、自分が何者かについて発言権がないというのだろうか?

 世界には似非国家がいくつかあることに関しては、ウクライナのナショナリストもロシアのナショナリストに間違いなく同意するだろう。だが、ウクライナはそのような似非国家ではない。むしろ、ロシアがいわれもなく行ったウクライナ侵攻を隠蔽するために打ち立てた「ルガンスク人民共和国」や「ドネツク人民共和国」こそが似非国家だ。

 どちらの側を支持するにしても、どうやら私たちは本当に、ポスト・トゥルースの恐ろしい時代に生きているらしい。今や、特定の軍事紛争だけでなく、歴史全体や国家全体が偽造されうるのだ。だが、もし今がポスト・トゥルースの時代ならば、いったいいつが、のどかな真実の時代だったのか?1980年代か?1950年代か?1930年代か?そして、何がきっかけで私たちはポスト・トゥルースの時代へと移行したのか?インターネットか?ソーシャルメディアか?プーチンとトランプの躍進か?

 歴史にざっと目を通すと、プロパガンダや偽情報は決して新しいものではないことがわかるし、ある国家や国民の存在をまるごと否定したり、似非国家を創り出したりする習慣さえ、はるか昔までさかのぼる。日本軍は1931年に自らに対して偽装攻撃を行って中国軍の犯行とし、中国侵略の口実とした後、翌32年に満州国という似非国家を設立して、征服行為を正当化した。その中国にしても、チベットが独立国として存在したことをずっと以前から否定してきた。オーストラリアのイギリスの植民は、無主の地(テラ・ヌリウス)という法原理によって正当化され、それによって五万年に及ぶ先住民の歴史が事実上消し去られた。

 20世紀初期には、シオニズムのお気に入りのスローガンは、「民なき土地[パレスティナ]への、土地なき民[ユダヤ人]の帰還を謳うものだった。地元のアラブ人住民の存在は、都合よく無視された。1969年、イスラエルのゴルダ・メイア首相は、パレスティナ人などというものは今も昔も存在したためしがないという、有名な言葉を残した。存在していないはずの人々を相手にした武力戦争が何十年も続いているというのに、そのような見方は今日でさえごく一般的だ。たとえば2016年、アナト・ベルコ議員はイスラエル議会で行った演説の中で、パレスティナの人々や彼らの歴史が現実に存在することを疑った。彼女が挙げた証拠は?アラビア語には「P」という文字が存在してさえいないのだから、どうしてパレスティナの人々など存在できるだろうか、というのだ(アラビア語では、「f」が「p」を表す。だからパレスティナのアラビア語名はファラスティンだ)。

2022年2月21日月曜日

20220221 中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.58-61より抜粋

中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.58-61より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120039153
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120039157

 第一次世界大戦中にイギリス首相という要職に就き、同大戦後はこの戦争に極めて批判的な議論を展開したデビット・ロイド・ジョージと同様にリデルハートは、第二次世界大戦勃発当初、すなわち一般的には「奇妙な戦争」として知られる1939年から40年の時期において、イギリスとフランスがヒトラーによる和平への申し出を拒否してはならず、交渉による妥協を図るべきであると主張していた。なるほど連合国側にとって勝利が望ましいことはいうまでもないが、リデルハートは、イギリスとフランスがこの西側諸国の「文明」の防衛と侵略者に対する戦いにおいて、攻勢を用いない旨を宣言すべきであると主張した。こうすることで連合国側は、道義的に優位な立場を維持することができるうえ、ドイツが西側諸国を攻撃する口実を与えることになるこちらからの挑発行動を抑えることにもつながると期待したのである。つまり、リデルハートが主唱したことは相互に武装したままでの共存であった。双方が満足できる和平がドイツと交渉できないのであれば、既に西部戦線で闘われている「奇妙な戦争」が継続するだけにすぎない。そして、これこそ「冷たい戦争」という概念なのである。

 リデルハートによれば、連合国側にとって唯一現実的な選択肢はこうした低強度の「冷たい戦争」を継続することであり、また、それによってドイツを挑発する可能性も低下するのである。今度は、戦争を少しばかりエスカレートさせることによって、ドイツもまた勝利の可能性を有さず、そのために払う犠牲が大きすぎることを敵に示すことにより、交渉による和平への道が拓かれるとリデルハートは期待したのである。

 このようにリデルハートは第二次世界大戦当初、すなわち核兵器が登場する以前から既に「封じ込め」という戦略を主唱しており、さらには「冷たい戦争」の必要性を唱えていたのである。だが核兵器という巨大な破壊力や抑止力が存在しないなかで、ドイツとの総力戦へのエスカレーションを阻止し得る決定的な要因とは何であろうか。これに対するリデルハートの回答が、第一に、空軍力による攻撃によって迅速な相互破壊が生じるかも知れないといった一般的な恐怖心を利用するというものであった。1930年代及び40年代初頭のヨーロッパの人々は、後年に核兵器による脅威によって人々が感じたものと同じような恐怖を、上空からの攻撃に抱いていたのである。第二に、第一次世界大戦で明確に示されたように、以前と比べて大国間の大規模な戦争があらゆる意味で犠牲を必要とし、さらには、現代社会の価値や利益とはまったく相反するものになりつつあるという一般的認識に依存するというものであった。

 そこでリデルハートは、ドイツが予防的な行動を軽々にとらないよう、また、併せて戦争がエスカレートする可能性を低下させるため、連合国側が攻勢的な行動を放棄するという計算された戦略を主唱したのである。だがこうした背景の下、リデルハートは彼の生涯のなかでもっとも大きな過ちを犯してしまうことになる。すなわち、軍事戦略のレベルであれ国家戦略のレベルであれ、第二次世界大戦前からリデルハートは、攻勢に対する防勢の完全な優位を主張し続ていたのである。

 リデルハートによれば、自らが唱えた集団安全保障と限定関与という国家戦略が帰着するところは、封じ込め以外には考えられなかった。そしてそのためには、抑止力を強化することが求められたのである。だが、戦間期や第二次世界大戦初期を通じてリデルハートが、ドイツに対する包括的な安全保障戦略構想として封じ込め、限定関与、そして、抑止などを明確に打ち出せば打ち出すほど、彼は極端なまでに防勢の優位を主張することになる。すなわち、ドイツ側であれ連合国側であれ、攻勢が成功する可能性を少しでも考えることは、それだけで彼の戦略概念の根底を切り崩すことになったのである。前述したように、リデルハートは相互に破壊することなく、敵・味方がともに安全保障を確保できる唯一の方法が「冷たい戦争」であると考えていた。こうした皮肉なことには、第一次世界大戦前夜に「過剰な攻勢主義」が広く唱えられていたことに反発するかのように、この時期のリデルハートは、「過剰な防勢主義」とでも呼ぶべき、根拠に乏しい戦略を強引なまでに唱えていたのである。

 実は第二次世界大戦前、防勢の優位と集団安全保障や限定関与政策との関連は、フランスや東ヨーロッパの同盟諸国の安全保障に対するリデルハートのアプローチにとっては決定的であった。イギリスはヨーロッパ大陸に大規模な陸軍派遣軍を送る必要がないという認識(あるいは、せいぜい小規模な機械化部隊を派遣すればよいという認識)、フランスはドイツに十分に抵抗できるとの認識、仮にフランス軍がイギリス軍によって増強されたとしても西ヨーロッパでのドイツに対する大規模な攻勢は成功しないという認識、そして、ソ連の支援があればチェコは長期間にわたってドイツに抵抗できるとの認識は、すべて相互に密接に関連しており、防勢の優位という前提に大きく依存していたのである。

2022年2月20日日曜日

20220220 1800記事到達までの当ブログの進め方について②

気が付くと、先月末に1700記事に到達してから、さらに12記事作成していました。そして、この調子にて記事作成を続けますと、あるいは今月中に1720記事に到達することも可能であるかもしれません・・。

1720記事といえば、新規目標として定めた1800記事まで、1700記事からはじめて、五分の一に至ったことになりますので、私の感覚としては、これは速やか且つ順調な進み具合であると云えます。

さて、以前にも述べたことではありますが、この1700~1800記事の作成においては、書籍からの引用記事を多用しようと考えており、また、その考えは大きく変化していません。しかし、自らの文章にて作成出来る時は、やはり、自身で作成した方が良いと思われますし、何より、スランプに陥った時の解決策として「引用記事の作成」があることは、自転車操業である当ブログ運営者(私)からしますと、大変ありがたく、また、そうであるために、それ(引用記事)を多用、濫用することは避けた方が良いのではないかと思われるのです・・。

また、本日に関しては、さきほど「今日は自分の文章で・・」と思い立ったわけですが、こうして「思い立つ」ことは決して毎日というわけではありません・・。あるいは、もっと規則正しい生活を送るように心掛ければ、いくらかは良くなるのかもしれませんが、それでも、1000記事到達以前の頃と比べてみますと、明らかに記事作成に対する熱意のようなものは減衰していると云えます。しかしまた、他方においては、これまでブログを続けてきた経験により、あまり熱意を必要とせずに、毎日ではないにしても、どうにか記事作成が出来るようにもなってきました。こうした様相には、ある程度普遍的な要素があり、あるいは技術全般には、何かしら、そうした要素が付随するのかもしれません・・。

そして、これまでを要約しますと「今回の1700~1800記事においては、書籍からの引用記事を多用しつつも、それは一種の安全弁としてであり、実際には、出来るだけ自分の文章による記事作成を行う」といった主旨になりますが、こうしてまた文章として述べてみますと、この主旨も、自分の胸中にある考えとは若干異なるように感じられてくるのです・・(苦笑)。

その理由は、これまでに投稿してきた引用記事も、投稿後、ある程度の期間が経過した後に、それを新たにツイッターなどで発信することにより、その引用の文章の意味合いなどが以前とは異なって感じられ、そしてまた、その感覚を契機として、新たな、それに関連すると思しき書籍記述を引用記事としてみたくなるのです・・。この感覚は、当ブログにて引用記事をある程度作成した頃から生じたものであり、また最近に至っては「この感覚には何か大事なものが含まれているかもしれない」と考えるようにもなりました。そして、自分なりにこの感覚を、より精緻なものとして、さらに拡がりを持たせるためにも、書籍からの引用記事をさらに増やすことは、必ずしも悪い選択肢ではないと考えるに至ったことが、その理由にあると云えます。

あるいはこの状態を異言しますと、これまでのブログ記事の作成において「自らの文章」と「書籍からの引用」による「拮抗・緊張」のような状態が生じており、また自分としては、その状態があるからこそ1000記事到達後、しばらく経った現在のような状況であっても、どうにか継続することが出来ているのではないかとも思われるのです・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2022年2月19日土曜日

20220219 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.147-149

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.147‐149

 志士によるテロ活動の対象は外国人だったが、外国人のために働いたり、外国人に媚びを売る日本人も数多く襲われた。1860年、ある志士の一派が、日米修好通商条約の調印を進めた大老井伊直弼の首をとる。日本人による外国人襲撃事件のなかでとくに目立つのが、薩摩藩士と長州藩士がかかわった1862年と63年のふたつの事件だ。1862年9月14日、28歳のイギリス人商人チャールズ・リチャードソンが生麦村の路上で薩摩藩士に刀で切りつけられ、そのまま失血死する。薩摩藩主の父親を含む行列に対して礼儀を欠く行為をしたというのがその理由だった。イギリスは損害賠償と謝罪および実行犯の処刑を、薩摩のみならず幕府にまで要求した。イギリスと薩摩との1年近くつづいた交渉は決裂し、ついにイギリスの艦隊が薩摩の城下町鹿児島に砲撃をしかけ町の大半を破壊した。ある推計では、薩摩藩士1500人が死亡したという。

 もう一つの事件は、1863年6月下旬に起った。長州が沿岸に設置した砲台から西洋の艦船を攻撃し、本州と九州を隔てる要である馬関海峡(関門海峡)を封鎖したのだ。1年後、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの17隻の軍艦から成る連合艦隊が砲台を砲撃で破壊し、残っていた大砲も陸戦隊が上陸して持ち去った。

 このふたつの西洋による報復で、薩摩や長州の好戦的で過激な攘夷派も、さすがに西洋の大砲の威力を思い知らされ、まだ脆弱な日本の現状では外国人を追い出そうと努力するだけむだだと悟った。急進的な攘夷派とて、西洋に引けを取らない軍事力を日本が手に入れるまで待たねばならない。皮肉なことだが、それは、攘夷派が激しく非難していた幕府が進める政策であった。

だがここにきて薩長をはじめとする一部の藩は、江戸幕府は西洋と対抗できるところまで日本の国力を強化できない、と確信するにいたった。西洋の技術を導入するという目標は幕府と共通するものの、この目標達成には日本の政府と社会を再編する必要がある、というのが倒幕派の大名たちの出した結論だった。そこで大名たちは、しだいに将軍を出し抜くための方法を画策しはじめる。それまで薩長は、対抗心を燃やし、互いを信頼せず、ずっと争ってきた。だが、江戸幕府の軍事力強化が双方の藩にとって脅威となることを認識した薩長は手を組むことにする。

 1866年に14代将軍家茂が死去すると、15代将軍慶喜は近代化と改革に集中的に取り組みはじめる。フランスから軍備を輸入し、軍事顧問を呼び寄せたのもその一環である。これにより、薩長は危機感をつのらせた。1867年に孝明天皇が崩御すると、15歳で明治天皇が即位する。薩長の藩主らは、明治天皇の外祖父と共謀して、朝廷の後押しを取り付けた。1868年1月3日、門を封鎖して人の出入りを制限した京都の御所のなかで、討幕派の有力大名が会議を開き、徳川将軍家の領地を取り上げて官位官職を奪うことと、幕府廃止が決定され、将軍辞職が認められた。武家政治の終焉である。この会議の決定では、天皇に統治大権が戻る(王政復古)という神話が強調された。実際には長年にわたり、統治の実権はずっと幕府が担っていたものだった。これらが明治維新として知られる出来事であり、ここから新たな支配体制の時代、明治時代がはじまる。

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻
ISBN-10: 4532176794ISBN-13: 978-4532176792

2022年2月18日金曜日

20220218 昨日のブロガーでの閲覧者数、および一昨日投稿の【架空の話】・其の83から思ったこと

本日はほぼ終日外出しており、また、その間、スマートフォンを操作することはなかったことから、当ブログおよびツイッターでの新規の動きはありません。そして、つい先ほど(22:20頃)帰宅し、ブログを開いてみますと、昨日のブロガーでの閲覧者数が1400以上となっていました。この値は、直近1年間では最も大きかったことから、驚きつつも、さらにどの記事が多く読んで頂けたのかと調べてみますと①「20210228 先日ラーメン二郎目黒店さんを訪問して不図思い出したこと・・」、②「20200411 おかしくなれる時期と(非典型的)知性について」そして③「20210827 既投稿記事をいくつかまとめたもの①」が上位3記事となっていました。

これら3記事内容に関しては、特に共通する要素はないと思われますが、同時にそれらは部分的に書籍からの引用はあるものの、基本的には、自身の作成した記事・文章であることから、やはり、それなりに嬉しく、また、そこから、ここでの新規作成記事の題材としている次第とも云えます・・(笑)。

それに加え、一昨日投稿の「20220216【架空の話】・其の83 【モザイクのピースとなるもの】【東京訪問篇③】」もまた投稿後2日としては、かなり多くの方々(55)に読んで頂いており、やはり自身の作成記事としては相対的に一連の【架空の話】が多くの方々に読んで頂けていることを再認識しました・・。

さきの3記事および【架空の話】・其の83をはじめとして、当ブログの記事を読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。そしてまた、出来ましたら、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

そういえば、昨日、本日での外出は電車での移動を伴いましたが、その移動時に何か書籍を持とうとしましたが、生憎、適当と思しき読み途中の書籍が見当たらなかったことから、偶々目に付いた、革のブックカバーを掛けてある加藤周一著「日本文学史序説」上巻を手に取り、電車内にて読みましたが、久しぶりということもあってか、新鮮な興味を以て読み進めることが出来ました。

当著作からは、上下巻を通じ、特に当ブログ初期において、少なからず引用記事を作成していましたが、その理由が、我がことながら、今回の移動時での読書にて、あらためて理解出来たように感じられました。

過去の自分の行為においては、時間の経過と共に、往々にして、その時の行為の根拠にあった感覚を忘れてしまいがちですが、上述のように、はからずも追体験してみますと、過去に意識した行為が時間の経過と共に無意識化、そして忘却されて現在に至っていることが理解出来るのですが、思いのほかに、こうした経験は重要であるように思われましたが、さて、如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2022年2月17日木曜日

20220216【架空の話】・其の83 【モザイクのピースとなるもの】【東京訪問篇③】

D先生は、これから我々が訪問する歯科医院の院長宛てに名刺裏に紹介状を認めてから、おもむろに傍らに置いてあったスマートフォンを手に取り電話をかけた。そして、しばらく待ってから繋がると・・

「ああ、先日はどうもりがとうございます。ええ、それで、今回は前に少し話したK医療専門職大学の口腔保健工学科の件だけれども・・いいや、歯科衛生士の口腔保健学科じゃなくて、歯科技工士の口腔保健工学科の方だけども・・そうそう、今日、その学科の先生と、もう一人、K大歯科理工学講座の院生がR先生の医院見学を希望しているのだけれど大丈夫ですか?・・・ああ!本当ですか、それは良かった・・。じゃあ、今日の昼過ぎ14:00くらいに、二人が私からの紹介状を持参してそちらに伺うようにしますので、よろしくお願いします。・・いや、今回もまたどうもありがとうございます・・。ああ、それと、今日はK医専大OGで歯科衛生士のCさんが、そちらでのバイトの日であったと思いますので、時間に都合がつくようでしたら彼等と会わせてあげてください・・。」とのことであった。

そこで我々はD先生が認めた紹介状を受け取り、また後日訪問させて頂く旨を伝えて挨拶をしてから医院を辞した。時刻は正午少し前であり、ここからR先生の医院までは、1時間以上はかかるであろうとのことから、先に医院近隣まで移動をして、その付近にある飲食店にて昼食を摂るのが良いだろうということになり、取り急ぎ、電車にて移動することにした。

R先生の医院は東京東部のどちらかと云うと千葉県に近いところに立地しており、それは、今回の出張でのE先生の宿泊先ホテルがある千葉県I市とも、電車にて数駅ほどのところであった。

そうした事情や時間帯もあってか、空(す)いていた移動中の電車内でE先生は、御自身の学生時代の話をよくされた。そしてD先生とR先生の医院の丁度中間点とも云えそうな御茶ノ水駅に到着した時、E先生は神田川側の窓の外を控えめに指差しつつ「明日はここの大学に行こうと思っているけれども、ここはどちらかと云うと、ガチの研究大学だから、専門職大学の実務家教員とはチョット違うんだよなあ・・。まあ、それでもいい情報を入手することは出来るかもしれないからなあ・・。」と周囲の環境から、何となくコトバ使いが学生時代に戻っているようにも感じられたが、E先生の方は全く構う様子はなく、さらに話を続けられ、学生時代によく通っておられたという、御茶ノ水仲通りと甲賀通りが交差する場所にある*トールコーヒーにて遭遇されたという出来事を幾つか話されたが、いずれも、それなりに興味深いものであった・・。ともあれ、あの界隈では歯科大学や歯学部が複数存在するために、そうしたことも自然と見聞きされるのであろうと思われたが、同時にその環境は、当時の私にとっては、何やらとても縁遠いものであると感じられた・・。しかし、元来、首都圏出身である私は、そうしたことを感じることはなかったのだが、これまで5年以上、あまり外に出ることもなくKで生活していたためか、首都圏、東京での、さまざまな環境がどうも「違う世界のもの」のように感じられるのであった・・。他方、E先生の方は、普段よりも少し陽気に、そして多弁になっておられた。やがて、我々が乗った電車は隅田川を渡り、さらに東の千葉方面へと走り、R先生の医院に近づきつつあったが、こちらの地域に関しては、私の方が全く不案内であり、E先生の方が、かつての通い慣れたる通学路であったことから、上記のような感じであったのかもしれない・・。やがて電車が最寄り駅に着いて、下車すると、これまでに知らなかったような風情の街並みが広がり、また、駅南口のロータリーを突っ切った先からはじまる商店街も、正午過ぎという時間帯であったことからか、かなりの賑わいを見せていた。

R先生の医院は、この商店街を最後まで行き、そこから左手に曲がり、さらに南に進んだ先にあるとのことで、また、我々としては、ある種の観光気分もあったことから、この商店街の中を歩いて行こうということになった・・。

そして、商店街に入ってすぐにE先生が「おお!」と少し驚かれた様子を見せたため、そちらの方を眺めやると、果たして、その先には、これまでに何度かE先生との会話にて話題ともなった天丼で知られる「て*や」があった。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2022年2月14日月曜日

20220114 しばらくオリジナルの記事作成を休止していて思ったこと

しばらく、書籍からの引用にて記事を作成してきて、また、この進め方であれば、今後もさら無理なく続けることが可能であるように思われましたが、このあたりにてオリジナルの記事を作成しておこうと思い立ち、つい先ほどから記事作成を始めた次第です・・。

しばらく、自身文章による記事作成を行わなかったものの、この休息期間によるものか、特に苦痛を感じることなく、この程度まで作成出来ています。そこから、これまでオリジナルの記事を作成する際は、その作成に費やした時間でなく、ある程度、文章としてまとまり、読めるものにすることを主眼としてきましたが、ここでは少し趣向を変え、費やす時間を定めて、記事作成を切り上げようと思います。

具体的には、今後30分間までとします。しかし、これまでとは異なり、予め作成に充てる時間を決めてかかりますと、不思議なことに、書籍を読んだり、ニュース動画などを視聴して、作成記事の主題を検討することよりも「とりあえず何かしら文章を作成してみよう。」と、キーボード上の手を動かすことに重点を置くようになります・・(笑)。

端的には「習うより慣れよ」といったところであるかもしれませんが、そのようなことを文章として作成していますと、また不思議なことに、かなり以前も、そのようにして記事作成を行っていた時期があったという感覚・記憶が思い出されてきます。

それは、当ブログをはじめて2年目頃であり、当初1年目は、以前にも述べましたが、ノートに実際に手書きにてブログ記事(当時は対話形式のものが主でした)を作成していましたが、この手法に慣れてきますと、次は「手書き」を介さず、直に記事を入力するようになりましたが、当時の(弱っていた)私としては、この程度の変化も、かなり大きく感じられたものでした。また、実際に、この変化がなければ、当ブログが現在に至るまで(どうにか)継続していたかは不明であったとも云えますので、それはそれで重要な契機ではあったのだとは云えます。

その後、直入力での記事作成に慣れてきますと、また面白いもので、新たに記事作成へのスランプといった事態が生じてくるのです。つまり、記事作成手法の変化(手書き→直入力)によっても、スランプ自体は変わりなく生じるということであり、おそらく、これは今後、作成の手法がさらに変化したとしても、変わることはないと思われます・・。

また、あらためて面白いことに、現在作成している当記事においては「スランプ」という自覚は皆無であり、あの記事作成時の重苦しいような感覚はありません。

そして、こうして休息期間の重要性をあらためて認識するのですが、ここにきて、さきに定めた時間に到達しそうであるため、今回はここで記事作成を止めます。また、次は【架空の話】の続編を作成したいと考えています。

また、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2022年2月13日日曜日

20220213 作品社刊 関口高史著「戦争という選択」pp.96-98より抜粋

作品社刊 関口高史著「戦争という選択」pp.96-98より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861828643
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861828645

我が国は「持たない国」である。

 海で囲まれ、資源を他国に依存している。一部の研究者は、日本は「持たない国」ではなかったと定義している。彼らの主張は、日本が世界平均と比べ、決して貧しい国ではなかったとする。

 しかし、それには同意できない。なぜなら「持つ」または「持たない」を分けるものは、その国の産業構造と主要資源の保有量などが影響する。特に、当時の時代背景や主要産業を考慮すれば、石炭や石油、それに鉄などが大きな資源であった。

 そして、そのどれもが日本には不足していた。特に為政者たちが最も気にしていたのは石油などの液体燃料だった。戦争原因の大きな理由の一つにもなり得るものだった。この問題を見誤ると、結論が全く違うものになってしまう。

 また、ただ単に冨の再配分の問題では終わらない。確かに日本の経済は成長しつつあった。逆に資源があるだけで産業化されていなければ「持つ国」と言えないゆえに、日本が「持たない国」ではない、と言切るのは早計ではないだろうか。その後、「持つ国」である英米と「持たない国」、すなわち日独伊の対立は昭和7年(1932年)のオタワ会議以降、益々拡大していったのである。それがブロック体制の構築を進める結果になったからだ。

 日本はこのような危機的状況から、どのように脱却したか。結論から言うと、唯一の解決策と考えたのは中国への進出と、それに続くブロック経済圏の構築だった。その経緯はどのようなものであったのか。

 これは軍主導による経済領域の視点から日本の行動を見ていくことに他ならない。また、この問題は米国との関係のみではなく、日本の国際的孤立を招いたという点で国際情勢の流れと切り離して考察すべきではない。

 まず大正デモクラシーの終わり、汚職などによる既成政党への不信感、立憲君主制の限界などから、国民は政治の無力さを感じるようになっていた。国民が次に期待をかけたものは何か。それは軍、中でも青年将校だった。

 日本では、軍は国体とともに国民を護る存在であるとされていた。その上、彼らは老獪な政治家や莫大な富を誇る財閥などとの関係が薄いと見られていた。しかも青年将校らはエリート教育を受けていた。旧来の国策の後継者ではなく、新たな国家の創造者を自任する者も多くいたのである。

 また日本の都市には失業者が溢れ、農村の疲弊はひどかった。多くの軍人、特に下士官・兵は農村出身者だった。このため将校も多くの場合、純粋な気持ちで、この状況から抜け出さなくてはならないと感じていた。さらに陸軍は各歩兵連隊へ天皇自ら軍旗を親授し、「天皇の玉体を仰ぎ見る」のと同じ尊崇の念を抱くように国民にも徹底してきた。

 加えて、青年将校らは若い天皇という純粋潔白なイメージと重なった。すなわち、最も大きな視点から見れば、日本の指導者層あるいは指導勢力の新旧交代の時期に入ったとも言えるのである。これは大正時代から見られる傾向だった。

 大正時代には西園寺公望を除いて、元老が相次いで世を去った。その上、大正天皇も病弱で最高調整機能を十分に発揮できなかった。よって大正期の政策決定は次第に混迷の度を深めていった。このような傾向は昭和時代に入ってますます深刻化した。

 国家の政策決定を一元化する道は統治権の総攬者である天皇の裁定を俟つよりほかはなかった。しかし明治憲法に忠実な昭和天皇は立憲君主の分限を厳守し、その埒外に出ることを慎んだ。

 そのため、特に控え目に表明される天皇の意思も、いわゆる「君側の奸が聖明を覆うもの」と解せられ、徹底されなかった。よって調整の方途を見失った日本の政治・外交は、ついに一大破綻の悲劇を見るに至ったのである。だからといって、それ以外の領域、つまり経済、文化、社会などに期待しても恐慌から脱却するのは難しかったであろう。

 そこで軍が恐慌からも国民の生活を守る存在であることを期待されたとしても不思議はない。また軍は武力を用い、現状打破を具現できる専門集団であった。しかも、その目的は国民の望むものだと思われていた。

 そのような意味で日本国民が国家に何か期待する際、真っ先に思い浮かぶのは身近な存在である陸軍だった。また軍人も国内で、あるいは満州で、さらには南洋諸島などで民を護る存在であることを自負していた。

 その後、青年将校による暴発が続くのであるが、それらに対しても国民から絶大な期待が寄せられていた。急進的な青年将校たちは「天皇親政」という名目で天皇個人のリーダーシップを引き出そうとしていたのだった。なす術のない国民の中には袋小路に入った苦境を何とかしてくれる救世主と感じる者もいた。

 政府は五・一五事件では有効な防止策を講じられなかったばかりではなく、事件の首謀者たちの主張を国民に広める結果となった。ただし、二・二六事件という最大のクーデター未遂事件が発生した際には、昭和天皇の時勢に流されない英断で事態は収拾されるのだった。

 ただしクーデターは失敗したが、失ったものも少なくなかった。多くの優秀な人的資源はもちろん、思想や考え方が違えば力づくでも排除できることを示す事例の一つとなったのである。思想の亡失、あるいは良心・良識の喪失である。これ以降、自由な意見を議論する場の消滅が顕著になっていくのだった。

 また下からの改革こそ、真の改革であり、その実例が「明治維新」であった。多くの国民の支持を背景に「昭和維新」の断行を企図した青年将校たちの行き場を失ったエネルギーは二・二六事件以降、北支事変に始まる一連の対外膨張へと吸収されていくのだった。

2022年2月12日土曜日

20220212 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 pp.554-557より抜粋

株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻
pp.554-557より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4334733433
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334733438

「うう、負け戦のことは、もうええ、とにかく、そういつもいつも柳の下に泥鰌はおるめえちゅうことよ。階上班の古年次兵どもが、わがたちもアメリカ遠征軍になったごたぁる気色でしゃべっとるとを聞いてみりゃあ、サン・フランシスコに敵前上陸した暁にや、その足で脇目も振らじにハリウッド目がけて突進して、それこそ「逢うときに笠をぬげ。」じゃ、いっち上物(美人)からやり始めて順繰りに、わが身の破甲榴弾(男根)が続く限り、金髪女優たちを総嘗めにしちゃる、なんち吹きまくっとる。そのうちに貴様たちも思い当たるじゃろうが、これが座興の駄法螺でもあり長い目で見りゃ正真正銘の本心でもあるちゅう所が、軍隊のー戦争の摩訶不思議よ。まあ駄法螺にしろ本心にしろ、どっちみち勝手な熱でも上げとらんことにや、こげな守備地の兵隊もやり切れめえけん、そりゃそれで構わんじゃろう。ばってん、敵もおなじ頭で日本の女子たちを狙うとるちゅうことは、覚えていたほうがええ。」

私は大前田の言いぶりに淫猥軽薄の気を感じなかった。かえって、ある根源的な恐怖をもって、私は謹聴した。大前田が、語り続けながら西むきになって、火砲の北側を砲口のほうへ動き始めると、彼の、それまではいっそ切々として私語のようでもあった語調が、そこいらから嘈嘈たる急雨のおもむきを持った。

「ええか、ハリウッド女優を組み伏せる夢は見放題じゃが、やがて階上班の連中やらお前たちやらが持って行かれる先は、遠い海の向こうは向うでも、サン・フランシスコでもロス・アンジェルスでもありゃせん。」野砲の向こう勝手、車輪の脇に達した大前田が、東にひらりと身をひるがえして、動きを止めた、「南方じゃ、歌の文句で皆さんご承知の「赤道直下なんとか群島」の見当じゃ。おぉ、人事じゃない。おれもおなじよ。日本も、「乗りかかった船」で、今更こっちから止めもなるめえし、なおさら負けるわけにはいくめえ。その熱帯の島島で、新手の大軍を向うにまわして、これから先が本物の大がかりな殺し合いよ。敵も味方もトツケモナイ死人の山じゃろう。この前の大陸じゃ運よういのち拾いをして帰って来られたが、今度はおれもたいがい助からんと覚悟しとる。お前たちもそう心を決めとけ。うう、おたがいさまに、行きとうして行く南方でもなけりゃ、しとうとしてする人殺しでもないぞ。しかし行ったからにゃ、内地じゃ人一人殺した覚えもないこのおれが、敵の毛唐どもをならべといて、榴散弾・曳火信管の零距離射撃、水責め火責め、一寸試し五分刻みに、支那でやった数を上まわるぐらい、思う存分たたき殺してやる。敵と名のつく奴たちにゃどいつにもこいつにも仮借はせん。そうこうしよりゃ、いずれこっちが反対に打ち殺されて、煮つけにされた魚のごたある目を剝いて南方の赤土の上にひっくり返らにゃなるめえばってん、おれも目ん玉の黒いうちは、当たるをさいわいに、ありとあらゆる方法で、殺し散らかしてやるぞ。また国は、軍は、そうさせるつもりでおれたちを行かせるとじゃろうが?殺す相手は、日本人じゃない、毛唐じゃろうが?敵じゃろうが?殺して分捕るが目的の戦争に、余計殺して余計分捕ったほうが勝ちの戦争に、「勝ちゃ官軍、負けりゃ賊軍。」の戦争に、殺し方・分捕り方のええも悪いも上品も下品もあるもんか。そげな高等なこと言うとなら、あられもない戦争なんちゅう大事を初手から仕出かさにゃええ。いまごろそげな高等なことは、大将にも元帥にも誰にも言わせやせんぞ。」

 ゆくりなくも私の心は、「保元物語」における「梟悪頻リニ聞コエ、狼藉尤モ甚ダシキ」鎮西八郎為朝の「武士たるものは殺業なくては叶はず。それに取っては、武の道非分の者を殺さざるなり。依って為朝合戦すること二十余度、人の命を断つ事数を知らず。されども分の敵を討って非分の者を討たず。」という言葉を呼び出していた。たしか「内地じゃ人一人殺した覚えもない」にちがいなかろう大前田文七の「殺す相手は、日本人じゃない、毛唐じゃろうが?敵じゃろうが?」は、「幼少より不敵にして、兄にも所をおかず、傍若無人なりし」八郎御曹司の「分の敵を討って非分の者を討たず。」に相当する言い分ででもあるのか。

 大前田軍曹は、みたび左手で逆につかんだ帯剣の柄を前下に押し下げ、つと横に差し伸べた右手を車輪の上方輪帯に掛けて、凛然と胸を張った。

「この野砲のことが、『操典』になんと書いてあると思うか。「各種活目標ヲ殺傷シ」と書いてある。『各種活目標』ちゅうとは、馬なんかもそうじゃろうが、主に人間のことじゃ、敵国人のことじゃ。火砲の榴散弾は、たくさんの「活目標」を一纏めに吹っ飛ばすために出来とる。毒ガスの使用は国際条約で禁止されとっても、戦争がありよる以上、どこの間抜けな国がそげな条約を守るか。各国が作って持っとって、ここぞというときにゃばら蒔くちゅうことは、公然の秘密ぞ。殺人光線か電気砲か知らんが、相手方の戦争員も非戦闘員も一緒くたにして、いちどきに何万人も何十万人も皆殺しにしてしまうごたぁる新兵器でも早う拵えて、早う使うたほうの国が勝とうちゅう戦争に、殺し方のよし悪しを詮議しとる必要はない。なにがなんでも、『各種活目標ヲ殺傷シ」の一本槍で進むまでよ。」

 それで大前田の長広舌も、ついに終わったとみえた。片手に火砲の車輪をつかみ片手に帯剣の鞘を逆立てた勇壮な姿勢のままで、大前田は、両唇をしっかり結んだ。また静寂がわれわれを訪れた。

 大前田演説の全体は、多くの鮮烈な印象を私に刻み込んだが、この静寂の間、私は、ほかのことを考えなかった。日に照る三八式野砲を片えにした大前田の(いかにも「歴戦の勇士」という評判にふさわしい)屈強な立ち姿を眺めながら、私は、これも「保元物語」の為朝初登場場面を頭の奥で暗誦していた。そこは、「保元物語」の中で、私の好きな箇所の一つである。

 為朝は七尺許りなる男の、目角二つ切れたるが、紺地に色色の糸を以て、獅子丸を縫ったる直垂に、八竜といふ鎧を似せて、白き唐綾を以て縅したる大荒目の鎧、同じき獅子の金物打ったるを著る儘に、三尺五寸の太刀に熊の皮の尻鞘入れ、五人張の弓、長さ七尺五寸にて釻打ったるに、三十六差したる黒羽の矢負ひ、兜をば郎等に持たせて歩み出たる体、樊噲も斯くやと覚えてゆゆしかりき。謀は張良にも劣らざれば、堅き陣を破る事、呉子孫子が難しとする処を得、弓は養由をも恥ぢざれば、天を翔る鳥、地を走る獣、恐れずといふ事なし。上皇を始め進らせて、あらゆる人人、音に聞ゆる為朝見んとて挙り給ふ。

2022年2月11日金曜日

20220211 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.243-246より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.243-246より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

独墺合併が当時のヨーロッパを聳動させたということはいうまでもない。しかし、かつてはその実現を阻止するためには武力干渉を辞しない決意を示したイタリアは、今は終始傍観の態度を持したのであった。イタリアは当時すでにドイツへ著しく接近するにいたっていた上に、対アビシニア戦争のあとをうけてその主たる関心をアビシニアとイタリア本国とを結ぶ連絡路としての地中海へ注ぐにいたっており。しかも、この地中海に関してもまたイギリス・フランスに対抗する関係上ドイツの支持を将来にわたって必要と考えていた、オーストリアの独立保全に対するイタリアの関心は、こうして、もはや著しく冷却するにいたっていた。独墺合併後、ムッソリーニは演説して、「山々の彼方の国民(オーストリア人を指すー著者)は、1934年にわれわれがなしえたことに関してわれわれの注意を喚起するという憂鬱な単純さを依然もっている。けれども、われわれは答える、あの年以来多くの水がテヴェレの、ドナウの、シュプレーの、テームズの、そしてセーヌすらもの橋の下を流れたのである。この時期の間に、イタリアは巨大な、そして血塗れの努力をしながら、われわれの未だに忘れ得ないあの制裁がイタリアの上に課せられるのを経験したのである」と述べた。彼はこのような言葉でオーストリア問題に対するイタリアの態度変化を説明したのであった。他方、イギリスおよびフランスは独墺合併についてドイツのとった手段に対して抗議しながらも、オーストリアの事態に対して戦争を賭して干渉する意志は全くなく、傍観的態度を持したのであった。しかし、このような中でソ連邦はドイツが独墺合併によって東南ヨーロッパへ膨張したのに対して警戒の念をいよいよ深くし、ドイツの今後の侵略を防止すべき方法について四国会議をひらくことをイギリスに提議したが、イギリスはこれを拒否したのであった。チェンバレン首相は議会においてソ連邦のこの提案について述べて、それはヨーロッパが二つのブロックに分裂している現状をさらに悪化させてイギリスを必然的に戦争へ導くものであるとなし、宥和政策の立場を依然堅持する旨を明らかにしたのであった。
 しかし、独墺合併がヨーロッパの政治地図を変えたことの意味は、きわめて大であった。昔から「東南ヨーロッパへの門」と考えられていたウィーンをその掌中に収めることにより、ドイツ軍はハンガリー平野の端を抑え、バルカン半島の入口に立つにいたったのである。また、独伊両国が今や遂に国境を相接するにいたった結果として、フランスが小協商諸国およびポーランドに軍事的援助を提供することは全く困難となった。けれども、当面の最も重大な結果は、チェコスロバキアの版図の約半ばがドイツの領土によって包囲された形となり、しかも、その部分の中にはドイツ人を主要人口とするズデーテン地方が含まれていたことである。そこで、ドイツの膨張計画の次の対象はチェコスロバキアであろうということが、いち早く噂されるにいたった。そして、現に独墺合併の直後からヘンライン(K. Henlein)を党首としたズデーテン・ドイツ党(Die Sudetendeutsche partei)の運動を中心としてズデーテン地方の事態は早くも著しい不穏を呈することになった。このズデーテン・ドイツ党はその創立以来ドイツ外務省から資金的援助を仰ぎ、ドイツ政府の指令にもとづいてその運動を行ってきたのであったが、同党は、独墺合併の翌月にはズデーテン地方に関して高度の自治を要求するにいたった。そして、この前後を通じて同党はこのズデーテン地方のドイツ人とチェコ人との間の衝突を極力挑発することを試み、それによってズデーテン問題を同地方の被抑圧少数民族の問題として世界に強く印象づけることを努めたのである。このような中で、チェコスロバキア政府は同党に対して譲歩的態度をもって折衝し、極力交渉の妥結をはかったのであるが、ドイツは同党を操って解決を常に回避する方針をとらせて事態を紛糾させ、ドイツがチェコスロバキアへ干渉する口実をつくり出すことを企てたのである。そして、遂にヒットラーはズデーテン地方のドイツ人をその迫害の渦中から救い出すためには実力行使をも辞さない態度を示すにいたった(9月)ここに及んで、ヨーロッパ国際政治はズデーテン問題を中心として正に重大段階に到達することになった。
 さて、当時の険悪化した国際情勢の下において、一たびもしドイツとチェコスロバキアとの間に戦火が閃くにいたった場合、その戦争がいかなる規模のものへ拡大するかは到底予測を許さなかった。このような情勢を前にチェンバレンはヒットラーと会談し、事態を平和的に収拾することを企てた。しかし、その間においてヒットラーはベルリンにおけるその演説において述べて、現下の事態はパリ平和会議がその標榜した民族主義の原則を適用しなかったことに由来するとなし、チェコスロバキア政府が国内少数民族に対して無慈悲な抑圧を加えてきたことを述べて、これを痛撃し、またチェコスロバキア、ソ連邦間の相互援助条約に論及して、ボリシェヴィズムはチェコスロバキアを中央ヨーロッパへの進出の拠点として利用していると強調し、しかも、述べて、ズデーテン問題が解決をみた暁にはドイツはもはやヨーロッパに関して何ら領土的要求をもたない旨を断言したのであった。

20220210 株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著「軍閥興亡史」第一巻 日露戦争に勝つまで pp.21-23より抜粋

株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著
ISBN-10 ‏ : ‎ 4769829795
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769829799

 いわゆる神風が、十万の蒙古軍を博多湾頭に沈めてから、ほとんど六世紀におよぶ長い間、日本は幸いにも外国の侵略から無事であった。渺たる遠海の島国が、西欧列強の視界外に遁れていた形である。

 五百八十何年目かに、外国の砲弾が日本の国内で炸裂した。文久三年(1863年)の薩英戦争がそれであった。生麦事件(島津久光の行列前を馬で横切った英国人を斬る)に対する英国の謝罪および賠償の要求を、薩摩藩が嘲って一蹴し、徳川幕府は無力で相手にならないので、英国は支那艦隊を派して直接談判に赴いたのである。ところが、薩摩の方では、むしろ「待っていました」という肚がまえであった。談判には応じるが「屈するなかれ」という前提で発足した。主君行列の道路先を横切るごとき無礼者は、即座に誅するのが藩の法である。謝罪は先ず横切った側が先にせよ、しかる後に、葬式の費用その他が欲しいと言うなら話に乗ろうーという勢いである。これでは話にならない。

 談判の内容は省略するが、二日間で話がまとまらず、期間が尽きて、実力行使の段階に入った。が、実を言えば、薩摩の法では、初めから戦争になることを予期して、戦備をすまして待ちかまえていたのだ。

 鹿児島湾頭に現れたイギリス艦隊は、旗艦ジューリアスをはじめ、レインボー、アーガス、ハボック、パーサス、ピアール、コクエットの七隻であった。薩摩もつとに海軍を備えてはいた。この藩は国防の先覚者で、四隻の軍艦を持っていたが、(永平、白鳳、青鷹、天祐ー三百トン級)、それらは商船兼用の蒸気船と定義する内容のものであった。文久三年、旗艦永平丸が高風浪のために明石灘で沈没したので、残る三隻だけで英艦隊と対抗する立場にあった。

 「石が流れて木の葉が沈む」という浮世節の俗謡の起こりは「艦が沈んで大砲が浮かぶ」という流行唄であった。そうしてその順逆の皮肉は、薩摩の軍艦が行方不明となり、海上を捜索中に、大砲が漂流しているのを発見して、艦の沈没を確認したという実話から由来したものだ。薩摩の軍艦には、要部に鉄が使ってあったから沈んだが、大砲の方は木製であったから浮いて流れていたというわけだ。

 さすが剛気の島津勢も、弱艦三隻では太刀打ち出来ぬと考えて、もっぱら砲台に拠る作戦であった。天保山を中心に十一個の砲台を連ね、そこにオランダ式山砲八十二門が装備され、それで英艦隊を瞰射する手はずである。もし戦果不充分な場合には、多数の小舟を漕いで敵艦に横着け、乗り移って日本刀を揮い、乗員を皆殺しにして軍艦自体を分捕ろうという作戦計画であった。かつて河野通有らが、蒙古の軍艦に踊り込み、日本刀を揮って敵兵を薙ぎ倒した武勇伝を、五百八十年後の海戦において再演しようというのだ。戦術思想は少しも進歩していなかった。

 児戯笑うべし、とは今日から見た放言に過ぎない。当時の日本の常識はこの程度であり、薩摩のごときは最も進んでいた藩であった(慶応元年に藩費を以て二人の海軍研究生を西欧に派遣したように)。しかしながら鎖国幾百年、西欧の文明と実力についてはほとんど判っていなかったと言っていい。

 くわうるに、薩摩は攘夷の旗頭である。攘夷とは攘夷撃攘、すなわち西洋人の立入禁止の謂である。薩摩はそのリーダーとして三百余藩の中に重きをなしていたのだから、薩英戦争は、実は願ってもない好機会。この一戦において、武力の上で夷敵撃攘の腕前を見せるならば、言行一致満点、全日本は自らこの主義に掃一するであろう。藩士が振い起ったのは当然であった。

 文久三年七月二日、談判は不調に終わった。同時に英艦隊(司令官キューバ中将)は、ただちに薩の三艦を捕獲して錨地に曳航し去った。その前日から台風X号が九州南端を北上中で、湾内は激浪岩を噛み、薩の三艦はすでに行動の自由を失っていたのだ。これを見て、天保山砲台に開戦の火箭が上がり、各砲台一斉に射撃を開始し、英艦ただちに応じて、暴風中の戦闘が始まった。戦記に、「わが勇士中には真っ裸となり、下帯に大刀をさして夷敵撃滅を叫ぶものあり」と書いてあるような不屈の闘魂も、英艦主砲の斉射にたいしては、おそらく、空拳を以て機銃に立ち向かうの類であったろう。

 

2022年2月9日水曜日

20220209 今後1800記事到達までの当ブログの進め方について・・

先月末、目標としていた1700記事に到達したことから、しばらく、記事作成を休止していましたが、その間、特に変わったこともなく、あるいは、このまま、しばらく記事作成を休んでいれば、何かしら感じることも出来たかもしれませんが、本日に至り、半ばこれまでの惰性によるものであるかもしれませんが、記事作成をはじめた次第です・・。

そういえば、この10日あまりの記事作成休止期間では、それ以前と比べ、よく睡眠がとれたと思われましたが、同時に、この睡眠によって、いくらか体調が良くなるかと思いきや、そうでもなく、むしろ、これまで以上に睡眠時間を欲する自分に少し驚いています。

そして、自分の内面にて、そうした欲求の発見をしますと、どうしたものか、それを受容することが何だか怖くなり、ここに来て、それ以前の惰性が残っているうちに、ブログを再開しようと、前述のように記事作成をはじめたわけですが、ここに至るまでには、特に痛痒・苦痛をおぼえることなく作成を続けることが出来ています。

しばらくの休止期間後をはさんだ、久しぶりの記事作成であっても、この程度まで作成出来ていることは、ここに至っては、特に驚くに価すべきことではなく、それよりも、この作成している記事の主題が速やかに決まらないかと、願っています。

そう、当記事は、ここに至るまで主題が決まっておらず、取り急ぎ、これまでの流れとも若干関連があると思しき、当ブログの今後の進め方について述べて、先を進めて行こうと思い立ちました。

冒頭にて述べましたが、先月末、目標としていた1700記事への到達後、さらに数記事の新規投稿を行ったことから、これまでの精確な総投稿記事数は1703となっています。そうしますと、次なる目標として定めた1800記事まで、新規にて97記事の投稿を要することになりますが、これは今後、毎日1記事の投稿で、概ね3カ月ほどにて達成が可能ということになります。

また他方で、来る6月22日には、当ブログをはじめてから丸7年ともなりますので、現在(2/9)から4カ月、もしくは130日ほどの間に97記事の投稿が出来れば、丁度、丸7年を迎えるのと同時に1800記事への到達となります。

この目算によると、今後4カ月としばらくの間は、5日のうち4日は新規にて記事投稿をする必要性があることになりますが、これは現在の私にとっては、少し大変であるように思われます・・。

しかし、どうにかそれを出来るようにするためには、ここから1800記事までは、書籍からの引用記事を主とすることにより、どうにか進めることが出来るように思われ、また引用記事を作成することにより、自分の記事作成にも弾みがつくのではないかとも思われます。

書籍からの引用記事は、そればかりにて行っていますと、自分の文章をスムーズに作成することが困難になってくると思われますが、現在のような、未だ休息が足りないと感じつつも、記事作成を継続する必要があるという状況においては、それなりに適切な選択肢であり、また同時に、この1800記事に至るまでの期間に、これまでに作成した記事を適宜見直し、また必要があると思われた場合には、加筆修正を行うというのも悪くはないように思われました。

そこから、今後しばらくの間、1800記事への到達までは、上述のやり方にて記事作成を進め、また、既投稿記事の手直しなども随時行っていくこととします。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。