2022年2月11日金曜日

20220210 株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著「軍閥興亡史」第一巻 日露戦争に勝つまで pp.21-23より抜粋

株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著
ISBN-10 ‏ : ‎ 4769829795
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769829799

 いわゆる神風が、十万の蒙古軍を博多湾頭に沈めてから、ほとんど六世紀におよぶ長い間、日本は幸いにも外国の侵略から無事であった。渺たる遠海の島国が、西欧列強の視界外に遁れていた形である。

 五百八十何年目かに、外国の砲弾が日本の国内で炸裂した。文久三年(1863年)の薩英戦争がそれであった。生麦事件(島津久光の行列前を馬で横切った英国人を斬る)に対する英国の謝罪および賠償の要求を、薩摩藩が嘲って一蹴し、徳川幕府は無力で相手にならないので、英国は支那艦隊を派して直接談判に赴いたのである。ところが、薩摩の方では、むしろ「待っていました」という肚がまえであった。談判には応じるが「屈するなかれ」という前提で発足した。主君行列の道路先を横切るごとき無礼者は、即座に誅するのが藩の法である。謝罪は先ず横切った側が先にせよ、しかる後に、葬式の費用その他が欲しいと言うなら話に乗ろうーという勢いである。これでは話にならない。

 談判の内容は省略するが、二日間で話がまとまらず、期間が尽きて、実力行使の段階に入った。が、実を言えば、薩摩の法では、初めから戦争になることを予期して、戦備をすまして待ちかまえていたのだ。

 鹿児島湾頭に現れたイギリス艦隊は、旗艦ジューリアスをはじめ、レインボー、アーガス、ハボック、パーサス、ピアール、コクエットの七隻であった。薩摩もつとに海軍を備えてはいた。この藩は国防の先覚者で、四隻の軍艦を持っていたが、(永平、白鳳、青鷹、天祐ー三百トン級)、それらは商船兼用の蒸気船と定義する内容のものであった。文久三年、旗艦永平丸が高風浪のために明石灘で沈没したので、残る三隻だけで英艦隊と対抗する立場にあった。

 「石が流れて木の葉が沈む」という浮世節の俗謡の起こりは「艦が沈んで大砲が浮かぶ」という流行唄であった。そうしてその順逆の皮肉は、薩摩の軍艦が行方不明となり、海上を捜索中に、大砲が漂流しているのを発見して、艦の沈没を確認したという実話から由来したものだ。薩摩の軍艦には、要部に鉄が使ってあったから沈んだが、大砲の方は木製であったから浮いて流れていたというわけだ。

 さすが剛気の島津勢も、弱艦三隻では太刀打ち出来ぬと考えて、もっぱら砲台に拠る作戦であった。天保山を中心に十一個の砲台を連ね、そこにオランダ式山砲八十二門が装備され、それで英艦隊を瞰射する手はずである。もし戦果不充分な場合には、多数の小舟を漕いで敵艦に横着け、乗り移って日本刀を揮い、乗員を皆殺しにして軍艦自体を分捕ろうという作戦計画であった。かつて河野通有らが、蒙古の軍艦に踊り込み、日本刀を揮って敵兵を薙ぎ倒した武勇伝を、五百八十年後の海戦において再演しようというのだ。戦術思想は少しも進歩していなかった。

 児戯笑うべし、とは今日から見た放言に過ぎない。当時の日本の常識はこの程度であり、薩摩のごときは最も進んでいた藩であった(慶応元年に藩費を以て二人の海軍研究生を西欧に派遣したように)。しかしながら鎖国幾百年、西欧の文明と実力についてはほとんど判っていなかったと言っていい。

 くわうるに、薩摩は攘夷の旗頭である。攘夷とは攘夷撃攘、すなわち西洋人の立入禁止の謂である。薩摩はそのリーダーとして三百余藩の中に重きをなしていたのだから、薩英戦争は、実は願ってもない好機会。この一戦において、武力の上で夷敵撃攘の腕前を見せるならば、言行一致満点、全日本は自らこの主義に掃一するであろう。藩士が振い起ったのは当然であった。

 文久三年七月二日、談判は不調に終わった。同時に英艦隊(司令官キューバ中将)は、ただちに薩の三艦を捕獲して錨地に曳航し去った。その前日から台風X号が九州南端を北上中で、湾内は激浪岩を噛み、薩の三艦はすでに行動の自由を失っていたのだ。これを見て、天保山砲台に開戦の火箭が上がり、各砲台一斉に射撃を開始し、英艦ただちに応じて、暴風中の戦闘が始まった。戦記に、「わが勇士中には真っ裸となり、下帯に大刀をさして夷敵撃滅を叫ぶものあり」と書いてあるような不屈の闘魂も、英艦主砲の斉射にたいしては、おそらく、空拳を以て機銃に立ち向かうの類であったろう。

 

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