2023年9月12日火曜日

20230911 株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「観光客の哲学 増補版」pp.292‐294より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「観光客の哲学 増補版」pp.292‐294より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188498
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188498

現在のSNSのユーザーは(とくに日本では)、しばしば「本アカ」と「裏アカ」を使い分ける。前者は、ユーザーの実名と紐づけられ、現実の友人や知人も読むものと見なされているアカウントで、後者は、実名から切り離され、匿名でだらだらと好き勝手なことを書いてよいと見なされているアカウントである。

 この区別を援用して説明すれば、ギブスンが描いたのは、いわば本アカと裏アカがきちんと区別できている世界である。本アカは現実のぼくたちが運営し、裏アカは電子的な分身が運営している。サイバースペースへの「没入」とは、つまち裏アカへのログインだ。サイバースペースの比喩に引きずられた1990年代の情報社会論は、裏アカの確保がいかに人間を自由にするか、その肯定的で解放的な側面ばかりを強調していた。そして、それはまた、主体の分裂を夢みるぼくたちの時代にとって、いかにも都合のいい言説であったのである。ネットワークはぼくたちを「分人」にしてくれる、万歳!というわけだ。

 けれども、2017年のいまでは明らかなように、情報社会の怖さというのは、まさにその夢が夢でしかないこと、すなわち本アカと裏アカの使い分けがだんだんとできなくなっていくことにあるのである。本アカと裏アカの使い分けはしばしば失効する。実名が暴露され「炎上」する。そのような光景は日常茶飯事である。しかしそれだけではない。より恐ろしいのは、本アカと裏アカの使い分けを、その使い分けをしているはずの当人もだんだんできなくなっていくことだ。虚構で毒を吐き続けていれば、やがて現実にも影響を及ぼす。ひとはそんなに器用に「分人」にはなれない。分身が裏アカで吐いた毒は、まさに不気味なものとして本体に貼りつき、少しずつ本アカのコミュニケーションにもゆがみを与えていく。ぼくたちはいま、まさにそのような事例をヘイトやフェイクニュースの隆盛というかたちで日常的に目にしているように思われる。