2015年10月13日火曜日

谷川健一著「魔の系譜」講談社学術文庫刊 (巫女についての記述) pp.136-138より抜粋

谷川健一著「日本の神々」岩波書店刊(セヂ(霊威)についての記述)pp.30-32より抜粋 と併せて読んでみてください。

玉と魂が同音同義であることはことわるまでもない。私がこんど石垣市で会った、「火の神」という神人(かみんちゅ)89歳の高齢とはみえない若々しさを保っていた。和服姿の老婆は、首に真珠の首飾りと金色のネックレスをかけていて、それが少しも不自然ではなかった。首や手足に玉を纒くということは悪霊を除けて、自分の魂を強くまもることにほかならぬ。竹富島で見せてもらったツカサ(巫女)の七つ道具の中にも勾玉があった。



こうして神人(かみんちゅ)の身につける玉は、悪霊を除けると同時に、高い霊威を他人につける役割を果たした。さきに述べたユタが私に語った「ふつうの人よりセジが高い」という、そのセジが霊威である。このセジは巫女の権威でもあり能力でもあるのだが、それを身につけるために、蚊や糠子にさされ、さいなまれて3ヶ月もつづく山ごもりの苦行をしなければならない苦しみが、「おもろそうし」に散見して謡われる。


それにつけても思い出されるのは、私がこんど会った「八重山の大阿母」と呼ばれる巫女である。大阿母枢要な土地の女神官に与えられたものであり、久米島には君南風(きみはえ)アムシラレ、宮古には宮古島大阿母があった。

八重山大阿母は八重山の巫女組織の頂点に立つということになろう。



彼女は石垣島の中央にそびえる於茂登岳で山ごもりを繰り返し、そのために今はひどい神経痛に悩まされていた。苦行によって心身を痛めつけ、そのあげく巫女は高いセジを身に着け、それを他人に頒ち与えることができるまでにいたるのだ。


折口信夫によると、魂をしずめるには二通りあって、遊離した自分の魂をもとの身体にしずめるのと、外来魂のセジ(霊威)を身につけるのとがある。遊離した魂をしずめるにはまじないでも済むが、外来魂を身に付けるには、霊威をもった巫女をとおす他ない。

そこで折口の文章には「みたまのふゆ」という語がしきりにあらわれてくる。これは、折口学でももっとも重要なものの一つであると私は考える。(くわしくは折口信夫全集第三巻「大嘗祭の本義」をみよ)

要するに折口は、「マナ」にあたる「セジ」を他人につくことをみとめているのである。そしてそれを司るものが巫女であった。巫女が霊威を王にささげることもできたが、そのセジをもって悪用することもないではなかった。たとえば、後宮の神女たちが神託と称して、尚宣威を廃し、尚真王を位につけたのがそれである。尚真の母が、セジの力にかこつけた策だったとされている。


また島津侵入に対して巫女たちが謡っている呪詛が「おもろそうし」に出ているが、それは呪詛の烈しさをおもわせずにはおかないきびしい叙事詩である。

つまり外来魂は他人の身体に著いて、その人間の魂をつよめもすれば、またその魂を害し、くさらせることもできるのである。


かぐや姫の物語 「天人の音楽」



折口信夫

尚宣威

尚真王

魔の系譜 (講談社学術文庫)

ノロ

谷川健一著「日本の神々」岩波書店刊(セヂ(霊威)についての記述)pp.30-32より抜粋

谷川健一著「魔の系譜」講談社学術文庫刊 (巫女についての記述) pp.136-138より抜粋と併せて読んでみてください。

南島で顕著に見られるのはセヂと呼ばれる霊威である。
奄美や沖縄ではよく、「女は男よりもセヂが高い」という。
それは女は男よりも神に近いという意味である。
 また「あの娘はサー高か生まりだ。」ともいう。
サーはセヂのことで、霊威の高い娘で、将来、神女(ノロ)になったり、神占いをする素質がある、という意味である。
こうした例から見ると、霊威は本来、その人に備わっているように見られがちであるが、そうではない。

小さい時、よく予言の的中していた娘が、長ずるにしたがって、当らなくなることが多いが、それはセヂが去ったのである。つまりセヂは固有の霊威ではなく、外部から付着する霊威である。
琉球王国の最高位の神女である聞得大君(きこえおおきみ)の就任式である御新下り(あらおり)は、斎場御嶽(せいふぁうたき)で行われる。
その儀式では、外間(ほかま)ノロが、聞得大君の頭に王冠をのせて「聞得大君の御セヂ」(チフィジンミウシヂ)と唱え、神前に供えた洗米三粒を、聞得大君の頭にのせて、神名をたてまつる。
このときからニルヤセヂ(ニライカナイの神の霊威)が聞得大君に宿ることになり、大君は地上の神となる。
これが聞得大君の就任式のセヂつけの行事である。これは天皇霊が付着してはじめて天皇の資格を得るというのと同じ意味を持っている。
仲原善忠は「おもろそうし」に登場するセヂという語を分析している(「セヂ(霊力)の信仰について」)
 それによると、セヂを謡った「おもろ」は八十首もあり、つぎがカミ六十首、テダ五十首、テルカワ三十首の順序となっている。
このうちカミという語の大部分は巫女を指す。
またテダはもともと太陽のことであるが、国王、地方の領主、貴人などの比喩である。
テルカワは太陽を指し、人間を呼ぶことはないと仲原は言う。そこでとりわけセヂの信仰がずば抜けていることがわかる。

霊剣を「セヂまつるぎ」、神泊を「セヂあら神泊」、霊門を「セヂまさる門口」、霊社を「セヂ高杜」などと呼んでいる。
セヂがつくことで、剣も港も門も杜も違った存在に変化する。

セヂは人の媒介によるものだけではない。
それ自体の働きによって特定の場所にとどまる。
沖縄のウタキや拝所はセヂがついてはじめて神聖なものになる
このようにセジはそれが付着したものを神聖化する霊力を持っているが、「その本質に於いて何等合理性を持たず、人格的規範を伴はぬために倫理的道徳的色彩を帯びず、特に低級な迷信の巣となるかと思へば、高級宗教とも結合する可能性がある」ということを仲原は力説する。
この言葉はタマ、サチ、イツなどの外来魂の性格を知る上で参考になる。
仲原によると「おもろさうし」の中で、セヂと同義語と見られる言葉に、セまたはケがある。聞得大君の別名であるセダカコは「セヂ高い人」の意であり、「気高き人」であるという。後者は日本全土でも使われている言葉である。
「おもろさうし」には、「セヂ勝て ケオ添て」とか「セやろ ケある」など、セヂまたはその略である「セ」が「ケ」と対句になっている例が見られる。とすれば、セヂと対応するケもマナ(メラネシア語で、非人格的、超自然的な力の観念。あらゆるものに付着し、伝移する)の一種と見なすべきである。
折口信夫はセヂ、スヂ、シヂなどはマナ信仰に見られるような守護霊であると述べている。(沖縄方言ではセジもスヂもシヂと発音している。)

さきに述べたように、本土では食物をケというが、これはケという外来魂が付着した食物を身体に入れることで活力や威力をつけることに由来する。

それに引きかえて物に付着したケの活力が破裂して、むき出しになることがハレである。

そうなることからハレには日頃許されない狼藉も許される。

祭りや一揆の打ちこわしなどはハレの日の行動である。

ハレとケとは異なる倫理と価値に支配される。

晴着に対する褻着(けぎ)というように、地味で目立たない服装が普段着とされたが、ケは物に活力を与える外来の霊威であるからだ。ケに常(ふだん)という意味が強調されるのは、ハレと対応する形でなされるからで、本来の意味ではない。

このケを物に内在するエネルギーと解し、それが枯れるからケガレ(気枯れ)であるとするのは不当である。

ケが付着すると物は活力をおび、そのケが離れることがケガレ(気離れ)であり、エネルギーがなくなる。その極点は死である。



小泉八雲著 平川祐弘編「日本の心」講談社刊pp.274-279より抜粋

高き屋に
登りて見れば
煙立つ 民の竈は
にぎはひにけり

                           仁徳天皇  

およそ三百年近く前のこと、イギリス東印度会社の船隊を率いて日本を訪れたジョン・セーリス船長は、大都市大阪について次のように書いた。

大阪は大変大きな町である。
城壁に囲まれたロンドンの市内と同じくらい広く、テムズ川ほどの川幅の川が流れ、高さのある立派な木造の橋がたくさんかかっている。
立派な家もあるが、その数は多くない。大阪は日本の主要な海港の一つである。素晴らしく大きく堅固な城郭も擁している。

十七世紀の大阪についてセーリス船長の述べたことは、ほとんどそのまま、現在の大阪にも当てはまる。
今日でも大阪は大都市であり、日本の主要な海港の一つであるし、西洋の見方による「立派な家」も建っている。
「テムズ川ほどの川幅の川」、すなわち淀川には、「立派な木造の橋」(今では鉄鋼や石でできた橋もあるが)がたくさんかかっている。
また秀吉が漢時代の要塞の造りにならって築いたという「素晴らしく大きく堅固な」大阪城もあって、今も軍事工学者の驚嘆の的になっている。
もっとも、高い櫓はなくなり、豪壮な本丸の御殿も一八六八年に焼失してしまったが―。

大阪は二千五百年余の歴史を持ち、日本でも最も古い都の一つに数えられる。
現在の名は、大きな川の高台という意味の「大江の坂」が縮められたもので、せいぜい十五世紀以降の呼び名と考えられている。
それ以前は難波(なにわ)とよばれていた。日本の存在がヨーロッパに知られる何世紀も前から、大阪はこの国の商業、経済の一大中心地であったし、それは今も変わっていないのである。
長い封建時代を通じて大阪の商人は、日本全国の大名諸侯にとっての銀行業者、貸し方の役目をしてきた。
諸侯のもとに納められた米を金銀に交換したり、軍資金を用立てたり―。
何マイルにもわたって立ち並ぶ大阪商人の耐火性の蔵の中には、全国の穀物、綿、絹などが蓄えられていたのである。
秀吉は大阪を軍事上の根拠地としたが、慎重で抜け目のない家康は、この町を恐れ、経済力のある富豪達の富を減らす必要があると考えた。

一八九六年現在の大阪は、広大な面積と約六十七万の人口を持っている。
広さと人口の上からは日本第二の都市とされるが、最近大隈伯がその演説でも述べたように、金融、工業、商業面では今でも東京を凌いでいるのである。
実際、堺、兵庫、神戸などは大阪の外港にすぎず、中でも神戸は近年めざましく発展を遂げて、横浜以上の港に成長しつつある。
大阪という町はすぐれて商才を持つ人間を日本全国から引き寄せる力があるので、神戸はいずれ外国貿易の第一港になるであろうと、日本人、外国人ともに確信を持って予言している。
現在のところ、大阪における輸出入取引きは、年間約一億二千万ドルで、国内の取引も莫大な額にのぼる。
誰もが買いたいと思うような品物は、ほとんどすべて大阪で作られているし、また、快適な暮らしを営んでいる家庭で、その家具、調度、備品に大阪の工業が全く寄与していないような住居は、日本国中探してもほとんど存在しないであろう。
これは恐らく、東京のできるずっと以前からのことと思われる。
「出船千艘、入船千艘」という繰り返しのある古い歌が残っているが、その歌のできた頃、港に入るのは平底の帆船ばかりであったに違いない。今日では、蒸気船も来れば、外洋航路用の様々の大型船も来る。
波止場に沿って人力車に乗って行くと、船のマストと煙突が、どこまでも果てしなく続いて行くのかと思われるほど、何マイルにもわたってずらりと並んだ光景を目にすることができるであろう。
もっとも、太平洋航路の定期船やヨーロッパからの郵便船などは、喫水が深すぎて入港できず、大阪向けの積み荷を神戸におろしているのだが、幾つかの汽船会社も擁している、この活気に満ちた都市大阪は、千六百万ドルの費用をかけての港の改修工事を現在計画中である。
人口二百万、年間の外国貿易高三億ドル以上―今後半世紀の間に大阪がそんな都市に成長することは、決して実現不可能な夢ではない。
大阪が大きな商業組合の中心であることは、今さら言うまでもないことである。
ここには四百以上の商事会社がある。紡績会社の本社もあり、その工場では、一日二十四時間のうち二十三時間をわずか一度の交替で操業し続け、一錘当りの製糸量は英国の工場の二倍、ボンベイの工場の三十から四十パーセント増しとなっている。

世界の大都市はその住民にそれぞれ独特の性格を与えるものと考えられているが、日本においても、大阪の人はほとんど一目見ればそれとわかると言われている。
私が思うに、首都東京の人の性格は大阪人に比べて特徴が際立っていないようだ。
それはちょうど、アメリカでもニューヨークやボストンの人よりシカゴの人の方が見分けやすいのに似ている。
大阪の人間は呑込みが早く、エネルギッシュで、時勢に決して遅れを取らぬ、あるいは流行の少し先を行く雰囲気さえ漂わせているが、これは商工業界での相互競争の結果と見て良い。
何しろ商売上の経験にかけては、大阪の商工業人は首都東京の競争相手よりはるかに長い伝統を受継いでいるのである。
得意店回りの外交員としての大阪人の優秀さに定評がある理由の一つは、おそらくここに存在するのであろう。
彼らは近代的な日本人で、幾つかのタイプが目につく。
例えば汽車や汽船などでの旅行中に、一緒に少し話をした後でもなお、どこの国の人なのか決めかねるような、一人の紳士と偶然知り合いになることがあるかもしれない。
その紳士はきわめて趣味の良い、上質で最新の洋服を着こなし、英語、フランス語、ドイツ語のいずれを用いても同じように立派に話ができる。
礼儀作法も申し分ないが、それと同時に、どんな人物を前にしても相手に順応する能力を備えているだろう。
ヨーロッパも知っているし、こちらが訪ねたことのあるような極東の各地については勿論のこと、名前さえ聞いたこともないような土地についても驚くほどの情報を提供してくれる。
また日本に関してならば、この紳士は各地方の特産物に詳しく、その由来や他と比較しての長所まですべて心得ているのだ。
顔立ちも感じが良い。
鼻筋が通り、場合によっては幾らか鷲鼻で、口元は豊かな黒の口ひげにおおわれており、この顔の持ち主が東洋人であることを思い出させるのは、わずかに瞼のみである。
―と、大体以上に述べたような人物が、大阪の販売外交員一八九六年型とでも言うべき一タイプであり、日本の平均的小役人とは王子と家来ほどの差が見られる。
この同じ人物にもし大阪で出会ったとしたら、恐らく彼は和服を、それを高尚な趣味がなくてはできないような洗練された様子で着こなしているに違いない。
その姿は、日本人と言うよりも、むしろ変装したスペイン人かイタリア人のように見えるのである。

生産、流通の中心地として知られる大阪のことであるから、きっと日本の都市の中でも最も近代的で、日本的特色の最も少ない都市であろうと想像される向きもあろうが、事実は全く反対である。
日本の大都市で大阪ほど洋服姿の少ない都市は稀だし、大阪ほど人々の着物が魅力的で町並みの美しいところはない。

大阪は流行を生む所と考えられている。
そして現在の流行では、様々の色が用いられるという好ましい傾向が見られる。
私が初めて日本に来た頃、男性の服装は濃い色、中でも紺色が主流であったので、男性が集まるとそこには大抵この色の集団が出来上がったものだった。

日本の心

日本の心

  • ISBN-10: 4061589385
  • ISBN-13: 978-4061589384


  • 小泉八雲

    平川祐弘

    小泉八雲著 平川祐弘編「日本の心」講談社刊pp.209-212より抜粋

    大きさはいかようであれ、純神道風の社殿の建築はみなすべて同じ古風な様式に則っている。
    典型的な神社の社殿は、塗料を用いない、白木で出来た長方形の窓のない建物で、前へ深く突き出た急勾配の屋根がついている。正面は切妻の壁で、いつも閉ざされたきりで開いたことのない扉の上の部分は木製の格子作りとなっている。それは通常、直角に交叉する木格子をしっかりと組み合わせたものである。たいていの場合、建造物は地面よりも多少上に、木の柱で持ち上げられている。前方から見ると屋根の尖ったこの正面全体は奇妙である。兜の面頬ににた隙間があり、切妻の角の上に梁が奇怪な形をして突出していて、ヨーロッパから来た旅行者には屋根窓の中にある種のゴチック的な形態を思い起こさせる。
    人工的な着色はいっさい施されていない。自然木(たいていは檜であるが)は、日光や雨風にさらされて、自然の灰色に変っている。それは表面がそれだけ外気にさらされたかによるが、樺の木の樹皮の銀色を帯びた明るい色調から玄武岩の暗灰色にいたるまでの幅である。そのような形と色をした、田舎にぽつんと孤立した社は、建具師の拵えたものというより、その土地の一風物のような感じがする。岩や木が自然と密接に結びついているのと同じくらい自然と密接に結びついた田舎の姿という感じがする。その土地の原始時代の神であった大地神the Earth-God の顕示として存在するにいたったなにか、という感じがするのである。
    なぜある種の建築の形態を見る人の心中に不思議な、この世のものならぬ気持を呼び起すのか、その問題について私はいつか理論づけしてみたいと思う。

    いま差しあたり言えることは、神道建築はそのような感情を呼びさます、ということだけである。そしてその感情は、神社と接する機会がふえればふえるほど、減るどころか逆に増大する。そして民間信仰のことをいろいろ知るにつれ、その感情はどうもますます強くなる。こうした奇妙な建築物の形を言葉で十分描き尽くすためには英語は語彙が不足している。ましてやこうした奇妙な形が作り出す不思議な印象を人に伝えるだけの言葉はないといっていい。

    私達西洋人がtemple とかshrineとかいう英語を使っておおまかに英訳している神道上の言葉は、実際は翻訳不可能なものである。私がそういう意味は、日本人がそうした言葉に結びついている観念や含蓄は、そうした翻訳では伝達不可能だ、という意味である。

    神のいわゆる「やしろ」は、語の古典的な意味におけるtempleであるよりは、「死者の霊の出入りする部屋」haunted room とか「霊の部屋」spirit-chamberとか「霊の家」ghost-houseと呼ぶべきだろう。というのも大神ではない多くの神々は実際は霊ghostだからである。

    多くの神々は立派な武人や英雄や統治者や人の師で、何百年何千年前に生き、愛し、そして死んだ人々の霊なのである。私はこんな風に考える。神道の宮とか社がもつ不思議な性格についてなにか漠然とした観念を西洋人に伝える際には、宮とか社とかをshrineとかtempleとかいう言葉で訳すよりもghost-houseと訳した方が意味がよく伝わるのではないか。というのは宮とか社とかには、あの永遠の薄暗がりの中に御本体といっても象徴とかおしるし―おしるしといっても多分紙でできたなにかであろう―以上に実体的なものはなにも蔵されてはいないからである。

    そして面頬に似た正面の背後にあるこの空虚な空間こそいかなる物質的なるものにもまして暗示的・示唆的な空間である。
    そして何千年もの長きにわたって何百万人という人々がこうした社の前で自分たちの中の偉大な死者たちを崇拝してきたこと、そしてこうした社の建築の中には目にこそ見えね意識のある人が住んでいると一民族のすべてがいまなお信じ続けていること、そうした事実を読者もよく考えるなら、こうした信仰を不合理ときめつけることがいかに難しいことかおわかりのことかと思う。

    それどころか、こうした考え方に対する西洋的反撥にもかかわらず―またそうした体験について後になって勝手な事をなんと言おうと、言うまいと、ともかく読者自身、神社の社頭に立てば、こうした可能性に対して恭しい敬意の態度を一瞬取らざるを得なくなる。単に冷淡に理屈をこねてみても、そうそう反対の態度を取れるものではない。

    読者も御承知のように世の中には見えもせず、聞こえもせず、感ぜられる実体が沢山ある。そうしたものは力として存在する。それは恐るべき力として存在する。
    それにまた読者は四千万の国民の信仰を―その信仰が読者自身の身辺に空気のごとく揺れ動く時、それを愚弄することはできない。

    読者は大気が読者の肉体的存在に圧力を加えているのと同じようにその信仰が読者の精神的存在に圧力を加えていることを自覚しているからである。
    私自身についていえば、私は自分一人で神社の社頭に立つ時、自分がなにかにつかれているような感じを受ける。それだけにそこに目に見えず現れたものの知覚作用という可能性を考えずにはいられない。そしてそうなるとついこうした事も考えずにはいられない。畏れ多い話だがもし私自身がかりに神となり、石の獅子に護られ、聖なる杜の影の中、とある丘の上のどこか古い出雲の社に住んだならば、私はどのように感じるだろうか、私の知覚作用はその際どのようであろうか、と。