2015年10月13日火曜日

小泉八雲著 平川祐弘編「日本の心」講談社刊pp.209-212より抜粋

大きさはいかようであれ、純神道風の社殿の建築はみなすべて同じ古風な様式に則っている。
典型的な神社の社殿は、塗料を用いない、白木で出来た長方形の窓のない建物で、前へ深く突き出た急勾配の屋根がついている。正面は切妻の壁で、いつも閉ざされたきりで開いたことのない扉の上の部分は木製の格子作りとなっている。それは通常、直角に交叉する木格子をしっかりと組み合わせたものである。たいていの場合、建造物は地面よりも多少上に、木の柱で持ち上げられている。前方から見ると屋根の尖ったこの正面全体は奇妙である。兜の面頬ににた隙間があり、切妻の角の上に梁が奇怪な形をして突出していて、ヨーロッパから来た旅行者には屋根窓の中にある種のゴチック的な形態を思い起こさせる。
人工的な着色はいっさい施されていない。自然木(たいていは檜であるが)は、日光や雨風にさらされて、自然の灰色に変っている。それは表面がそれだけ外気にさらされたかによるが、樺の木の樹皮の銀色を帯びた明るい色調から玄武岩の暗灰色にいたるまでの幅である。そのような形と色をした、田舎にぽつんと孤立した社は、建具師の拵えたものというより、その土地の一風物のような感じがする。岩や木が自然と密接に結びついているのと同じくらい自然と密接に結びついた田舎の姿という感じがする。その土地の原始時代の神であった大地神the Earth-God の顕示として存在するにいたったなにか、という感じがするのである。
なぜある種の建築の形態を見る人の心中に不思議な、この世のものならぬ気持を呼び起すのか、その問題について私はいつか理論づけしてみたいと思う。

いま差しあたり言えることは、神道建築はそのような感情を呼びさます、ということだけである。そしてその感情は、神社と接する機会がふえればふえるほど、減るどころか逆に増大する。そして民間信仰のことをいろいろ知るにつれ、その感情はどうもますます強くなる。こうした奇妙な建築物の形を言葉で十分描き尽くすためには英語は語彙が不足している。ましてやこうした奇妙な形が作り出す不思議な印象を人に伝えるだけの言葉はないといっていい。

私達西洋人がtemple とかshrineとかいう英語を使っておおまかに英訳している神道上の言葉は、実際は翻訳不可能なものである。私がそういう意味は、日本人がそうした言葉に結びついている観念や含蓄は、そうした翻訳では伝達不可能だ、という意味である。

神のいわゆる「やしろ」は、語の古典的な意味におけるtempleであるよりは、「死者の霊の出入りする部屋」haunted room とか「霊の部屋」spirit-chamberとか「霊の家」ghost-houseと呼ぶべきだろう。というのも大神ではない多くの神々は実際は霊ghostだからである。

多くの神々は立派な武人や英雄や統治者や人の師で、何百年何千年前に生き、愛し、そして死んだ人々の霊なのである。私はこんな風に考える。神道の宮とか社がもつ不思議な性格についてなにか漠然とした観念を西洋人に伝える際には、宮とか社とかをshrineとかtempleとかいう言葉で訳すよりもghost-houseと訳した方が意味がよく伝わるのではないか。というのは宮とか社とかには、あの永遠の薄暗がりの中に御本体といっても象徴とかおしるし―おしるしといっても多分紙でできたなにかであろう―以上に実体的なものはなにも蔵されてはいないからである。

そして面頬に似た正面の背後にあるこの空虚な空間こそいかなる物質的なるものにもまして暗示的・示唆的な空間である。
そして何千年もの長きにわたって何百万人という人々がこうした社の前で自分たちの中の偉大な死者たちを崇拝してきたこと、そしてこうした社の建築の中には目にこそ見えね意識のある人が住んでいると一民族のすべてがいまなお信じ続けていること、そうした事実を読者もよく考えるなら、こうした信仰を不合理ときめつけることがいかに難しいことかおわかりのことかと思う。

それどころか、こうした考え方に対する西洋的反撥にもかかわらず―またそうした体験について後になって勝手な事をなんと言おうと、言うまいと、ともかく読者自身、神社の社頭に立てば、こうした可能性に対して恭しい敬意の態度を一瞬取らざるを得なくなる。単に冷淡に理屈をこねてみても、そうそう反対の態度を取れるものではない。

読者も御承知のように世の中には見えもせず、聞こえもせず、感ぜられる実体が沢山ある。そうしたものは力として存在する。それは恐るべき力として存在する。
それにまた読者は四千万の国民の信仰を―その信仰が読者自身の身辺に空気のごとく揺れ動く時、それを愚弄することはできない。

読者は大気が読者の肉体的存在に圧力を加えているのと同じようにその信仰が読者の精神的存在に圧力を加えていることを自覚しているからである。
私自身についていえば、私は自分一人で神社の社頭に立つ時、自分がなにかにつかれているような感じを受ける。それだけにそこに目に見えず現れたものの知覚作用という可能性を考えずにはいられない。そしてそうなるとついこうした事も考えずにはいられない。畏れ多い話だがもし私自身がかりに神となり、石の獅子に護られ、聖なる杜の影の中、とある丘の上のどこか古い出雲の社に住んだならば、私はどのように感じるだろうか、私の知覚作用はその際どのようであろうか、と。

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