2016年3月30日水曜日

20160330 能動性と(社会的)有用性について

はじめて読む、ある著者による著作を読み続けていますと、その当初において、何といいますか、頭が疲れ、肩が凝ります。

そして、そうした状態がしばらく続いたのち、その文体に慣れ、頭の疲れ、肩の凝りを感じなくなり、しばらくすると読了するのではないかと思います。

では、読了した時には、読み始め当初におぼえた頭の疲れ、肩の凝りとは一体どのように慣れ、あるいは吸収、解消されていったのでしょうか?

大抵の書籍をある程度集中して読んでおりますと、その当初は、やはり疲れるものです。

そして、これは勉強が疲れるということと共通する部分が多くあるのではないかと思います。

しかし、ここに個々人の性質、特質に依存する情熱、好悪の感情が関与してきますと、そういった事情が大分異なってくるのではないかと思います。

そして、こうした個々人の、より根源的な部分に還元される各学問、勉強に対する情熱、好悪の感情を他の「社会における有用性」などに置き換えてしまうと、それは当初こそは「計画的とされ」良いのかもしれませんが、徐々にその精神的活力、生命力を奪い、扼殺し、その後の才能、性質、精神全般の発展可能性をなくしていってしまうのではないかと思います・・。

しかしながら、大きく見ると社会とは多大なる上記のような発展可能性が否応なく摩滅された才能・性質を犠牲として成り立っているのかもしれません。

そうであれば、こうした意見を書くことは社会にとって空気を読まない、世間様を顧みない、大変無礼な行為となるのかもしれません。

なぜ、お前にそのようなことを書く権利があるのか!?』
といった感じに・・。

しかし、それは無礼であったとしても、同時にそれが「間違い」であるという根拠にはなりません。

あるいは、そのような社会であったからこそ、少なくとも近代以降の我が国とは、様々な変遷、闘争の後、良くも悪くも現在のような状態に至っているのではないでしょうか?

多少話は変わるかもしれませんが、首都圏、都市部におりますと、髪の毛を茶色系統に染めた方々が多く見られます。

これは他の東アジア人においても同様に見受けられますが、
何故髪の毛をこうした色に染めるのでしょうか?

私から見ますと、これはかつてのお歯黒の風習などに類似する行為ではないかと思われます。

現在においては、あまりにも日常的過ぎ、そのような視点にはなかなかなりませんが、今後しばらくすると、髪の毛を染める行為に対し上記のような視点もまた出てくるのではないでしょうか?

好きこそものの上手なれ、精力善用、一億総活躍・・?。

ここまで興味を持ってお読みいただいた方々、どうもありがとうございます。