2016年5月16日月曜日

20160516 物理と神話の間にあるもの 其2 私見として

A「先日から続けて書いているテーマである「理系学問の礎としての神話的なもの」について、自分なりにもう少し考えてみたことを記します。

幾度か当ブログにて記しておりますが、私は大学院修士課程にて地域学という、民俗学に近いような功利的な視点から見ると、かなり「反時代的」な研究を行っておりました・・(苦笑)。

その理由とは、関西、和歌山、南紀での在住経験を通じ、私が「母国である日本のことを何も知らない!」と強く認識したことに因ります・・。

そうした研究を自分なりに手探りして行っている際、当時の研究フィールドである和歌山県、かつての紀伊国とは、国内有数の銅鐸の出土地であることを知りました。

そして、同時に不思議なことに、私の南紀での在住時代、偶然ながら幾度か、これら銅鐸が出土した地域に足を踏み入れていたことを知りました。

そして、そうした偶然(?)導かれるようにして、ある程度、銅鐸関連の書籍を読み自分なりにその概容を把握、理解するに至りました・・。

また、この時は同志社大学の森浩一という方の著作を集中的に読んでいた記憶があります。
(日本の古代史に興味をお持ちの皆様、この森先生の著作は大変面白く、勉強になるものが多いと思います。)

そして、銅鐸の出土地の様々な特徴(地形、出土銅鐸の形式、埋納の仕方、現在の地名、近くに存在する神社などの特徴、現在遺されている様々な民俗等)について考えてみたのは良かったのですが、肝心の鋳造物である銅鐸の「鋳造」に関してが、イマイチよく分からないままで難儀しました・・。

そして、鋳造に関しては概ねそのままの状態にて、修士課程を修了し、その後、歯科技工学校に入学してみますと、そこでは歯科技工士の熟知すべき科目の一つとして「歯科理工学」が存在し、さらにかつては「歯科鋳造学」なる学問もまた存在していたことを知り、この科目の講義、実習などの際、自分なりにあれこれと勝手に考えて、見当違いなことを多々していたのではないかと思います・・(苦笑)。

この時お世話になった皆様、申し訳ありません・・。

とはいえ、この銅鐸によって点火された、よく分からない情熱により、私は歯科理工学分野の大学院(修士課程、途中からは博士課程)に進むことになり、そこでは歯科鋳造の研究とは、概ねやり尽されていることを知り、当時(現在でも)最先端の歯科材用であるジルコニアについての研究に従事することになりました。

また、この時師事したお師匠とは、そうしたこと(様々な歯科材料の歴史)に対しても該博な知識、見識を持たれており、時折私が発するおかしな質問に対しても、適切且つ深遠な返答を日常的、平易なコトバでされておりました。

また、同じく、ここで金属歯科材料を主に研究なさっていた先生にも同様、特に金属歯科材料および英論文読解に関してはかなりお世話になりました。

つまり、地域学を研究する際に、地域(和歌山、紀伊国)を知る一つの有力な手掛かりとなるものとして選んだ、弥生時代の鋳造にて作製される祭器である銅鐸への好奇心、探求心から、歯科理工学(これは理系学問と見做して良いと思います。)に進むこととなり、それが、紆余曲折を経て、歯科用ジルコニアとその前装用陶材との接着強さの研究に従事することになったわけです・・(ここは(笑)ではありません・・(笑)。

そして、このように考えてみますと、こうした私個人の学問的遍歴の中からも、案外と、さきに述べた「理系学問の礎としての神話的なもの」が看取されるのではないかと不図思った次第ですが、これを読まれた皆様はどのようにお考えになるでしょうか・・?

また、最近の考古学の知見によりますと、巨大、装飾化する以前の段階の銅鐸の鋳型が「熊本県・熊本市」にて出土(それ以前は佐賀県神埼郡吉野ヶ里町、神埼市の吉野ヶ里遺跡にて古型、小型の銅鐸おび、その鋳型が発見され話題となった。)されたとのことです・・。

こうした出土、発見とは、私からしますと、かなりスゴイことであると思うのですが・・。

ともあれ、こうしたことを考えてみますと、弥生時代の古代の人々とは臼杵・八代構造線そしてそれに続く、連なる中央構造線の存在をどのようにしてか体得、認識していたのではないかと考えさせられるのです・・。

しかし、それはそうであれ九州・熊本での大地震により被災された地域の諸生活インフラの早期の復旧そして、それに続く復興を祈念いたします。

また、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。」