2021年4月9日金曜日

20210409 株式会社岩波書店刊 野上弥生子著「迷路」上巻 pp.279‐280より抜粋

株式会社岩波書店刊 野上弥生子著「迷路」上巻
pp.279‐280より抜粋
ISBN-10 : 4003104927
ISBN-13 : 978-4003104927

その外側に、風を伴ってまだ散乱しているであろう雪は、今日の騒動(2・26事件)にもつれあい、桜田門の遠い椿事を、弟と語るあいだも彼の胸に白い幻影にしていた。当時の保守党の尊王攘夷の叫びの中で、敢然と開港条約に調印した祖父江島近江守の行動が、彼を激しく打ち、強い感動とともに、肉親の同情を交えた共鳴で祖父のことを考えるようになったのはまだ学習院の頃であった。歴史についての彼の興味も、一つにはそれに誘いだされたといってよく、明治維新政府は、祖父を人柱にして建築された、とする結論は彼には誇りがなものであった。しかも、そこで栄達の座についてのは、祖父を死体にし、その首を打ち落としたものではなく、それを狡く利用した仲間であるのを思うことによって、はじめの尊王攘夷、徳川幕府打倒を、巧みに文明開化主義に乗りかえた新しい明治の権力者ー薩長が代表する政治家、軍人、新興財閥には、下手人の水戸浪人たちに対するよりも、ずっと底深い憎しみと軽蔑を感じさせた。宗通をかたく捕らえている反社会的な生活は、まだ若かった頃から、この秘密なフレームにその芽をもっていたのであった。

 こうした考え方を、宗通は誰にも打ち明けたことはなかった。もちろん、また秀通(弟)にも話そうとはしなかった。容貌がすっかり違っている通り、性質もまるで反対な弟は、宗通の眼には、つねに騒々しい俗物で、彼が憎み、軽蔑しているものと如才なく手を繋いで、損をしないで生きるのを世渡りの第一義としている、欲深い、おろか者に過ぎなかった。つねは向からやって来る以外には、めったに呼びよせもしない。今朝の特別な例外は、出来事の詳細を聞こうとするためであったとはいえ、宗通の気持の底には、彼自身でもはっきりは心づかないものが潜んでいた。

「この雪で、お祖父様の桜田門の事件が思い出されるではございませんか。」

 この意味の言葉が、秀通の口からもしも洩れたとしたならば。-眼先だけの、騒々しい世間師が、そんなことに考え及ぶ筈はない、と思いつつも、宗通には漠然とした期待があった。それほど彼は誰かとその話がしたかった。また、それほど、今日の出来事は雪を媒介として、祖父の横死の歴史の一ペエジを、彼の追想に甦らせていたのであった。