2017年6月18日日曜日

20170618 具体・抽象への書く文章のブレが生じる要因(未だ不可知なもの)

A「昨日は一件は書籍からの抜粋引用でしたが、二件の記事投稿を行ったことによってか、本日これまでの閲覧者数は思いのほか多くなりました(300程度)。

また、本日に関しては、昨日二件の記事投稿を行ったことにより記事投稿は止めておこうとも考えましたが、一方で、何も書かないでおくのも気持ちが悪いことから『とりあえず何かしら書いてみよう・・』と思い立ち、現在こうして記事作成を試みている次第です・・(苦笑)。

さて、先日来より読み進めている書籍も頁数半分以上にまで至り、そこに書かれていることの多くは、これまでの研究成果によってか、かなり明瞭、具体的な記述となっており、大変勉強になります。

また同時に、こうした書籍を読みますと、当然ではあるのでしょうが、自身がかつて興味を持ち、ある程度文献、書籍を読んだと云える分野での研究が、その後も進展していることが実感出来ます。

さらにまた、こうした経験を得ることにより、自身もまた、さまざまなことに対する興味関心が新たに湧いてくるとも云えます・・。

そして、これまでの経験から、それは直ちに自身のブログ記事の題材としては生かされないものの、ある程度時間が経ってから、何かしら新たな記事着想のタネとなる傾向があるものと云えます・・。

また、自身がこれまでどうにか記事作成を継続出来ている一つの原因とは、ここにあるのではないかとも思われるのです・・。

またその一方で、無用な、もしくは悪意ある詮索を避けるため、仕事上のことは、あまりブログ記事の題材にはしないことにしておりましたが、これは現在になり振り返って考えてみますと、少なくとも悪くない選択であり、これまでの作成記事の主たる題材とは、自身の(数年前の)経験、読書に基づいたものであったからこそ、あまり多くの閲覧者数を得ることが出来ないにしても現在まで記事作成を継続することが出来たのではないかと思われるのです・・。

これもまた一つのブログ記事作成を継続させる手法ではないかとも思われます・・(笑)。

あるいは、こうした手法での記事作成に慣れることを通じて、仕事上でのことを記事として書く必要性が生じた場合、あまり痛痒を感じることなく作成することが可能になるとも云えるのかもしれません・・。

何故ならば、一般的に
文章を書く場合、具体的な出来事などを書く方が抽象的な考えなどを書くよりも書き易いと思われますので・・。

一方、読み手として考えてみますと、一般的に我々は考え・想念などを文章にて辿るような抽象的、思弁的な文章よりも、具体的な記述内容を持つ文章の方が分かり易く、理解し易いといった傾向があるように思われます。

また、それ故に当記事冒頭に挙げたかつて自身が面白く、勉強になると感じた研究分野においてその後、研究が進展していることが理解し得たとも云えるのではないでしょうか?

おそらく、こうした一つの要素・分野毎の抽象・具体への志向およびそれに付随する書く文章の(抽象、具体への)ブレとは、何かしら未だ自身にとっては不可知な要因によって循環しているのかもしれないと考えさせられます・・(笑)。

果たして今しばらく書き続ければ何かが分かってくるのでしょうか(笑)?

ともあれ、今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の速やかな復興を祈念しております。」




20170617 其の2 筑摩書房刊 山田風太郎著『昭和前期の青春』pp.171-174より抜粋引用

筑摩書房刊 山田風太郎著『昭和前期の青春』pp.171-174より抜粋引用

ISBN-10: 4480433317
ISBN-13: 978-4480433312
『弱肉強食は生物の減速で、同時に人間の原則だ。形は変わっても、この原則は永遠に変わらない、という強食派に対して、そんな原則をほしいままにさせないのが人類の進歩だ、と弱肉派がいう。
実は私は個人の素質としては弱肉派のほうだから、こちらに拍手を送りたい。
出来ればその陣営の人となりたい。が―例の低音がいう。
少なくとも日本を弱肉の地位に置かないように渾身の努力をはらうのが、子孫に対するいまのわれわれの義務ではあるまいか。―そもそも、資源なく人間のみひしめく日本という国は、何らかのかたちで他を侵略しなければ生存可能因果な国ではないのか。
ある国が攻めて来たら、どうせ叶わないのだから、威厳をもってただちに降伏すればいい、という論があった。
しかし降伏すれば、それで一件落着、万事大団円とは参らない。こんどはその国の敵国から容赦なく攻撃を受けることになるだろう。
だいいち降伏という事態に威厳を持つことなんか出来やしない。勝利者がそんなことは許さないのである。それは言葉のアヤに過ぎない。
そもそも一国をあげて粛々と降伏するには、国民すべて一つの宗教的信念に徹していなかればならないが、いったい日本人がそんなかたちの宗教民族になれるだろうか。
それどころではない、世界にさきがけて不戦の憲法を持つことすら、ニンに過ぎたことではなかったろうか?
いまそれを支持する国民が大半ではないか、という論に対して、それはただ眼先の泰平に酔い痴れているだけの怠け者のねごとに過ぎない、と低い声がいう。
こんな問答は、何か事が起こらなければ決着のつかない、果てしのない水掛論に過ぎない、とは思うが、いやそう水掛論といっても片付けてもいられない、とも考える、事が起こってからではもう遅いのである。
二年や三年で一応訓練出来る刀と鉄砲だけの戦争の時代ではないのである。
また、突如発作的に大々的軍備に踏み切れば、それこそそのこと自体が事を起こすもととなる。
やるなら、むしろ無用時に、ある水準までの備えをしておかなければならないのではないか、とも考える。
これはとうてい戦中派とか戦後思想とかの次元で論じられる問題ではない。
くり返すが、日本民族はこれから何千年も何万年も生存してゆかなければならないのである。
その間、すべてのことにおいて、ほかの民族に、せめて出来るだけピッタリくっついてゆくことがそのための条件ではあるまいか。
ひとり、あんまり変わった方法で生きながらえゆこうというのは、虫がよ過ぎ、ウヌボレ過ぎ、夢想が過ぎ、はては「非合理」なのではあるまいか。
しかし、しかし、しかし。―
実際問題として、本格的再軍備というのは至難でしょうなあ。私はいまの日本人の男性でさえ再軍備賛成論者は50%に満たないと見ている。
女性のほとんどすべては反対論だろう。その理由のきわめて大きな部分は、現在の酔夢をさましたくないという願望であるにしろ、何といっても軍備らしい軍備なくして過ごして来た「日本の黄金時代」の記憶は決定的である、そしてまたそういう国民から生まれた軍隊が、たとえ何兆円の金をかけようと物の役には立つとは思われない。
「戦中派」の正確な定義はよく知らないが、私はあの戦争中、学校でいえば中学生から大学生までの年齢期にあった人間だと解釈している。
その年齢だから、ある意味でいえば、戦中派は戦争をひき起こした責任はない。
その戦中派も今や老いつつあるが、彼らは戦争に対してではなく、戦後自分たちの子供の教育に過ちを犯したのではなかろうか、と疑うことがある。彼らは戦中の苦難を子供に語る。しかし考えてみれば右の理由で、その苦難はみずから求めたものではなく、いつのまにか落とされた運命であって、自慢出来る苦労話ではない。それがわかっているから、実は、いうことに自信がない。子供は親のうしろ姿を見て育つ。子供は戦中派のうしろ姿を見て、あまり感心しないのである。
私にしてすら、事実はこの未曾有の泰平の日々を、安逸の中に沈んでいるのである。
庭に野鳥が来る。はじめ残飯パンのたぐいを与えていたが、次第に鳥の数がふえ、餌をアテにしてやまないので、いつしか新しい米やパン粉を盛大にまいてやるようになった。
それで庭に大きくバカという字を書くと、鳥がバカの字なりにならんで食べている。
それを二階の書斎から双眼鏡で見て、終日暮らしていることもあるのである。
ただ、そんなとき、あのガダルカナルの戦いの日本兵に、この米、このパン粉をやっていたら、あるいはーなど、ふっと頭に浮かばせながら。
「不戦日記」はすでに遠くなりにけり、か、いまだ遠くはなりゆかず、か。―』

20170617 昨年この時期作成のブログ記事および知人からの電話にて思ったこと・・

昨年の丁度この時期に作成したブログを読んでみますと『季節の変わり目故かブログ記事作成が困難である。』といったことが書かれておりましたが、たしかに今の状況もまたブログ記事作成がなんとなく面倒に感じております・・(苦笑)。

加えて、思い返してみますと、一昨年のこの時期とは、まさしく文章作成が出来ないことで悩んでいた時期でもあり、その打開策として一連のブログ記事作成を始めた頃ですので、やはり春~夏の季節の変わり目という、この時期とは、私の場合、文章作成に対しては良い影響をもたらさないのかもしれません・・(苦笑)。

とはいえ、その一方で一昨年、昨年と比べてみますと、その状況は幾分かは良くなっているように感じられます。

そして、こうしたことを実感として感じられることが継続的なブログ記事作成が生み出している効果であるのかもしれません・・。

また、今後さらに記事作成を継続することによって、果たして、この実感とは大きなものとなり、さらには一つの自信として体得出来るようになるのでしょうか・・?

しかし、何れにせよ、記事作成を継続することが前提であり、大事であると思われますので、もうしばらくはこれを継続しようと思います・(笑)。

さて、本日かなり久しぶりに文系院時代の知人から電話がありました。

久しぶりということもあり、割合長い時間話しましたが、以前と変わらずお元気そうな様子であり安心しました・・。

また、思い返してみますと、先月末から本日のこの電話に至るまで「どうしたわけか、ここ最近は文系院の方々との連絡が多いな・・。」と思うところです・・(笑)。

とはいうものの、こうしたことの背景には一体どのような原因、力が作用しているのかとは今もって理解しかねるところではあるのですが・・。

私としては、どうしてもそれらは単なる偶然とは思えないのです・・(笑)。

そして今現在の段階では科学的には立証出来なくとも、同時に迷信ではない、何かしらの法則性、関連性をもった事象、出来事とは、まだまだ世の中には多く存在するのではないかと思うのです・・。

あるいは理系的な物言いでこうした事象、出来事を表現する場合「それは統計学の領域ではないかな・・?」といった感じになるのかもしれませんが、統計学でもまた、人の行動ではなく、さらに奥にある内面における(真の)傾向を看取、見出すことは困難であると考えます・・。

こうしたことは、おそらく、この記事を読んで頂いている方々の多くもまた、ご理解して頂けるのではないかと思います・・。

そして、こうした内面における何かしらの傾向、特徴を看取するためには、やはり古今東西の文献、モノガタリ、小説などをなるべく能動的に多く読むことが大事であり、理系であれ、文系であれ、本質的に『学ぶ』とは、そうした『人の世』に関する特質、核なるものを能動的な態度にて看取、見出すことを目指したものではないかと思われるのです・・。

今回もまた、ここまで興味を持って読んでくださり、どうもありがとうございます。

昨年
に熊本、山陰東部、福島県周辺にて生じた地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、その後の速やかな復興を祈念しております。