2022年10月25日火曜日

20221024 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.361‐362より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.361‐362より抜粋
ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

確かにピカソの傑作に比すべき名刀というものも存在するであろう。しかし、「絵」のすべてがピカソの傑作でないのと同様、日本刀のすべてが名刀というわけではない。そして名作とか名刀といわれるものは、いずれもそれぞれの部門で、「例外」なのである。そして数からいえば、「例外」でないものが圧倒的に多いことは、言うまでもない。

 従って、徳川期の小身の小物、旗本小普請などという無名の多数人がもった日本刀というのは、その実態は、みなそれぞれの身分・収入に相応したものであったのが実情であろう。「日本刀神話」は結局、「使用しないから」生きつづけて来たのが実態であろう。従って、本当に使用するかもしれぬとなれば、製品の刃物としての質が必ず一定の水準以上のもの、いわば、メイド・イン・USAの「スプリング刀」を選ぶということになるのが当然であった。

 第三に、R氏も指摘された構造上の欠陥である。日本刀もいろいろな面で評価すれば、確かに立派な鉄器であったであろう。しかし構造的に見て、中国の大刀と果たしてどちらが合理的かといわれれば、確かに疑問を感ぜざるを得ない。というのは、もっと極端な例をあげると、構造的には中国の大刀よりさらに徹底的に彎曲したもの、すなわち砲車についている円匙が、白兵戦では最もよい武器であることは、あくまでも事実だからである。

 この円匙は普通のシャベルとは違って、長いまっすぐな木の柄の先に、小型で平たく分厚いスペードがついている。これをやすりでとぎあげると実によく切れる。この丸い部分をまともに顔にでも受ければ、それこそ顔半分がざっくりとえぐり取られでしまうであろう。

 人間、いざとなればみなやることは同じらしく、「西部戦線異状なし」でも、戦場ズレした兵士が、正規の武器を持たず、円匙と手榴弾を持って突撃する記述がある。ジャングル戦でも、生きのびようと思えば、軍刀は捨てても、円匙と手榴弾をもっていた方がよい。穴も掘れるし、武器にもなるし、ヤシの実もわれるし、ヤシの新芽もむけるし、木の根も掘れるし、水牛もさばけるし、フライパンにもなる。しかも絶対に故障は生じなりから、修理師の必要もないし、また手入れの必要もないのである。本当に「刀」というものを実用品として使っていた民族の「刀」の使い方は、どうも、こういった使い方ではなかったかと思う。いわば刀身を平気で焼き串にも使うという使い方である。美術品としてはともかく、こういう使い方をしようとすれば、日本刀はまず、あらゆる面から欠陥製品であったといえる。