2016年6月16日木曜日

20160616 コトバ、文字、神話について・・

A「昨日投稿した記事は3年前の丁度今頃に記した手紙がPCデータより見つかりましたので、個人特定要素を除き、これを以って記事とさせていただきました・・。

これは見方によっては手抜きではありますが、同時に「過去の自分に手助けをしてもらった」と考えますと、まあ、そこまで悪いことでもないと思います・・。

また、過去の自分から手助けをしてもらうことがなければ、このブログをはじめ、我々が何かを為す上において、その多くが困難となってしまうのではないでしょうか?

しかし、そうはいうものの、では「過去の自分とは一体どのようなことが出来、どのような性質、傾向を持っていたのだろうか?」と考えてみますと、それもまた明確に想起、定義することは困難ではなかろうかとも思います・・。

そして、そのような時、過去に自身がノートに記した日記などを読んでみますと、それは当ブログ記事あるいは手紙のように他者に対し公表することを前提としておりませんので、文章としてはひどいものであることが多いのですが、同時に書いた本人からしますと、何と言いましょうか「過去の自分自身が迫ってくる」ような感覚があり、それが落ち込んでいたりした時に記されたものであれば、否応なく再度そういった感情、気分を想起いたり考えたりすることになるのです・・・。

そのように考えてみますとコトバ、文字、文章とはつくづく面白いものであると思います・・。

何故我々はいくつかの線を連ねた形象およびその連続から様々な感情、想念、思考などを惹起させることができるのでしょうか?
こうしたことは自明のことではあるのですが、同時によく考えてみますと、とても深い何かがあるのではないかと思います・・。

とはいえ、こうしたことは何も現代に生きる我々のみならず、それを当初発明した世界各地の古代の人びともまた、そうしたコトバ、文字、文章の不思議さに対し、より新鮮な神秘性、神性を感じていたのではないかとも思います・・。

そして、彼等がコトバ、文字、文章から感じた神秘性、神性に枠組み、形式を与えたものが世界各地における神話の一つの大きな源流、起源であったのではないかと考えます。

さて、ここまで記していて不図「コトバ、文字、文章が神話に枠組みを与えたのであるならば「神話」がその原型、起源ともいえる「歴史」などは、かつてのコトバ、文字、文章と同義に近い意味があり、それ故に、文(ふみ)と史(ふみ)は同じ読み方があるのかもしれないなどど思いました・・。

私はこうしたことは素人ではありますが、何かしらの関連はあるのではないかと思います。

また、我々日本の神話とは、研究者の指摘するところによると東北アジアから東南アジアにかけての地域のそれら(神話)を混淆したものが多く、その原因とは様々にいわれております。
そして、こうしたことは我々が現在用いている日本語、漢字(ひらがなは漢字を崩したもの)とも、ある程度(正)比例しているのではないかと思われますが、どうなのでしょうか?

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
二カ月前の九州、熊本の大地震で被災された地域の諸インフラの早期の復旧そして、それに続く復興を祈念しております。」