2016年6月12日日曜日

加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑 摩書房刊 pp.176‐177より抜粋 20160612

「記」・「紀」の伝える「古代歌謡」が人事、それも男女関係に集中していて、ほとんど全く「自然」を詠っていないことは、すでに述べた。
「万葉集」の歌人たちが、主として人事と係るかぎりで、身辺の自然的環境を描き、大洋や高山や野獣の住む森に触れていないことも、すでにいった。
れが8世紀中葉までの事情であった。
9世紀の「古今集」の歌人たちは、決して新しい「自然」を発見したのではない。
「万葉集」の歌人が、彼らの恋を託するために詠った花や鳥や風や月を、恋をはなれても、それ自身のために詠うようになったにすぎない。
すでに「万葉集」の時代の職業的歌人、山部赤人には、そういう傾向が見えていた。
なぜなら職業的歌人の日常的活動は、非日常的な恋の感情のみを動機としては、成り立つはずがなかったからである。
「古今集」の歌人の多くは、四人の撰者の場合に典型的なように、多かれ少なかれ和歌を専門とした知識人である、しかもそこに「歌合」が加わり、その他の社交的歌作の機会が加わった。
赤人の流儀が継承され、拡大強化されたのは、当然である。
しかもその拡大強化は、宮廷と貴族社会―奈良時代よりもそれ自身規模を拡げてきたところの―内部でおこった。
赤人は遠く旅をして、少なくとも彼自身の眼で道中の自然を見ていたが、「土佐日記」の貫之は、海路土佐から都に至る長い間に、都を恋い慕うばかりで、道中の自然に何らの注意も払っていない。
貫之の眼には碧い海も、朝の太陽も、雨に煙る山々も、吹雪の荒れる野原も、見えなかったらしい。思うに、「日本的な自然愛」には注意する必要がある。
少なくとも貫之が「自然」を愛していたということはできないだろう。彼が愛していたのは、都の春の水、都の花、その春雨、春霞、竜田山のもみじと秋風である。彼が春・秋の歌のなかでうたった花は、おどろくなかれ、六種類しかない(さくら、梅、山吹、おみなえし、ふじばかま、菊)。
小鳥に到っては、二種類(うぐいすとほととぎす)。
貫之が春を愛し、小鳥を愛していたとは考えにくい。
彼は何を愛していたのだろうか。おそらく「自然」をではなくて、言葉をであろう。
ほととぎすという鳥ではなくて、ほととぎすという言葉、物ではなくて、物の名。
故に「古今集」は「物名」一巻(巻一〇)をたてていた。しかも貫之は「古今集」の歌人のなかの例外ではない。
それどころか、撰者にして、しかも集中歌数のもっとも多い代表的な歌人である。赤人の場合にかぎらず、「万葉集」には旅の歌が少なくなかった。旅の風物を見ようとしなかった貫之の場合にかぎらず、「古今集」の専門的歌人たちは、旅の「自然」に関心をもってはいなかった。

「日本文学史序説」上巻

  • ISBN-10: 4480084878
  • ISBN-13: 978-4480084873


  • 20160612 普遍的な知識と場の空気について・・

    A「おかげさまで昨日また1日の閲覧者数が1000人に到達しました。

    また、それに加え、精確な数ではありませんが、おそらく現在の時点(投稿総数322記事)で自身の作成したブログ記事が200程度になったのではないかと思われます。

    これが300記事となるまでブログ記事作成を継続するかどうかわかりませんが、とりあえずは閲覧者総数が10万人に到達するまでは継続してみようと思います・・。

    さて、首都圏では明日から天気が下り坂とのことですが、本日は気温も上がり、さながら夏のような陽気となりました。
    そして、このような陽気になりますと、私は和歌山や九州でのことを思い起こします・・。

    やはり、あちらは首都圏に比べ相対的に日射量が多く、特に夏の暑さとは、質的にこちらのそれとは大分異なっていたように思います・・。

    そのような環境の中でしばらく(数年以上)住むことになりますと、やはり様々な日常感覚、心身に変化が生じるのが自然なのではないかと思われます・・。

    そうしたことに関連して、我々日本人とは、こうした場所の変化に伴う、日常感覚、心身における変化というものに対して、どちらかというと鈍感であった(る)のではないかと思います。

    それは根本において我々日本人多くの生活文化基層が水稲耕作に基づくものであったからではないかと考えられますが、おそらくこうした鈍感さとは、今後も変わることなく、そして同時に真剣に考えるに値するものとして取り上げられることはない(少ない)と思います・・。

    それは結局のところ「狭い日本の国の中での地域、風土の相異なんて大したことはない。」といった、よくわからない同調圧力を基調とした理屈?に押し流されることになるのではないでしょうか・・(苦笑)?

    しかし、その一方において、同時に我々日本人は些細な相異に異様なまでにこだわることも多々ありますので、こうした何と言いましょうか理屈の背景にある価値観、感性の使いわけを、その場その場の空気によって(ほぼ無意識に)取捨選択(状況の表面的な操作)していることが多いのではないかと思われるため、結局のところ徹頭徹尾科学的な普遍性に基づく理系学問分野以外においては、どうも新しく創造的、普遍的な考え、およびその体系を生み出すことができないのではないかと思えます・・。

    また、そうした我が国の傾向、特徴とは、どうもここ最近の情報化社会の進化発展により、急速に海外に対しても知れ渡っていったようにも思えます・・。

    とはいえ、もしかすると、こうした問題は何も我が国だけの問題ではないのかもしれませんが・・。

    そして、そういった問題の根源あるいはその周辺に横たわっているものは一体何であろうかと考えた場合、一つにそれは「言語とその意味との精確な対応に基づいた会話、文章といったコトバの軽視」ではなかろうかと考えさせられます・・。

    ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」が気になるところです・・。

    また、それは異なった視点から見ると中島敦の短編「文字禍」の背景にある考え、観念にも類似していると思います。

    また、これと類似した考えは小林秀雄が本居宣長の古事記を研究した際に思ったこととして述べておりました・・。

    さらに先日読んでおりました加藤周一著の「日本文学史序説」の中においても、それと類似したことを平安時代の和歌(主に古今集)での記述にて述べておりました。

    この部分はこれまでに抜粋引用していないようですので、今後機会を見つけ抜粋引用してみたいと考えております・・。

    ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

    そして、さる4月の九州・熊本における大地震にて被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその先の復興を祈念しております。」



    20160611 教養とは・・?

    ここ最近の1日のブログ閲覧者数は以前とあまり変わず300~500人程度ではありますが、時折1000人以上になることもあり、それがここ1カ月にて生じた当ブログにおける大きな変化であると思います。

    また、記事を書いている私からしますと、それ(閲覧者数が増えること)は大変嬉しく、ありがたいことではあるのですが、同時に「自身の書くブログの内容に関して多少なりとも気を付けなければならないな・・。」と感じさせます。

    そしてこの後者の感情とは実際のところあまりウレシイものではなく、どちらかというと重荷のように感じられ、文章を書く際においては「思うままに書く」ということを抑制させる効果を持っていると思われます。

    しかし、そうであるからといって「思うままに書く」というのは、率直ではあるのかもしれませんが、同時に様々な無用な障害、不利益をも生じさせるものでもあるため、やはり、こうした「重荷」ともとれる感情も私のような賢明とはいいかねる人間が公表する文章を記す際においては、必要なものであるともいえます・・(苦笑)。

    そして、そこまで書いて不図想起したことは精神科医で以前ブログにおいても数度文章を抜粋引用した、なだいなだがどこかの書籍に記していた「教養とは、何かを行う際、それを抑制する効果を持っている(教養が邪魔をする)。」ということです。

    このことから教養とは一見、様々な場面におけるすみやかな行動を妨げるものとして害悪視されそうなところではあるのですが、現在の世界でのあまり好ましからぬ社会的潮流および我が国でのそれを考えてみますと、それは、こうした要素(教養)あるいはその重要性の認識が社会一般において「欠落・欠如」していった結果ではあるまいか?とも考えさせられます・・。

    そして、こうしたことを考えてみますと、不図カズオ・イシグロ原作の小説を映画化した「日の名残り」(The Remains of the Day)を思い起こさせます。

    その内容につきましては、興味を持たれた方々は是非ご覧になってください。


    それはさておき、この「日の名残り」(The Remains of the Day)という作品を現在、このようなかたちにて思い起こすと、それに続きジョセフ・コンラッド著の短編「武人の魂」さらにバートランド・ラッセル著の「幸福論」などが思い起こされます・・。

    これら著作、特に後者に関しては興味を持たれた方々は是非読んでみてください・・。

    さて、これら著作の内容に関しては触れませんが、私がこれらの著作を想起して思うことは「我々人間とは、生きていく上において実利、経済的な利益あるいはそれをもたらす功利的精神も大変重要ではあるのですが、それと同時に、あまり日常的に取り上げられることのない、利益を伴わない名誉、良心、教養などといったものも前者と同程度の重要性、価値および心身に対する影響力を(特に長期的に見て)持っているのではないか?」ということですが如何でしょうか?

    ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。

    また、さる九州、熊本での大地震にて被災された地域の今後の早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」