2023年1月30日月曜日

20230130 昨日のSNS上での出来事から思ったこと【書籍をめぐる縁について】

先日、奈良県奈良市の富雄丸山古墳より新たに出土した長大な蛇行剣、そして大型の楯型銅鏡から、古墳時代に関する蔵書を何冊かあたり、興味深いと思われた記述をいくつか引用記事として作成しました。また、これらについては、さらに、いくつかの引用記事を作成出来るストックも得ました。そして本日も、同題材にて引用記事を作成しようと考えていましたが、昨日、ツイッターでのリツイート、連携投稿へ頂いた反応にて興味深いと思われたことがあったため、本日は、さきに予定していた引用記事の作成を控え、こちらを題材として記事作成をしたいと思います。

かねてより関与させて頂いている共同研究で、月一回、恒例にて開催の共同研究の打合せがあり、これに参加させて頂いております。そこには歯学・工学の研究者と工学系大学院生、そして臨床歯科医師、企業の担当者さま等が参加されています。打合せの後は、これまた恒例で研究者の先生方と大学院生と私とで、共同研究の現状についての見解や、今後の希望や展望などを打ち解けた雰囲気で話し合うのですが、以前に、その中で工学系院生の方と、読んでいる小説の話題となり、私が増田俊也著「七帝柔道記」を紹介させて頂いたところ、前回の打合せ後の話し合いで、彼がこの著作を入手されたことを聞かされました・・。

他方で、以前に私はこの著作から引用記事を作成・投稿していました。そして、さきの出来事を契機として、この引用記事をあらためてツイッターに連携投稿し、さらに、これと関連する興味深いネット記事を返信、引用リツイートしたところ、しばらく経って「何と!」著者ご本人である増田俊也先生から引用リツイートをして頂きました。

これまで、ツイッターやSNSなどで、これに類する出来事は数少ないながらも何度かはありましたが、今回のことについては、やはり驚くに値することであり、また、それは、さきに述べた院生の方とのやり取りや、以前に投稿した引用記事が起点となっていると云えます。

これをさらに遡りますと、以前、2017年の5月に、当著作を少し取り上げたブログ記事を作成・投稿していました。そこから、私が当著作を知ったのは6年ほど前であったことが思い出されました。そして、当著作を知ったきっかけを思い起こしてみますと、これもまた、文系院生時代からの友人との会話であったことが思い出されました。

この友人は、修士課程修了後、「七帝柔道記」の舞台となった大学の大学院博士課程に進み、さらに、研究と同時に柔道ではありませんが、体育会運動部に入部して、部活動にも積極的に参加していました。

そして、この友人との、おそらくは電話での会話にて「この作品が面白いよ!」と聞かされて購入した経緯となりますが、こうした書籍を巡る「縁」のようなものが、SNSなどの進化したネット環境よって生じたということは、以前ではなかったと思われることから、何やら、良い意味での「不思議さ」のようなものが感じられた次第です。

とはいえ、同時にそこから、ここ最近では、こうした書籍を話題とした会話があまり出来ないでいる現実をも思い出され、おそらく、そうしたことは、当ブログ記事作成などに対しても何らかの影響があるのではないかと思われます。しかし一方で、おかげさまにて当記事の投稿により、総投稿記事数は1942に至り、先日投稿のブログ記事にて述べた「1月中に1940記事までの到達を目指す」は達成していました。そして、さらに58記事の投稿により、当面の目標である2000記事に到達することが出来るわけですが、引続き、引用記事、独白形式の記事、そして【架空の話】等の形式を問わず、今しばらく記事作成を続けたいと考えています。なかでも【架空の話】については、さらに続きを作成したいため、しばらく経ちましたら、また自然に作成することが出来るのではないかと思っていますが、さてどうなるでしょうか。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













20230129 株式会社文藝春秋刊 白石太一郎著「古墳とヤマト王権」pp.113-114より抜粋

株式会社文藝春秋刊 白石太一郎著「古墳とヤマト王権」pp.113-114より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4166600362
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4166600366

奈良盆地は、地形的・地理的には大きく三つの地域に分けられる。それは周囲の山地から流出した河川が北から南へ流れる盆地北半の「曾布」の地と、川が南から北へ流れる南半分のうち、最も低地部を流れる飛鳥川ないし曾我川を境にその東方の「やまと:の地と、その西方の「葛城」の地である(図14)。これら「やまと」、葛城、曾布の地域にはそれぞれ大規模な古墳がみられるが、少なくとも古墳時代前初期の出現期古墳は「やまと」の地にしかみられず、この時期にはさらに河内を含む大和川水系では「やまと」の覇権が確立していたことを示すものであろうことは、すでに前章で述べたとおりである。

 このうち曾布の地域やその周辺では、「やまと」との境に近い天理市北部の和邇の地の南に、後漢の中平(184~189)の年号銘をもつ鉄剣を出した東大寺古墳(墳丘長140メートル)を盟主とする東大寺古墳群がある。また奈良市西部の富雄には、三面以上の鏡やさまざまな石製品を出した大円墳の富雄丸山古墳(径86メートル)がある。これらはいずれも前期でも新しい段階のもので、しかも地域的には曾布の周辺地域であって、これらを佐紀古墳群の前進勢力と考えるのはむつかしい。

 このように佐紀古墳群へのヤマトの王墓の移動は、まさに突然の出来事であり、その歴史的意味を解くことは容易ではない。この問題にちては、このあと中期になるとヤマトの王墓はさらに大阪平野の古市古墳群や百舌鳥古墳群に移動するが、そうした王墓の移動の問題全体のなかで検討することにしたい。