2023年1月30日月曜日

20230129 株式会社文藝春秋刊 白石太一郎著「古墳とヤマト王権」pp.113-114より抜粋

株式会社文藝春秋刊 白石太一郎著「古墳とヤマト王権」pp.113-114より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4166600362
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4166600366

奈良盆地は、地形的・地理的には大きく三つの地域に分けられる。それは周囲の山地から流出した河川が北から南へ流れる盆地北半の「曾布」の地と、川が南から北へ流れる南半分のうち、最も低地部を流れる飛鳥川ないし曾我川を境にその東方の「やまと:の地と、その西方の「葛城」の地である(図14)。これら「やまと」、葛城、曾布の地域にはそれぞれ大規模な古墳がみられるが、少なくとも古墳時代前初期の出現期古墳は「やまと」の地にしかみられず、この時期にはさらに河内を含む大和川水系では「やまと」の覇権が確立していたことを示すものであろうことは、すでに前章で述べたとおりである。

 このうち曾布の地域やその周辺では、「やまと」との境に近い天理市北部の和邇の地の南に、後漢の中平(184~189)の年号銘をもつ鉄剣を出した東大寺古墳(墳丘長140メートル)を盟主とする東大寺古墳群がある。また奈良市西部の富雄には、三面以上の鏡やさまざまな石製品を出した大円墳の富雄丸山古墳(径86メートル)がある。これらはいずれも前期でも新しい段階のもので、しかも地域的には曾布の周辺地域であって、これらを佐紀古墳群の前進勢力と考えるのはむつかしい。

 このように佐紀古墳群へのヤマトの王墓の移動は、まさに突然の出来事であり、その歴史的意味を解くことは容易ではない。この問題にちては、このあと中期になるとヤマトの王墓はさらに大阪平野の古市古墳群や百舌鳥古墳群に移動するが、そうした王墓の移動の問題全体のなかで検討することにしたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿