2023年1月29日日曜日

20230129 株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」 pp101-102より抜粋

株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006001665
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006001667

前方後円墳の形式を「楯」の意匠として考えた最初の人は、誰あろう浜田耕作博士であった。昭和11年8月のことである。博士は、前方後円墳の形式の発達を概観した上で、一種の宗教的意義を有し、九州などの古墳の表飾にしばしば現れてくる楯の形がここに移入されたのではないかと推定し、その論拠として大和生駒郡にある成務天皇・神功皇后の二陵の陵号が狭城盾列池後陵、狭城盾列池上陵とあることから、この盾列という地名が、両陵はじめそのほかの前方後円墳の群列する状態が宛然楯を並べた様に見えるところから名づけられたものとしたのである。実際にこの地名は、盾列里・盾列池とも関連して決して新しいものではなく、「延喜式」はもとより「日本書紀」にも成務天皇・神功皇后については「狭城盾列陵」に葬ると見え、「古事記」もまた成務天皇の陵は「沙紀之多他也那美」にありと記しているのである。この盾列という地名は、さきの久米歌についてみても、

盾並めて 伊那佐の山の

木の間ゆも い行き目守らひ

戦へば 我は飢ぬ

島つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね

とあって、「楯並めて」は原文に「多多那米弖」とよんでいる。これは「戦へば」が「楯交ふ」に由来していて、やはり多多加閇婆」とよんでいることに相応じているのである。楯は射に対応するきわめて重要な武器であったのであった。浜田博士は、さらに古代の宗教的儀礼の表飾となった各種の楯を図示して、その形状を説明し、とくに筑前桂川古墳の表飾のそれが、上部は円く彎曲し、両側が中央においてややすぼまり、前方後円墳と相似することも指摘している。

 この説は、しかし浜田博士以後、これを正しくうけつぐ人がなく、小林行雄博士がその著「古墳の話」に、それも諸説の一つとして列挙された程度で、ほとんど30年余かえりみられることがなかった。しかしこの「楯」の背景にこれからのべるような服属儀礼を考慮するとき、単なる形状の相似ということだけではなく、その形状の意味がより積極的なものとなるであろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿