2021年8月27日金曜日

20210827 既投稿記事をいくつかまとめたもの①

野上彌生子著「迷路」上巻 P.584
「なんでも、いいたい放題いってのけるところの多津枝には、自分では意識しない故郷の血にひそむ、外観の精錬された「近代」とは、まるで反対な熊襲の蕃女めいた野生が、肉感的にまで迸しる。」

上掲引用文に登場する多津枝から、同年代と思われる鹿児島に出自を持つ随筆家の白洲正子を想起された方々もいらっしゃるのではないかとも思われます。ともあれ、現代においては死語になりつつある「熊襲」や「隼人」といった古代の語感を持つコトバから連想されるものは「野生的な強さを持つ辺境部族」と評して良いと思われます。そしてまた同時に、そこからは同部族の女性(蕃女)にまでは想像が至ることは少ないと思われます。むしろ、それとは反対に、熊襲・隼人の地、すなわち、九州の女性全般についての古来からのイメージとは、温和で、男性を立てる、芯の強い女性像といったものになるのではないかと思われます。

こうした読書の際に感じる疑問およびその視点は、その地域を知るための大切なヒントになることが多いと思われます。また、こうした経験から思うことは、地域の文化風土といったものは、実際、その土地にある程度の期間住んでみないと分からないのではないかということです。

そして、それを念頭に置いて頂き、以下の文章に続きます・・。

鹿児島市の郡元周辺に鴨池という地名があります。
文字通り、ここにはかつて、鴨がすむ大きな池があったとのことですが、現在、そうした池はありません。私の知る限り、鴨池には、かつては動物園(現在はさらに南に移転した)があり、現在のこの場所には、大規模商業施設、市民球場、医療保健施設などがあります。

この鴨池から県道20号線(市電通り)沿いに騎射場(きしゃば)を経て天文館方面にしばし北上しますと、鹿児島有数の古社の一つである荒田八幡宮に至ります。

かつて、この荒田八幡宮では、武の神である八幡神を祀る神社に相応しく、流鏑馬神事が行われていましたが、おそらく、その名残が、さきに出て来た(荒田八幡の)近隣にある「騎射場」という地名になっているのではないかと思われます。

しかしながら、他の八幡宮を含めた神社にて、流鏑馬神事が行われる場所のことを騎射場と表現する例は聞いたことがありませんので、これは当地域独特の文字文化(文字による事物表現の仕方の傾向?)によるものであるのかもしれません・・。

他方で「騎射場」(きしゃば)と同じ音を持つコトバを以前に聞いたことがありました。

それは琉球、沖縄での地名、苗字の「喜舎場」(きしゃば)です。

この「喜舎場」の「喜舎」について考えてみますと、それは仏教用語の「喜捨」に起源を持つのではないかと考えられます。この「喜捨」は「布施」とも似ているのですが、その意味合いとは「功徳を積むために喜んで自身の財物を施す」という現代でいうところの「寄付」にあたると云えます。そして、この「功徳」という意味合いにおいて「喜捨(舎)」には宇佐八幡宮をはじめとする全国の諸八幡宮にて流鏑馬神事と同様に行われる魚や鳥を野に放つ「放生会」神事と共通する要素があるものと考えます。

また、この八幡宮における「放生会」神事の起源は、南九州にて朝廷に対し反乱を起こし、戦で倒れた隼人の鎮魂の意味で、はじめられたとされています。

これらのことを考えてみますと、鴨池(放生会神事を行うための池)、騎射場≒喜舎(捨)場(功徳を施す場所)、荒田八幡
(放生会神事)が、ごく近隣に存在すること、そして、さらには現代においても、この鴨池に、かつて動物園が存在していたことは大変興味深く、この地域の文化の基層から現代に至るまで貫かれている何かしらの信仰的な観念の存在、あるいは、それらの持つコトバの多義性(我が国における原初的な詩心といっても良いかもしれません・・)といったものを示しているのではないかと考えさせられるのです。

そしてまた、この「騎射場」と「喜舎場」との関係に類似した事例として、かつて山口県山口市に存在した鋳銭司(すせんじ)村と、福岡県福岡市西区に存在する周船寺(すせんじ)が挙げられます。

鋳銭司とは、文字通りとも云えますが、7世紀末から10世紀末までの間、朝廷が貨幣製造を行っていた役所の名称であり、双方の「すせんじ」に、かつて、貨幣製造を行っていた役所が存在していたことから、これら地名の名称は同一起源であると思われます。

また、以前、周船寺の方の「すせんじ」付近に在住していた頃、この地名(周船寺)の由来を複数の方々に訊ねてみたところ、その中で多かったのは「周船寺の地名の由来は、当地が糸島半島の東側の付け根にあたり、そこを基点として船で糸島半島を周り、西側の唐津方面に抜けるか、あるいはその地峡に近いという立地から、運河あるいは陸路を用いて西側に抜けるかを選択する、いわば交通の要衝であったことによる。」というものであり、当地域、九州においては、島々の民俗文化にて類似した事例を読んだ記憶があり、また、それは世界的に見ても、バイキングが船を陸路でコロを用いて近くの海あるいは河川へ移動している情景を描いた絵を以前、見た記憶があることから納得できます。

しかしながら最後の「寺」となりますと、豪徳寺祐天寺などの地名(駅名)の様に同名の寺がそれらの地に存在しなかったことから、やはり、さきに述べましたように、鋳銭司・周船寺(すせんじ)は「かつての貨幣製造所」という解釈にて問題はないと思われます。

さらにまた、もう一つの類似例として、大分県の臼杵(うすき)市、宮崎県北部にかつて存在した臼杵(うすき)郡、鹿児島県鹿児島市の宇宿(うすき)、鹿児島県奄美市(奄美大島)の宇宿(うしゅく)が挙げられます。かつて、鹿児島県鹿児島市の宇宿周辺に在住時、親戚が仕事のため愛媛県松山市に在住しており、所用にて北部九州、山陽方面に行く機会がありますと、立ち寄らせて頂きました。そして、松山からの帰路は、JR予讃線にて松山から八幡浜に行き、そこからフェリーに乗り、右手に発電用の大きな風車の立ち並ぶ佐田岬半島を眺め豊後水道、豊予海峡を渡り、臼杵(うすき)港に着き、そこからJR臼杵(うすき)駅まで歩き、日豊本線に乗り南下し、そして指宿枕崎線宇宿駅に帰着下車して帰宅するといった具合でした。

フェリーを下りて着いたJR日豊本線の臼杵駅にて切符を購入する際、はじめ「宇宿(うすき)まで一枚ください」と駅員さんに伝えたところ、怪訝な顔をされてしまったことから「・・すいません、指宿枕崎線の宇宿まで一枚ください」と云い直したことが、ここで思い出されます・・。

ここ大分県の臼杵は、かつて大友氏のもとで繁栄し、戦国末期には宣教師のフランシスコ・ザビエルも訪れ、布教活動を行っていたと伝えられています。そのまた一方で、臼杵は仏教遺跡である磨崖仏にて全国的に知られています。ちなみに磨崖仏は、鹿児島においても南九州市の川辺や鹿児島市の慈眼寺などでその存在が知られています。鹿児島での磨崖仏の起源を考えてみますと、古来より薩摩・大隅地域では豊の国(現在の大分)からの移民が多かったことから、これら磨崖仏も、その多くは豊の国(現在の大分県)から移民してきた方々、あるいは、その子孫の方々によって製作されたものではないかと思われます。

そして、鹿児島(薩摩・大隅)に移住前の大分(豊後国)よりもさらに以前の、これら磨崖仏の起源を考えてみますと、我が国にて磨崖仏を含む、比較的初期の仏像彫刻などが製作された地域の多くは、古くは渡来人が移住してきた場所であり、そうした事情を加味して鹿児島(薩摩・大隅)そして、それ以前の大分(豊後国)での磨崖仏に限定して考えてみますと、それらの作風などから、朝鮮半島南東部の旧「新羅」地域に起源があるように思われますが、これは実際に見聞したわけではなく仮説です。

ともあれ、そうした「きしゃば」にはじまり「すせんじ」そして「うすき」にまで話題が飛び、そこから更にもう少し話題を展開させるため「うすき」の地名の最後につく「き」の意味について考えてみたところ、以下の書籍記述が思い出されました・・。

谷川健一編「地名の話」平凡社刊pp.195‐198より抜粋
「谷川 中野さんは「八幡信仰史の研究」のなかで、宇佐氏とか大神氏とか辛島氏など宇佐八幡の神職の家のことを書いておられますね。その中の大神という名前は大和三輪山の祭祀氏族である大神氏から出たといわれていますが、宇佐八幡の「託宣集」を見ますと、まず辛国の宇豆高島に降臨した八幡神が、次に大和国の膽吹嶺に移ったと書かれています。この膽吹嶺は大和にみつからないのですが、「和名抄」にある大和宇陀郡の伊福郷のことだろうと先生はお考えのようですね。

中野 私は宇陀郡をつぶさに歩いてまいりました。

谷川 私は前から伊福という地名に関心をもっているのですが、「和名抄」にのっている六ケ所の伊福という地名のうち、四カ所が銅鐸出土地なんです。そこで、古代の伊福部という氏族はおそらく鋳銅に関係をもったのじゃないか、と推測をたてましてね。伊福の福は真金吹くとか銅を吹くとかの吹くに相当して、金属を精錬する時に使用するふいごに関係のある語だと思うのです。
それで大和国の膽吹嶺を宇陀郡の伊福郷(現在の大宇陀町)に比定され、またそのとなりの菟田野町の大神という部落を、宇佐に関係のある大神氏の出身地と考えられる中野先生の御説にたいそう関心をもったわけです。じつは大神部落と目と鼻のところにある大沢とか松井という部落には水銀鉱山があり、戦後も採掘していたのですね。現在は採集をやめているようですが、そこで宇佐の八幡神がいったん大和の膽吹嶺に飛んで、また最後は宇佐に帰っていったという伝承も意味深長で、銅とか水銀とかに関係のある技術集団を、大神氏が伴って宇佐にやってきたのか、あるいは大神氏自身がそうした技術をもっていたのか、いろいろと想像してみたくなるのですね。
ところで「託宣集」にもどりますが、いったん大和の膽吹嶺に移った神は、こんどは紀伊国の名草浜に移る、とあります。紀の川下流一体が名草ですね。日前宮のある付近。

中野 そうです。紀伊国と国東・宇佐との往復は極めてはげしかったようです。

谷川 ところで私は昨年国東半島を一周してふしぎに思ったのは、キという言葉のつく地名の多いことです。ざっと見ても堅来・櫛木・岐部・富来・来浦・安岐・杵築など。

中野 ここは古い豪族の育った所で、その姓は紀伊国の紀氏が非常に多いのです。

谷川 それはどういうわけでしょう。

中野 まだはっきりわかりませんが、石清水八幡宮別当紀氏の関係かと考えましたが、もっと前からだと思われる点もあります。とにかく紀氏は紀伊国がもっとも多く、大和・和泉・河内を主とし、山城・美濃などに広がり、紀部になると中国・四国に広がっている。こういうようにみると、海上交通の関係から宇佐・国東にも入ったと思われます。

谷川 「神功紀」に紀直の祖豊耳というのも出てまいりますね。紀氏とトヨが出てくるものでへんな感じがしたことがあります。

中野 国東の古い豪族はほとんど紀氏で、後の八幡宮に所属しているのが多いのです。

谷川 その紀氏は紀州に起源をもっている?

中野 分布からみてもそうだと思います。

谷川 数年前に徳島県南部の海岸を高知県境までたどってみたことがありますが、あそこもキのつく部落が多い。牟岐・木岐・志和岐・由岐というふうに点在しています。今の阿南市の富岡もまえは牛岐といったそうです。この岐の字のつく地名は、海士のばあいも海女のばあいもありますが、例外なく海人部落なんですね。高知県に入りましても、佐喜浜という海女部落だったところがあります。ところで阿波徳島の吉野川の南は昔は長の国と呼ばれて、瀬戸内海における安曇の海人の根拠地だったところですので、この岐の字のつく海人部落も安曇氏と関係があるかな、と考えたことがあるのです。そこで最初おっしゃった豊前・豊後の安曇氏と海部の関係のことが気になるのですが・・・。」

そしてもう一つ、地名の最後につく「き」についての書籍記述が思い出されました。記述の対象となる時代は、さきの「地名の話」内記述の方が新しく、以下記述の方は、おそらくは朝廷以前の時代も含み、そしてまた、我が国の歴史の起源についても触れるものであり、その冷静な書きぶりからはうって変わって躍動する知性が感じられます。

金関丈夫著 大林太良編 岩波書店刊「木馬と石牛」pp.59‐61より抜粋
「日本のいわゆる金石併用時代の青銅器文化に、中国地方の中央を境界にして、東西二つの文化圏があった。東は銅鐸の文化であり、西は銅剣、銅矛の文化であるということは、今ではあまねく知られている。また出雲地方が、この西の文化圏にあったということについても、明らかな証拠がある。現に出雲大社の宝殿には、この地方から出土した銅矛の実物が蔵されている。この二つの異なる青銅器文化圏の意義をどう考えるかということは別として、弥生式の時代に、出雲地方が北九州を中心とする一つの優勢な文化圏にあったということは、またたいへん面白いことではないかと思う。「古事記」によると「ムナカタ」氏が祭祀したという筑前の宗像神社の祭神の一人「イチキシマヒメ」というのは、宗像三女神のうちで、後世に創らせたものであったが、この「イチキシマヒメ」の「イ」は単なる接頭音であり、「チキ」とか「ツク」とかに語源がある。私の考えでは、この「チキ」「ツク」などという語と、筑紫の「ツク」また九州の地名に多い「ツキ」例えば秋月、古月、香月、杵築、「シキ」例えば伊敷、一色、「スキ」例えば臼杵、指宿、「チキ」例えば市来、加治木、「チカ、シキ」例えば値賀島、志賀島などとは関係があり、これらの音で表されている名を冠した一つの強力な海洋部族があったかと思う。出雲地方へ北九州の青銅文化をもたらし、出雲の海辺の一角に定着して「杵築」の地名をのこしたのも、恐らくこの一族ではなかったか。こんなことをいうと、大社関係の方々にしかられるかもしれないが、大社の祭神はいまはオオナムチノミコトということになっているかもしれないが、これは近世以後のことであって、古来スサノオノミコトと信ぜられていたのである。ところがさきの宗像の三神は、天安河原でうけひをしたときに、スサノオノミコトのものざねから生まれたので「乃ち汝の子なり」とアマテラスからスサノオにおしつけられたという。すなわち宗像の三神はスサノオノミコトの子だということになっている。この説話のおこりは、おそらく「イチキシマヒメ」の祭祀者がスサノオノミコトを祭祀する部族と接したときに生まれた、よくある妥協の思想から成立した話であろう。大社にはスサノオと共にイチキシマヒメが祭られたことがなかったとはいえないと思う。出雲の部族が、古代においては日本海をまたにかけたたいそう発展的な海洋族を含んでいたことは、「古事記」の記事や、「風土記」の国引きの伝説からもうかがわれる。若狭路から琵琶湖に入ったと思われる「イツクシマヒメ」も、両部思想のお陰で安芸の厳島と同様弁天様になったが、島の名の竹生には「チク」の語源をとどめている。これらも日本海から近畿に入ったのであり、出雲族の越の国々との交通の遺物であろう。京都の出雲路というのも同方面から侵入したこの部族の故地であろう。竹生島の「チク」は滋賀の「シカ」にも関連があろうかと思う。出雲神話に南方説話の影響の多いことなども、私の以上の考えを支持するもののようである。近年鰐淵村の猪目洞穴で発見された弥生式時代の貝輪などにも、南海産のテング貝で作られたものがあった。土俗の方からいっても、中海のソリコブネのような船が南方につながることは、早くから人々に云われており、その他にも色々と面白い事実があるようだ。佐陀神社の神事の海蛇が南海から暖流に乗ってきたものであることも、この際見逃し難い。以上はただ旅中、不備な資料を基にした私の思いつき出会って、詳細はもっと深く考えなければならないが、請われるままに仮に発表したのである。」

上掲記述の最後に、詳細な再検討は必要としながらも「それら地名と、その背後にある文化の起源は南方にあるのではないか」と結んでいましたが、ここで民俗学者・言語学者として知られている琉球に出自を持つ伊波普猷による以下の地名、およびその意味についての記述が思い出されました。

岩波書店刊 伊波普猷外間守善校訂 『古琉球』pp.58-59より抜粋引用
「琉球語では城のことをグスクというが、八重山では石垣で囲うた所をグスクといっている。金沢(庄三郎)博士がかつて沖縄教育会で述べられた演説の一節に、このグスクということばは、沖縄人が大和民族であることを証する好材料となるのであります。朝鮮の古語では村のことをスキ村主のことをスクリ(宿禰と同意義)と申します。この言葉は日本語にも這入って日本の位の名にもなっていたのでありますが、それと同意義の言葉が日本語では城と書いてシキと読んでおります。大和の地名にシキという所がありますが、またシキシマ(敷島)という日本国の名にもなっています。シキは城ということになります。シキという言葉を研究して見ると先ず二つに分けることが出来ます。シは住むという意味で、キは囲の中という意味であります。即ち囲の中に住むという意になります。(中略)然らば日本語でシキ朝鮮語でスキという事は一体どういう所を指してそういうたのであるかというと、高い所にあって石の壁で取囲まれている所という意味であります。(中略)それで日本語のシキも朝鮮語のスキも琉球語のスクも皆城壁という意味であります。是らの名詞で、正鵠を得た判断が出来るので、沖縄は敷島即ち日本の一部分であるという事は争うべからざる事実であります。歴史がなくとも、伝説がなくとも、記録がなくとも、神話がなくとも、沖縄人の祖先は日本人のそれと同じくシキの中に住んでいた事が証明されます。という事であったが、アマミキヨ種族は沖縄島に上陸して後もグスクを築いてその中にいたのである。(グスクのグは敬語である。)佐敷はもと「狭いスキ」または「小さいスキ」ということで、これはその地勢から考えてもなるほどと思われる。(佐敷という地名は熊本辺にもあるのである。)これらは皆沖縄人の祖先が北方の同胞と共同なる根源地に住していた事を証明する好材料である。」

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部

順天堂大学医療科学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

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