2023年6月3日土曜日

20230603 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.265-267より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.265-267より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480084886
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480084880

「三酔人経綸問答」は、三人の酒に酔った男が、それぞれの政治的信条を戦わせる話で、その豊富な内容は、明治初期の政治文学のなかで、群を抜く。登場人物の一人は、「豪傑君」という右翼軍国主義者で、アジア大陸への拡張政策を唱える。もう一人は「洋学紳士」とよばれ、急進的な平和主義者で、国内における自由主義的な政策を主張する。第三の人物は、以上二人の客を迎える主人、「南海先生」で、現実的な漸進主義の立場をとる。たとえば対外政策について、南海先生は侵略的軍国主義に与せず、また無防備の絶対平和主義にも賛成しない。日本の将来を「小邦」の条件のもとに考え、「世界孰れの国を論ぜず与に和好を敦くし、万已むことを得ざるに及ては防禦の戦略を守り、懸軍出征の労費を避け」るのが、良策だろうという。また国内の民主平等の制ー一院制・普選・地方官公選・無料教育・死刑廃止・言論結社の自由などーについても、直ちにその実現をもとめる洋学紳士と、それを非現実として軍縮を強調する豪傑君の話を、それぞれしりぞける。そして民主思想が直ちに実を結ぶことは期待できないといい、しかし「君真に民主思想を喜ぶときは、之を口に挙げ、之を書に筆して、其種子を人々の脳髄中に蒔ゆるに於て」、遠い将来にそれが実現されるかもしれない、という。

 この三人の人物は、いずれも戯画化され、批判されている。豪傑君は、単純な国権論者で、時代後れだとされる。しかしその議論の中には、いわゆる「戸閉り」論がある。洋学紳士は、夢想的な民権論者で、改革のための改革をもとめ、政府を攻撃のために攻撃するといわれる。しかしそこには、大国間の争いに中立する小国の民主制の強調がある。南海先生は、あまりにも常識的なことで胡麻化していると二客から批判されるが、政治的理想はただちに実現されなくとも、公然と表明されなければならない。というのである。けだし三酔人のいうところの多くは、ほとんどそのまま一世紀後の今日の政論家の説に通じる。

 鶏声暁を報じて、二客が去り、「三酔人経綸問答」は終る。その末尾の文句は次のようでようである。「二客竟に復た来らず。或は云ふ、洋学紳士は去りて北米に遊び、豪傑の客は上海に遊べりと。而して南海先生は依然として唯酒を飲むのみ」。

「三酔人経綸問答」は、政治殊に国際政治に関して、異なる意見乃至立場を、目的と手段、あるいは価値と現実、の関係解釈のし方にいたがって、相互につき合わせ、それぞれの立場を相対化している。それぞれの立場が、兆民その人の考えの三つの面を代表していたことは、いうまでもないだろう。両極端の立場の仲介者としての南海先生が、必ずしも兆民の立場なのではない。すべての政治的意見ーすなわち価値と現実との関係の具体的な定義ーのこのような相対化は、十九世紀の日本社会において画期的であり、またその相対化が、基本的な価値ー自由平等と民権ーを相対化せず、むしろその普遍的妥当性への確信を前提として行われたという点で、殊に画期的である。