2024年4月29日月曜日

20240429 昨日の続き、ある程度大きな規模の歴史を扱う著作から

おかげさまで昨日の投稿記事は、投稿翌日としては比較的閲覧者数が伸びました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。

さて、昨日の投稿記事でアレクシ・ド・トクヴィルとユヴァル・ノア・ハラリとの著述の仕方に類似するとして宮崎市定を挙げましたが、その後、それ以外に「銃・病原菌・鉄」上下巻の著者であるジャレド・ダイアモンドの文章とも通じるものがあることが思い出されました・・。

「銃・病原菌・鉄」上下巻が我が国で刊行されたのは20年以上前であり、私は和歌山市在住期間に読んだ記憶があります。そして、その後、2016年、世界規模でのベストセラーとしてハラリによる「サピエンス全史」上下巻が広く書店に並ぶようになりましたが、いくつかの書店での陳列で、「サピエンス全史」の隣やごく近くに「銃・病原菌・鉄」が関連著作のように並んでいるのを見たことを記憶しています。

あるいは、そのような配置を採る書店は現在もあると思われます。そして、その理由を考えてみますと、両著共に「ある程度大きな視座から眺めた、さまざまな歴史の推移を述べて、それらから考えられる知見や見解などを述べる」といったところにあると云えます。

私見としては、そうした著述・書きぶりにて歴史を扱った著作は、興味深いものであり、さらにまた、そうした書きぶりでの歴史の著作は、比較的読み易いものになると思われます。また、そうした著作の代表的なものとしてフレイザーによる「金枝篇」が挙げられると考えます。

こちらの著作は、記載内容の真偽などをあまり考慮せずに読み進めますと、大変に興味深いものであり、これまで知ることがなかった、かつての人類のさまざまな様相が浮かんでくるのですが、こうした、いわば帰納法的な記述(具体例の羅列)の著作(特に大著)とは、比較的容易に我々をこれまで知らなかった世界に誘うことが出来るようで、あるいは先述の「銃・病原菌・鉄」や「サピエンス全史」が世界規模でのベストセラーになった理由は、このようなところにもあるのではないかと思われるのです。

ともあれ、そうしますと、昨日の投稿記事で述べた宮崎市定の諸著作もまた、ハラリによる「サピエンス全史」が発売する際に関連著作として近隣に配置することも適切であったと思われるのですが、そうした書籍の配置を採る書店は2016年当時なかったと思われます。

そしてまた、その後もハラリによる新著が定期的に刊行されましたが、それぞれの発売の際においても、宮崎市定の著作が関連著作といった扱いで、近隣に置かれていたことはなかったと思われますので、今後の世界情勢を検討するためにも「ある程度大きな歴史の動き」を扱った著作が読まれる世界的気運・傾向があるなか、我が国では、宮崎市定などの研究者がもう少し取りあげられ、そして、より多くの興味を持つ方々に読まれたら良いと思われました。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2024年4月28日日曜日

20240428 トクヴィル、ハラリそして宮崎市定から

ここ数日間は、久しぶりに自らの文章によるブログ記事を作成しましたが、数日続けますと、また自らの文章を作成する感覚が作動するのか、このように、あまり躊躇なく文章を作成することが出来、また同時に、そのさきに続く文章の主題についても、同様にあまり躊躇なく選択して、書き進めることが出来るようになるのだと思われます。

そういえば、ここ最近はアレクシ・ド・トクヴィルによる「旧体制と大革命」を読んでおり、それと並行して文庫版のユヴァル・ノア・ハラリによる文庫版の「21lessons 21世紀の人類のための21の思考」も読み進めてきたのですが、少し辛く感じられてきたため、ここ数日は片方を読むのを止めています。とはいえ、それにより、ここ2日間、自らによる文章のブログ記事作成が出来ていたのであれば、それはそれで問題はないと考えます。

そうした事情で「旧体制と大革命」は現在も読み進めており、またトクヴィルによる著作は、当著作を含め、これまで邦訳版しか読んだことはありませんが、おそらくは、そこからも知覚出来る、物事の変遷の推移などを説明する際などによくあらわれる、ある種の「トクヴィル節」のようなものがあり、これがまた、先述の「21lessons 21世紀の人類のための21の思考」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリの文体とも何やら近しいように思われるのです。これは先日、ハラリの著作を読み進めることを止めたことによる、何らかの効果により、そのように感じられるのか分かりませんが、他方で、双方著者ともに、それぞれの記述で事物の歴史的な変遷の推移を述べることが多く、そしてこれが、双方を近しいと考える主因であると考えます。

さて、ではほかに、こうした歴史的推移の説明が文中に多くあると思われる著者をと、考えてみますと、宮崎市定がそれに近いのではないかと思われました。また、そこから宮崎市定のような歴史家が戦前から戦後期も通じて活躍することが出来た社会とは、そこまで悪くなかったのではないかと考え、その背景を知るために「宮崎市定」とネット検索をしたところ、その経歴に「(旧制)大学を卒業後、1年志願兵として入営、そして除隊後の1932(昭和7)年、(旧制)高等学校教授職にある時に第一次上海事変に応召されて出征し…」と書かれていました。そこから、戦地の補給所所長などを務める応召の予備役下級士官の本職が高等教育機関の教授職であるといった社会に、ある種、西欧社会に近しいものを感じましたが、あるいはまた、こうした設定は小説や映画やマンガの設定としても大変面白そうであり、話の展開としては、大学生時代に予備役士官の訓練課程を経て、その後、東洋史を専門とする研究者となり、(旧制)高等学校で教鞭を執っている主人公が、中国大陸での戦線の拡大により応召され、やがて戦火は収まり、最前線からは少し離れた補給所の所長として主人公が落ち着いていた頃から、度々、派遣軍総司令部などの上級司令部の幕僚達が末端の補給所まで訪れるようになり、そこで、東洋史からの観点による中国諸組織との外交交渉や文化に関連することなどについての助言などを求められ、やがて今度は、逆に末端の補給所所長が上級司令部にまで出向いて、幕僚を相手に講義形式にて情報提供などを行い、さらには変装をして敵奥地にまで進入して、敵軍の規模、装備状況などを把握して司令部に報告するなどといった特殊任務をもするようになり・・・といったシリーズものの背景として、なかなか面白いのではないかと思われます・・。

と、このようなことを書いていますと、不図、実はこうしたことが思いついたのは、先日読了したトルストイの「セワ゛ストーポリ」からの影響であることに気が付かされました。この「セワ゛ストーポリ」の和訳文は、おそらく、視覚に重点を置いたものであり、あるいはHBOなどの海外の優れた映画・ドキュメンタリー作成会社が再現を試みると良いと考えます。

ともあれトクヴィル、ハラリ、宮崎市定そしてトルストイと色々と話は飛びましたが、このようにあまり締りはないものであれ、文章を著していくうちにまた、新たな文章作成の感覚を見出していくのではないかと思われます。そのため、今しばらくは地の文章で書いてみます。

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2024年4月27日土曜日

20240426 鹿児島訪問による記憶の励起と、それに対応する言語との関係について

昨日は、直近の鹿児島訪問による在住期間の記憶の励起そして想起について述べました。また、これら想起された記憶は、これまで(どうにか)9年近く当ブログを継続してきた私の基層にあるものであり、また同時に、以前にも当ブログで述べたことではありますが、これまでのいくつかの異郷在住経験の中でも特に印象深いと云えます。

もちろん、それ以前の和歌山もまた、和歌山市と南紀白浜とで、それぞれ記憶がありますが、それらは総じて鹿児島のほど強烈なものではありません。とはいえ、おそらく、記憶とは、強烈であればあるほど良いというわけでもなく、また私の場合、和歌山、南紀白浜での在住経験や記憶があったため、さらに西南方面の鹿児島での新たな生活も、そこまで大きな心身への負担を伴わずに、どうにか馴染むことができたのではないかとも思われます。

また、昨日の投稿のブログで「鹿児島での記憶は人に関するものが多い」と述べましたが、これはについては、鹿児島市の中心市街地・繁華街である天文館を歩いていますと、何故か、当時の記憶が思い起こされることが多く、また、それは必ずしも自分が歩いている天文館にまつわるものだけではなく「・・ああ、そういえば、そうだったなあ・・。」といった、いわば、隠れて見えなくなっていた在住当時の記憶が、突如現れるといったことが多いです。

さらに、対話から「ああ、そういえば、あの時はそうだったなあ・・」といった具合に想起されることもあり、また、その記憶をその場で話して当時の様子がさらに鮮明に思い出されることもありますが、割合としては、さきに述べた、市街を歩いている時などが多いと云えます。

先日の鹿児島訪問でも、そのようにして、記憶が度々想起され、そうした記憶をもとに、本日ではありませんが、いずれ、当ブログ記事で述べたいと考えていますが、しかし、ここまで書いていて、不思議あるいは面白いと思われたことは、想起された記憶の内容が、いずれも実際に自らの経験であることを疑わないことです。

つまり、それらの記憶はいまだ反省や考察を経ておらず、いわば即自的な記憶と云え、また他方で、それが、自らの、具体像を持つ記憶の素材になるということです。そして、この想起されたての記憶とは、その後に為されるさまざまな検討、考察において極めて重要なものとなり、そこから、この段階における、ある種の「愚直さ」ともとられかねないほどの「率直さ」すなわち、過去の現実での事物と、それに対応する言語の精確さのみに注意を集中した態度が重要になるのではないかと思われます。

そしてまた、こうした「率直さ」とは、おそらく、社会において、さまざまな文化現象が洗練、発展すると、それに伴い、社会におけるスノッブ的な傾向が強化され、徐々にさきの「率直さ」のような態度が無粋であり、ダサく、カッコ悪いものと見なされる傾向があると思われます。

とはいえ、そのようにして、現実の事物と、それに対応する言語の関係が、あまり考慮されなくなりますと、やがて、誰もが自信をもって自らの言葉で言語表現をすることが困難になっていくのではないかと思われます。

そして、このこと、つまり事物と言語の対応関係については、鹿児島を主とする九州での在住期間で悩んでいた記憶がありますので、私にとって九州、鹿児島への訪問は、さきの対応関係における率直さをあらためて考えさせる契機となる一面があるとも言えます。

現象と言語の対応関係の精確さについて、私はそこまで意識しているわけではありませんが、しかし、それがあるからこそ、事物と言語との調和(レジストレーション)が可能になり、そしてまた、そこから、歴史や、その蓄積から析出される思想などへと至るのではないかと考えます。

その意味において、今世紀に入ってから昨今に至るまでの我が国の各種文化は、さきの「事物と言語の対応関係の精確さ」の衰亡を望んでいるようにも見え、また、それは思いのほかに成功しており、それ故に、現今の我が国社会全般では「Y本のお笑い」などでよく聞かれる語彙や言い回しが盛んに流通しているのではないかと察せられます・・。

ともあれ、私の場合、鹿児島を訪れますと、自らの言語の用法や、その言語の現象への対応関係などについて考えさせられますが、その意味で、あるいは九州全般の言霊・気風の方が、日本語本来の性質(Genius)を現在までより精確に伝えているのではないかと考えさせられ、また、そこから谷川健一が述べていた、琉球や鹿児島の島嶼部などの謡が、我が国の詩や文学などの起源となったという説もまた、そこまで荒唐無稽なものではないと私は考えるのです。

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2024年4月26日金曜日

20240425 今回の鹿児島訪問と個性について

さきほど気が付きましたが、昨日分の記事投稿により、当ブログの総投稿記事数が2180に達していました。そして、今後さらに当記事を含めて20記事の更新により、当面の目標である2200記事に到達することが出来ます。これを現実に落とし込みますと、20記事の更新は毎日1記事投稿のペースで20日間となり、来月中旬頃での到達が見込まれますが、これに、もう少し余裕を持たせて、どうにか来月中での到達が出来れば良いと現時点では考えています。とはいえ、先日の久々(半年ぶり)の鹿児島訪問により、懐かしい先生方にお目に掛かることが出来、また、そうした中で、知ってか知らずか、何度か、以前に当ブログにて述べたことを話題にされていたことが、異なる方々との会話であったことから、思いのほかに当ブログを読んで頂いているのではないかと、推察されましたが、こうしたことは、以前にも述べましたように、気にしても仕方がありませんので、とりあえずは放置安定にて以降も進めて行きたいと考えています・・。

さて、昨日投稿の記事にて述べましたが、私の場合、鹿児島滞在期間の記憶は、その自然環境よりも、人々の雑踏の中のような、日常の生活の場のなかで、より想起される傾向があると思われます。また、以前、お世話になった先生方と会話をしていますと、自然と、こちらも以前に先生方と対応していた時分のテンションになるのですが、それが現在の通常の私のそれと比べますと有意にハイテンションであり、そして先生方との会話も盛り上がるのです・・。

現在の社会風潮からしますと、こうしたことを現在のこととして述べることは困難であるのかもしれませんが、10年以上前の鹿児島では飲み会(飲ん方)の話題で所謂「下ネタ」になることは少なからずありました。そして、その「下ネタ」で爆笑することも度々あり、こちらの鹿児島では、そうした飲み会(飲ん方)での「下ネタ」が職人的に巧みな先生(当時大学院生で病院助教)がおられ、現在思い返してみますと、こちらの先生のあの才能には驚異の念すら抱かせます。あるいは、ああした才能が別様に進化したものが、同郷と云える綾小路*みまろ氏の当意即妙な話芸にも通底するのではないかとも考えさせられます。

ともあれ、以前に在住していた場所に訪問して、彼の地の方々と会話をしていますと、またそこで、いつもよりテンションが上がり、そして、それが作用して、記憶の想起へと至るのではないかと思われますが、その意味で、今回の鹿児島訪問は当ブログの記事作成のための貴重な糧になったとも云えます。どうもありがとうございます。

また、40代にもなりますと、さすがに相対する方が発する精神的な特徴(波長のようなもの?)は、おそらく半ば無意識で類型化するものであり、その中で分類が困難であると思われた方々は、やはり、それぞれに多少変わったところがあるのだと云えます。そしてそれは、さきに述べたテンションの上下によって、類型化、認識の仕方も変化するのかと考えてみますと、それにはあまり影響はしないと考えます。

あくまでも私見ではありますが、相対する人の精神的な特徴を感知するのは、そのテンションからではなく、それよりも、その話す内容によるところが大きいのではないかと、当然と云えば当然のような考えに至るわけですが、では、その話す内容にどのような特徴があると、類型化が困難になるのかと考えてみますと、これは多種多様であり、汎用性のあるマニュアルに基づく審査のようにはならないと考えます。

とはいえ、それでもやはり、それを推し量る指標があると考えてみますと、それは「類型化に反する変わったもの」として考えてみますと、当然と云えば当然であるのかもしれませんが、「突出した何かを持っている」ことが共通して挙げられると考えます。それは自らの努力によって獲得したことであることから、それが、その人の性格の他の部分にまで影響を及ぼして類型化が困難と云えるある種特徴的な性格を形成するのではないかとも思われます。

そうしますと、では「突出した何かを持っている」とは、どのようなことであるのかと考えてみますと、これもまた「突出した」自体が多くの場合、抽象的且つ相対的なものであり、あるいは私がそのように考えるだけであるのかもしれませんが、何らかの卓越した学識や技術を持たれているとされる方々は総じて、将棋や囲碁などの名人や名板前、シェフなどにも通じるものがあるのか、ある種の個性(の強さ)を感じさせます。とはいえ、「突出した何かを持っている」は「個性の強さ」と、あくまでも同意ではなく、また、必ずしも繋がるものでもなく、これを言い換えますと、比較的表層的とも云える「個性の強さ」がある中に「突出した何かを持っている」が見つかることがあると云うほどのことです。しかしながら、表層的とした「個性の強さ」を、これまた表層的とされるテンションでなく、その「話す内容」で判断することは、なかなか難しく、そこで聞き手が理解出来る程度に、自らの卓越性を示すことが出来れば、それはそれでスゴイことであるのでしょうが、おそらく精度の維持のためには、ここで、それなりに長い審査期間を要するのではないかと思われます。

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2024年4月24日水曜日

20240424 かつての在住地での感覚や記憶の想起に至る契機から

エックスをご覧になっておられる方でしたらお分かり頂けますが、先週末から去る4/22(月)まで所用のため鹿児島に滞在していました。今回の鹿児島への訪問は、ほぼ半年ぶりでした。

 着陸した飛行機から降りて飛行場内の待合室に繋ぐ可動式の連絡通路(ボーディング・ブリッジ)に入りますと、そこではじめて地域の大気に触れることになりますが、そこで何らかの反応であるのか、かつての鹿児島在住時の感覚や記憶が想起され、甦ってきます。

 空港から鹿児島市内に行く高速バスに乗りますと、そこでまた地域の大気や景色に触れて感覚や記憶が強化されて、やがて目的の市内停留所に到着してバスを降りて市街地を歩いていますと、ここでも、在住当時の感覚や記憶が想起されます。

 こうした一連の経緯は、自らの経験によりますと、和歌山においても同様であったと思われますが、和歌山の場合は、地域の大気から感じられる濃厚な自然の薫りこそが、そこでの記憶の励起や強化に寄与していると思われます。そしておそらく、そうした自然の薫りは和歌山市からさらに海南、有田、湯浅、御坊、印南、みなべ、紀伊田辺、南紀白浜までと南下して行きますと、さらに強くなり、当時の記憶や、それに付随する記憶なども想起されるのではないかと思われます。その意味で、私の和歌山での記憶は、同地の自然環境に強く依拠しているのだと云えます。また、以下については全あくまでも自らの偏見になりますが、そうした豊かで濃厚な自然環境があるからこそ、その地紀伊半島西岸一帯で、世界に知られる我が国の和食文化での重要な調味料である醤油や鰹節が生れたのではないかと思われるのです。

 このことは、別の機会でさらに詳細に検討して述べたいところですが、ともあれ、私の場合、在住経験を持つ地域に行きますと、在住当時の記憶が想起されることが多く、そうした中、和歌山でのそれは、彼の地の濃厚な自然環境に依拠するところが大きいと云えますが、その理由については不明です。そして他方、先日訪問した鹿児島については、さきの和歌山と同様、自然環境の薫りに因るとも云えますが、それ以外にも市街地の雑踏や市電での移動時の車両内の様子などといった、その中に人間が含まれている景色から、当時の感覚や記憶が想起されるといったことが多いように思われます。

 そして、その理由について考えてみたところ、和歌山の場合は、当初、自然が多い南紀白浜に在住していたことから、雑踏や市電といった都市的な要素が入り込むことがなく、また、南紀白浜への移動は、3、4月とは云えなお寒い雪景色の北海道からでしたが、この転勤に伴う環境の変化が大きかったのではないかと思われます。そして、おそらくはそのために南紀白浜転居後からしばらくの期間は、食べる食べ物が何でも美味しく感じられました。その中でも特に強く印象に残っているのが、転勤後しばらくして行った田辺市宝来町の国道424号線沿いにあるうどん そばのお店で頂いた、うどんと丼ものの定食でしたが、そこで私は初めて関西風のだしの美味しさを実感を通じて理解した記憶があります。ともあれ、このように初めての関西圏での生活は、特に当初から色々と驚くことがありましたが、そうした経験を得たのが、関西圏で辺縁と云える和歌山県の、さらに辺縁である南紀白浜であったことが案外、私にとっては良かったのではないかと思われるのです。

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2024年4月19日金曜日

20240418 株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」 pp.58‐60より抜粋

株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」
pp.58‐60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4623092267
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4623092260

十四世紀以降バルカン半島を支配していたイスラム王朝のオスマン帝国は、宗教共同体(ミッレト)を基盤とした統治制度を敷いていた。しかし、フランス革命後バルカン半島にも西欧から「ナショナリズム」概念が入ってくると、バルカンの非ムスリムは各地で自治権獲得の運動や、独立運動を展開した。その結果、ギリシャ、セルビア、ルーマニア、モンテネグロは十九世紀中にオスマン帝国から独立し、ブルガリアは自治権を獲得した。各国は、「同胞民族」と見なす人々が国境の外に依然として存在すると主張し、「同胞民族」の居住する地域の獲得を目指した。獲得すべき土地があったのはオスマン帝国であった。また、多民族国家であるオーストリアの南部地域もバルカンの民族国家は狙うことになる。

 オスマン帝国領ボスニアは一八七八年のベルリン条約によりオーストリアの施政権下になっていた。一九〇八年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起こり、ブルガリアが独立を宣言すると、オーストリアはボスニア併合を宣言した。ボスニアの獲得を目指していたセルビア国内では、政府やメディアが反墺的主張を展開し、多くの民族主義団体が組織された。その中には、青年ボスニアとも関係を持つことになる「統一か死か」(通称か死か」(通称「黒手組」もあった。

 バルカンのオスマン帝国の獲得を目指しバルカン同盟を締結したセルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロは、一九一二年一〇月、オスマン帝国を攻撃した(第六次バルカン戦争)。その戦争の局地化を目指して外向的介入を行ったヨーロッパ諸大国は、国際会議を開催し、オスマン帝国領マケドニアを同盟諸国に譲渡する一方、オスマン帝国領アルバニアを独立させることで一致した。後者を強く主張したのが、オーストリアとイタリアであった。アドリア海に面するアルバニアの獲得を目指していたセルビアは、強く反発した。第一次バルカン戦争終結後に、今度は、バルカン同盟が獲得したマケドニアの分割をめぐって同盟内で対立が発生した。一九一三年六月、ブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃し、第二次バルカン戦争が勃発した。しかし、ブルガリアは反撃されただけでなく、第一次バルカン戦争で戦ったオスマン帝国、さらには中立を保っていたルーマニアからも攻撃された。そのためブルガリアは敗北し、第一次バルカン戦争で獲得した領土の重要な地域を喪失した。他方、二つのバルカン戦争によって、セルビアの領土は二倍となった。セルビア内外でのセルビア国家の威信は否応なしに高まった。これは、オーストリアにとって致命的な問題であった。

 また、オスマン帝国の勢力がバルカンから駆逐されたことによって、セルビアとルーマニアの次の領土獲得の対象がオーストリアであることは明らかであった。ボスニアを含むオーストリア南部のセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の一部には隣国セルビアとともに、南スラヴ国家(=ユーゴスラヴィア)建設を目指す動きもあった。セルビア国内にも同様の考えを持つ者がいた。オーストリアの政策決定者にとって、この南スラヴ運動は、国家の解体を意味したので、セルビアは不倶戴天の敵であった。ウィーンには、外交的手段ではもはやこの問題を解決することはできないとの考えが充満していった。そのような時に、サライェヴォで暗殺事件が起きたのであった。

2024年4月17日水曜日

20240417 和歌山大学経済学会 経済理論 別刷 第415号 2023年12月 阿部秀二郎 著「ケアンズの価値論の背景-ジェヴォンズの価値論の背景に注目して-」pp.7‐9より抜粋

和歌山大学経済学会 経済理論 別刷 第415号 2023年12月 阿部秀二郎 著「ケアンズの価値論の背景-ジェヴォンズの価値論の背景に注目して-」pp.7‐9より抜粋

第2章 ケアンズの価値論

第1節「中間原理」

 ケアンズの価値論が明確に指示されているのが1874年に出版された、「経済学の主導的な原理」であろう。

 本章では、第1章で指示したケアンズの原理(理論)と事実(データ)との関係について見ていこう。

 この原理(理論)と事実(データ)の融合こそが、「経済学の主導的な原理」の目的であった。導入部分でケアンズは、当時、多くの経済学の新たな動向が存在していることを認識しながら、自身の研究が「スミス、マルサス、リカードウそしてミルの労働によってつくられた科学の態度」の延長線であるとする。具体的にケアンズが同一であるとする内容は、人間の性格や経済科学の究極的な前提を構成する自然の物理的条件に関する仮説である。そしてそれらの前提と事実から導入された結論もスミス以降の経済学者のものと異ならないとする。

 一方でケアンズは究極的な原理と結果としての事実との結びつき自体は間違っていないと信じ、その結びつきを説明する原理に問題があるとしており、その説明原理の適切性の必要を説く。

「彼ら(スミス、マルサス、リカードウ、ミル:訳者)と意見が異なる点は、ベイコンの言葉で「〈中間原理(axiomata media)〉」と呼ばれるものである、この中間原理によって、詳細な結果が生み出される高度な原因が説明される。…現時点で一般的に受け入れられている経済学のこの部分における間違った素材はない。そして現在のすべきことは、現在の批判に耐えることができるように、弱い要素をより良い要素にできるだけ替えていくことである。」                       (Cairnes [1874]1)

「中間原理」は、方法論に関するケアンズの書「経済学の性質と論理的方法」で指摘されている。その指摘を利用して、ケアンズが原理をより良いものにしようとしていたことについて説明する。

 書の第3講「経済学の論理的方法」で、ケアンズは社会科学と自然科学の方法を比較する中で、社会科学が自然科学に対して、相対的な利益を有する部分もあると指摘している。(Cairnes[1888]81)それは自然科学は法則を成立するのにとても長い時間を要するのに対して、「〈経済学者は知識や究極的な原因からスタートできる〉」(Cairnes[1888]87)からである。

 経済学では次のような他の科学から得た具体的な事実を利用できるのである。心理的な感情、動物的な性向、生産を支える物理的条件、政治制度、産業上の状態、などであり、これらは他の科学の分野が生み出した結論なのである。

 ケアンズはベイコンの「諸科学の成長(De Augmentis Scientiarum)」やヒューウェルの「帰納科学史」などを利用して、自然科学の歴史的展開について説明する。人間は問題をそのまま未解決にすることを好むのではなく、固定的な概念を、長時間の考究の上で獲得したがるものであり、複雑な現象に対する究極的な原理を古代から想定してきたと説明する。

 タレス、アナクシメネス、ピタゴラスなどの哲学者により、観察に基づき究極的な原理が考えられてきた。その際に用いられた方法は帰納法であり、その方法こそが自然科学の考察の土台であった。そして帰納法に基づき推測された結果と事実との整合性に関する長い調整の結果として確実な前提が得られるようになるとともに、演繹法が確実に影響力を発揮するようになってきたとケアンズは指摘する。

「演繹的推論での発見の成果として・・・高度な原理と経験との結びつきを媒介する多くの原理(中間原理:筆者)が存在した。物理科学の進歩は、アルキメデスや古代の思想家がなしたことにも関わらず、ガリレオと同時代人が主要な動的原理を確立するまでは、歩みが遅かった。しかし一度確立されると、・・・力学、流体学、気学などより土台となる原理に含まれるものが、急速に続いた。」               (Cairnes[1888]85)

ケアンズの指摘する修正すべき「中間原理」は、したがって他の学問より帰納的そして演繹的に獲得された究極的な原理から、ミルまでの古典派経済学者が演繹を行い説明しようとする、まだ事実によって検証され確定されてはいない原理(説)を指す。 
         

2024年4月16日火曜日

20240415 株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」 pp.350-353より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」
pp.350-353より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309207529
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309207520  

 妄想ーひとつであれ複数であれーというテーマで話をと依頼されて考えてみたところ、現代における妄想といえば、そのひとつは間違いなく陰謀にかかわるものであろうと思いあたった。インターネットでちょっと検索すれば、どれほど多くの陰謀(当然、どれも偽物だが)が告発されているか、すぐに分かる。しかしながら、陰謀という妄想はわたしたちの時代特有のものではなく、過去にもかかわるものである。

 歴史上陰謀がこれまで存在してきたこと、そしていまも存在することは明白だと思われる。ユリウス・カエサルの殺害に、火薬陰謀事件、ジョルジュ・カドゥダルの恐ろしい爆弾装置、どこかの会社の株式を買い占めるため日々実行されている金融機関の陰謀。だが現実における陰謀の特徴は、ただちに露見する点にある。陰謀が功を奏する(ユリウス・カエサルの例をみよ)にせよ、失敗する(ナポレオン三世を殺そうとしたオルシーニの陰謀、ユニオ・ヴァレーリオ・ボルゲーゼが一九六九~七〇年に計画した、いわゆる「森林監視隊のクーデター」、はたまたリーチオ・ジェッリ)にせよだ。現実の陰謀は神秘めいてはいないため、ここでは扱わない。

 それよりもわたしたちの興味をひくのは、陰謀症候群や、ときに世界的に広がる陰謀論でっちあげ症候群という現象である。これはインターネット上にあふれていて、ジンメルがいうところの秘密と同じ特徴を備えているために、永久に神秘的で不可解なものでありつづける。その特徴は、中身がからっぽであればあるほど、秘密はより強力で、誘惑的になるというものだ。中身のない秘密は脅迫的に映り、暴露されることも、異論を唱えられることもない。まさにそれゆえ権力の道具となる。

 多くのウェブサイトで話題にされている第一の陰謀、九・一一について話そう。巷にはたくさんの推理が出まわっている。まず、陰謀はユダヤ人によって企てられたという極説がある(アラブ系のイスラム原理主義か、ネオナチ系統のウェブサイトにみられる)。あのふたつの高層ビルに勤務していたユダヤ人は、当日出勤しないように指示されていたという。レバノンのテレビ放送局アル=マナールで伝えられたニュースは明らかに偽物だった。実際には、あの炎上によって、数百人のユダヤ系アメリカ人とともに、イスラエルのパスポートを有する市民が、少なくとも二〇〇人は命を落としている。

 ほかには、アフガニスタンとイラクに侵攻するための名目ほしさに攻撃を企てたとするアンチ・ブッシュ説がある。アメリカ合衆国の、多かれ少なかれ正道を逸したさまざまな諜報部の手によるとする説もあれば、陰謀はアラブ系のイスラム原理主義者によるものだが、アメリカ政府は事前にその詳細を把握していたにもかかわらず、のちにアフガニスタンとイラクを攻撃する口実をつくるため、事態になんら対処しなかったという説もある(日本と戦争をはじめるための建前が必要だったために、目前に迫った真珠湾攻撃のことを知りながら、船隊を救うためになにもしなかったと言われたルーズベルトの例と似ている)。こうした事例すべてにおいて、陰謀のうち少なくともどれかひとつでも支持する者たちは、公的な事件再現は誤りであり、詐欺であり、子どもだましだと考えているわけだ。

 これらのさまざまな陰謀説について知りたいと思うなら、ジュリエット・キエーザとロベルト・ヴィニョーリ監修による『ゼロー九・一一の公式発表が虚偽である理由』を読んでみるといい。信じがたいことだろうが、世の中で尊敬されている人たちの名が協力者として挙げられている。敬意のしるしに、名前は挙げないことにする。

2024年4月15日月曜日

20240414 中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」 pp.226-228より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」
pp.226-228より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600274
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600271

 東洋の絵画は、紙或いは絹という光沢のある滑らかな書写材料の発明により、早く壁画から脱却して机上の鑑賞物となり得たが、西洋においては長く後世まで壁画的用途から抜け出すことが出来なかった。そのために油絵具のように強い色彩で比較的大きな絵を描かなければならなかったのである。幸いルネッサンス以来の力強い科学文明が背景となって、芸術を推進したから、道具に圧倒されない独自の境地を保ちながら、絵画芸術が以後引続いて発展して来た。これに反し、東洋画はあまりに早く適当な書写材料を入手し得たために、むしろ緻密な小品画に傾いて、大作といってもせいぜい襖絵か屏風の程度に止まったのは遺憾なことであった。しかしながらそういう枠の中においてはまた独特の発達を遂げたことも見のがしてはなるまい。殊に画巻、絵巻物の発達はヨーロッパにおいては遂に見るを得なかった特殊なものである。

 西洋画を見るには西洋画を見る見方があるように、東洋画にはまた東洋画に対する見方がある。例えば東洋画の山水には遠近法がないという非難は屡々聞くところであるが、実はやはり一種の遠近法がある。西洋画の遠近法は全景が例えばカメラの暗箱の中に映るように、焦点を固定したまま、無限大の距離から眺めた遠近法に従っている。ところがわれわれは突然に肉眼をもって焦点を移動させながら見るのである。画巻を捲く際に特によくこのことが分かるので、われわれは目を活動写真機械のように絶えず前方へ移動させてゆかねばならない。掛軸は多く縦に長いので、この場合はわれわれは飛行機に乗って景色を俯瞰するように、焦点を連続的に前方へ推進するのである。だから遠方の山や人物が近景のそれと殆ど変わらなくても別に差支えない。ただ遠景も近景も同一画面に写されているから、心持それを小さく描けばそれで十分な場合もあり、逆に遠方を片側ずつ見た二つの面としてそれを合わせれば、遠くへ行くほど幅が広がる場合もあり得ることになる。山水を観る人ならば自ら画中の人となって、小径を伝わって麓から峰まで、悠々風景を鑑賞しながら彷徨して行かなければならないのです。東洋画の山水はいわば一種の立体的遠近法によって描かれているのである。

 東洋画に西洋画のような戦争画や裸体画が発達しなかったのは確かに手落ちであるが、一方、山水画が他の世界に魁て発達した点は誇るに足るものがある。東洋においても山水は元来人物の背景として出現したのであるが、そこから山水だけが独立して単独に賞玩されるようになることは、一般文化がある水準に達して初めて起る現象である。

 唐代の山水にはなお宮殿楼閣の付属物としての意味が多かったと思われるが、王維の綱川雪景図は純然たる山水画であり、それが宋以後になってむしろ絵画の主流を形成することになった。

 人事を離れた自然そのものの面白さを発見して、絵の題材とするのは、人類が作為的な人事現象に深い反省を加えてから後に初めて行われるものである。西洋においても風景画は、宗教画や人物画をあらゆる角度から見つくした揚句に現れ始め、それが一般化されたのは、東洋と直接交通を開いた十七世紀のオランダにおいてである。

2024年4月13日土曜日

20240412 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

紀氏の朝鮮出兵
応神天皇の三年ー

 この年、ヤマト国家から百済の辰斯王の無礼を糾弾するため、四人の将軍がつかわされた。その四人は、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰で、いずれも武内宿禰の子である。

 将軍たちは、百済の国びとは辰斯王を殺して謝罪したので、枕流王の子、阿花をたてて王とし帰国の途についた(「日本書紀」)。

紀角宿禰(紀臣系の始祖)は、のちに仁徳天皇の四十一年春三月、ふたたび百済に赴いている。このときも、王の一族である酒君の非礼を詰問するためであったが、百済はおそれて鉄の鎖で酒君を縛して差しだした。

紀氏の朝鮮での記録は、まだある。

雄略天皇の九年(四六四)春三月、新羅征伐をくわだてた雄略は、みずから兵をひきいて朝鮮に渡ろうとしたが、神の告げによって断念した。そのかわり紀角宿禰の孫にあたる紀小弓宿禰をはじめ、小弓の子の小鹿火宿禰や蘇我韓子宿禰、大伴談連の四人を大将軍に任じ新羅征討を命じている。

 これを命じられたときの小弓の返辞が、ひどく人間くさくておもしろい。小弓は大伴室屋大連を介して天皇に、

〈臣は敬みて勅をうけたまわります〉

そういっておいてから小弓は「ただし」と声をかさねている。

〈ただし今、ヤツガレが婦みまかり(死)たるときである。能く臣を視養う者なし、公、ねがわくばこのことをもて具に天皇に陳せ〉

小弓の訴えを耳にした天皇は、

〈天皇、聞し召して悲しび頽歎き給いて〉

と「日本書紀」にあるから、天皇も小弓の心境に大いに同情したらしい。吉備上道采女大海を小弓に与えたという。

 さて、話を新羅征伐のうえにもどすと、天皇から采女の大海をたまわった小弓は、喜色をみなぎらせて海を越え、各地で新羅軍と戦いこれを撃破し、ついに喙の国(大邱付近)を平定させた。

 が、なおも服従しないで抵抗する地域がある。小弓はこれを掃滅すべく攻撃した。ところがこの地方の新羅軍は頑強で、手ひどく反撃した。

激戦になった。

 この烈しい戦闘で討伐軍は、大伴談連と紀崗前来目連(和歌山市岡崎)の二将軍を失っている。

 乱戦のさなかで、あるじの大伴談連の姿を見失った従者、大伴津麻呂が戦場をたずねまわっていると、誰かが大伴談連の戦死を告げた。倒れている主の屍をみた津麻呂は、大地を踏みつけて叫びをあげた。

「主、すでに死にたり、なにをもって独り全けらむや」

そういうと津麻呂は、敵軍のなかへ突撃して死んでしまった。

討伐軍の悲運はそれだけではない。

大将軍の小弓が、にわかに病いを発して陣中で没したのである。

雄略天皇の九年、夏五月。

陣没した小弓にかわって、子の紀大磐宿禰が新羅に渡ってきた。

大磐は武将らしい剽悍さを泛べて、鷲のような鋭い目をしていた。大磐は、小鹿火(大磐とは異母兄弟)が今まで掌握していた兵馬、船官といった小官を自分の思いのままに動かした。

 異母兄弟でありながら大磐と小鹿火は、ふだんから仲がよくなかった。まして大磐に兵馬軍船の指揮権を奪われて小鹿火は憤懣やるからない。肚裡にふかく恨みを抱いていた。小鹿火は同僚の将軍、蘇我韓子宿禰に大磐のことを中傷した。

「気をつけろよ。大磐がおまえの兵馬をとりあげるといっていたぞ」

そんなある日

百済の王から将軍たりに招きがあった。大磐をはじめ諸将たちは馬首をならべて出かけていった。途中に河がある。

大磐はその河のほとりで馬からおり、水を飲ませた。そのとき、韓子の胸中に殺意が湧いた。韓子は大磐の背後から矢を放った。が、狙いははずれた。韓子の矢は大磐の馬の鞍瓦の後橋に突き刺さった。

 おどろいて振り返った大磐は、弓をとるより迅く韓子を射殺した。

 このような将軍間の内紛に、新羅討伐軍は動揺した。大磐をおそれた小鹿火は、父の小弓の喪に服するという口実をもうけて帰国し、大伴大連を介して、

「やつがれ、紀卿(大磐)と共に天朝に仕えたてまつることに堪えず」

と奏上し、角国(周防国都農郡)にひっこんでしまった。

神聖王、紀大磐

 しかし、紀一族の朝鮮半島への進出はまだつづいている。

紀大磐宿禰である。

ときに、顕宗天皇の三年(四八七)。この年、紀大磐宿禰の率いる軍団が、ふたたび海を越えて任那日本府に着いた。

 大磐は日本を離れたときに、心にきめていた。韓子を射殺したあの事件いらい、大磐は人を信じるのが恐ろしくなっていた。欝々とした日がつづいていた。いっそ、日本を捨ててやろう。そして、武人としての力のかぎりを異境の修羅にぶちこんでやろう。大磐はそう思っていた。

『日本書紀』によれば‘‘大磐の軍団は任那を跨よりて高麗に行き・・・とある。アトゴエとは跨ぐことで、任那から高麗の地を股にかけて・・ということなのであろう。そして大磐は宣言した。

〈三韓(百済、新羅、任那)の王たらんとし、官府をととのえ、みずから神聖と称り・・〉

というのだ。壮大な野望である。 

 そしてそのコトバのように神聖王(紀大磐)の指揮する軍団は、百済のチャクマニゲを爾林(高麗の地)に討ち殺し、帯山城を築いて百済軍の粮道を断つために、街道を遮り、港をおさえた。

 狼狽した百済王は、将軍コニゲ、ナイトウマクコゲらに軍兵を与え、帯山城に総攻撃をかけた。が、惨憺たる結果であった。大磐の軍は、一をもって百にあたるといわれたくらい勇猛で、百済王の軍兵はたちまち撃ち破られて四散する。

ーだが、神聖王、紀大磐宿禰の足跡がわかっているのはこの頃までで、それ以後の消息はない。

『日本書紀』では、大磐は任那から帰った(日本へ)と記されているが、飯田武郷の『日本書紀通訳』(七十巻本)ではそれらに反論して‘‘朝廷にてはこの(大磐の)謀をしろしめし給わずや、いと不審‘‘と述べている。

 当然であろう、紀大磐宿禰はヤマト政権に一種の叛をくわだてたのである。それが日本に帰ろう筈はない。

とすれば、大磐はいったい何処へ消えてしまったのか、すべてがナゾである。もちろん、このとき以後の大磐の日本での記録はない。

 ただ、この時から更にくだった欽明天皇の頃の百済国の歴史書『百済本記』によると、〈紀臣の奈卒(百済の官位)彌麻沙〉という人物がいたという。この彌麻沙のことを、〈けだしこれ紀臣、韓の女をめとりて生ませたり。よりて百済にとどまりて奈卒となれる者なり。未だその父(の名)を詳らかにせず〉と記している。

 もし、大磐の行方に推測の橋を架けるとするならば、この彌麻沙の父に繋いでみたいものである。 

 もちろん、これとても単なる推測にすぎない。それはあたっていないかもしれない。けれど反面、あたっていないといえる資料もまたないのだ。



2024年4月11日木曜日

20240411 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp37‐40より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp37‐40より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

 紀氏が神話の世界から歴史のうえに足を踏み出してくるのは、ヤマト朝から国造に任じられてからである。

 いらい、国造家(紀直系)の活躍ぶりはすさまじい。これら紀氏の政治活動の根底になったのは、いうまでもなく紀ノ川流域に形成された豊穣な農耕地帯である。紀氏は、畿内でもめずらしいほどの美田にめぐまれていた。もともと農耕を主とした部族である。農業土木の法に長じていた。関西大学の薗田香融氏は、平安末期の民間史料で、紀氏の奉祭するヒノクマ・クニカカスの宮のことを農耕民たちは名草溝口の神とよんでいた例がみられるといわれ、さらにまた日前宮のすぐ背後には音浦樋とよぶ用水取り入れ口があり、ここから広大な条理区へ向けて蜘蛛手のように灌漑用水が分配される仕組みになっている。大規模な名草用水を開き、広大な耕田用地を開発したのは、紀伊国造の遠祖にあたる紀直の族長であり、その時期は古墳時代の初頭とみても、おそらくあやまりはあるまい、とも述べておられる。

 農耕民たちの信奉する溝口神とは、農業用水をもたらす神であり、そしてその司祭者の紀氏は、この水利権を一手につかんで農耕民たちを支配したのであろう。さらに紀氏は、農耕集団だけではなく、片手に紀ノ川平野の穀倉地帯をにぎり、もう一つの手に紀州沿岸から瀬戸内におよぶ海人集団(水軍)をも掴んでいた。

 しかし、紀氏の勢力がヤマト国家のなかでも異例と思える発展を見せるのは、景行天皇の三年、天皇の命をうけて紀伊国の阿備柏原に赴いた屋主忍男武雄心命と紀伊国国造の六代、莵道彦の娘、影媛とのあいだに生まれた武内宿禰(『古事記』〈孝元天皇条〉『日本書紀』〈景行天皇三年条〉「紀伊続風土記」「紀伊国造系図」)を始祖とする竹内流紀氏(紀臣系)がヤマト朝廷の中央貴族として根を張り枝をひろげるようになった頃からである。

 事実、紀氏の勢力は目をそばだたせるほどの勢いでヤマト政権のなかに膨れ上がり、各地に拡がっていく。

 この紀という国名を姓にもった紀氏は、その分流の多いことは源氏、平氏、藤原氏の三姓につぎ、橘氏に匹敵するほどである。

 いま仮りに、それら諸般各様な紀氏をここに書きつらねてみるとー

まず、出雲系の紀氏・紀直(紀伊国造)・和泉の紀直・河内の紀直・肥前の紀直・紀臣(武内宿禰の子、紀〈木〉角宿禰の裔)・和泉の紀臣・紀伊の紀臣・伊予の紀臣・伊賀の紀臣・紀奥・紀君・紀宿禰(紀伊国造の一族)・大和の紀宿禰・丹波の紀宿禰・筑前の紀宿禰・紀朝臣(武内宿禰の裔)・平群流の紀朝臣・波多野流の紀朝臣・和泉の紀朝臣・巨勢流の紀朝臣・紀角宿禰の紀朝臣(己智の裔)・越中の紀朝臣・川瀬流の紀朝臣(紀伊国造の裔)・紀伊の紀朝臣・苅田流の紀朝臣・大宰府の紀氏・山城の紀氏・大和の紀氏・摂津の紀氏・和泉の紀氏・伊賀の紀氏・尾張の紀氏・駿河の紀氏・武蔵の紀氏・安房の紀氏・常陸の紀氏・近江の紀氏・美濃の紀氏・下野の紀ノ党・岩代の紀氏・磐城の紀氏・陸奥の紀氏・出羽の紀氏・伊賀の紀氏・越前の紀氏・能登の紀氏・丹後の紀氏・伯耆の紀氏・因幡の紀氏・石見の紀氏・美作の紀氏・周防の紀氏・長門の紀氏・紀伊の紀氏・阿波の紀氏・讃岐の紀氏・伊予の紀氏・筑前の紀氏・筑後の紀氏・豊前の紀氏・肥前の紀氏・肥後の紀氏・薩摩の紀氏・大隅の紀氏ー

 といった具合で、かぞえあげればキリがない。煩雑を承知のうえで各地における紀氏を書き並べてみたのだが、これだけでもザっと七十はこえている。紀氏は、この他にもまだある。平氏と混じて生まれた紀平、藤原氏と合した紀藤などまでも含めるとすれば、それはおびたたしい数にのぼる。

でー

これらの沢山な紀姓の発生は、もちろんヤマト中央政権のなかで紀氏が強大な勢力をふるっていたからにちがいないが、その紀氏系の活躍を背後から支えていたのは、かれらの本貫の地である紀伊国に君臨する紀伊国造の掴んでいたコメと水軍と、そしてその船を造る木であった。紀伊国は温暖の地で、良材にめぐまれている。ヤマト朝廷の宮殿やその他の建築用材の供給地でもあったし、また海に囲まれている紀伊国は、古代からすぐれた造船技術をもっていた。紀伊独自の大型外洋船の建造技術と航海術がある。おりからヤマト政権が朝鮮半島へ軍事的進出をする最盛期にあたっていたことも紀氏の発展に拍車をかけた。

 朝鮮といえば、紀伊国は古代から朝鮮とのつながりがふかく、帰化人も多い、だいいち、木の国の国名にもなった木の出現の神話にしても、主人公のイソタケルと父スサノオが新羅から紀伊にくだったということになっている。そのうえ、この伝承じたい、奇妙に朝鮮の神話にダブりをみせるのである。

 朝鮮の檀君神話では、

〈あるとき、神様が朝鮮を支配するために檀というところへ子供をおろし、平定させた。そのときに神様は、下界におりていく子供のために雨師、風師、雲師という神々(職能神)をつけてやった〉

のだという。

 それは、新羅から紀伊国にむかうイソタケルが、スサノオの分身である八十の木種をもらってくるシーンとひどく酷似しているのだ。


2024年4月9日火曜日

20240409 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.375-376より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.375-376より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 一九〇二年に日英同盟が結ばれたとき、イギリスの政治家たちが期待したのは、特定の状況のもとで日本を援助するためのコストがかかっても、中国における戦略上の負担が軽減されるということだった。そして一九〇二年から三年のあいだには、イギリスの上層部は、植民地問題についてフランスと和解できると考えるようになった。先のファショナダ事件でも明らかだったように、フランスはナイル川流域をめぐって武力に訴えるつもりはなかったのである。

 こういった協定はいずれも、初めのうちこそヨーロッパ以外の問題にのみかかわるようにみえたが、それらはヨーロッパの大国の地位に間接的な影響を与えた。西半球におけるイギリスの戦略的なジレンマが解消し、極東では日本海軍から援助を受けることになったため、イギリス海軍の海上配備にたいする圧力はいくらか弱まり、戦時に足場を固められる可能性が大きくなった。また、英仏間の反目が和らいだ結果、イギリス海軍の信頼性はいちじるしく高まった。こうした状況のすべてがイタリアにも影響を与えた。イタリアは沿岸地帯が非常に無防備で、英仏の連合に対峙することができなかったからだ。とにかく、二十世紀初頭の数年間に、フランスとイタリアには(経済と北アフリカ問題における)関係を改善する絶好の口実ができたのである。しかし、イタリアが三国同盟から離れていけば、オーストリア‐ハンガリーとのあいだで表面化しかけていた小競り合いに影響をおよぼすはずだった。結局は、日英同盟という距離的に隔たった結びつきですら、ヨーロッパにおける国家間の秩序に間接的な影響をおよぼすこととなった。一九〇四年に、日本が朝鮮と満州の将来をめぐってロシアに強い態度でのぞんだとき、その同盟のおかげで第三者たるどの大国も介入できなかったのである。さらに日露戦争が勃発したときにも、日英同盟および仏露同盟の特別条項によって、「セコンド」としてのイギリスとフランス両国は、公然と戦争に巻き込まれることをたがいに避けるよう、しっかりと釘をさされていた。それゆえ、極東で戦争が起こるやいなや、ロンドンとパリが植民地をめぐる争いを終結させ、一九〇四年四月に英仏協商を結んだことは驚くにはあたらない。長年にわたる英仏の争いー一八八二年にイギリスがエジプトを占領したことに端を発していたーは、もはや立ち消えとなっていた。


20240408 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.112-113より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.112-113より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

ドイツのヨーロッパ外への膨張については、しかし、なお一つの途があった。それは、陸路によってドイツ本国と連絡された植民帝国または勢力圏を建設することであった。そして、現にこの時期のドイツはオーストリア=ハンガリーとの同盟を拠点としてその勢力をバルカン半島へのばし、さらにこの半島を「東方世界への橋」として、中東(Middle East)へ帝国主義的支配を及ぼそうと企てていたのであり、それは、具体的にはコンスタンティノープルからアジア・トルコを貫いてバグダード(Baghdad)にいたる鉄道敷設計画を根幹として進められていたのであった。しかも、この計画もペルシャ湾を窮極の目標としるものであった点において、イギリスの「インドへのルート」を脅威するものとなり得たのであり、従って、この鉄道敷設計画は現に対英関係を甚だしく緊張せしめることになった。

 ドイツは、以上のようにして、世界帝国イギリスと経済的・政治的に次第に鋭い帝国主義的対立の関係に立つことになった。ドイツの海軍大拡張、および、それにともなって英独両国間に展開されることになった建艦競争は、実にその集中的表現にほかならない。ドイツは一八九八年に海軍拡張七ヶ年計画を立てたが、それは沿岸守備を主たる建前とした在来のドイツ海軍を大洋において作戦行動を行い得るものに発展させ、海相ティルピッツ(v. Tirpitz)の言葉をかりていえば、ドイツ海軍を列国にとって無視し得ない存在たらしめることがその目的であった。しかも、それから僅か二年後の一九〇〇年には、南ア戦争(South African War;ブーア戦争 BoerWar)によりドイツ人心の中に反英感情が沸騰するにいたった機会をとらえて、以上の計画をさらに飛躍的に拡大した海軍拡張一七ヶ年計画を作成した。この計画の目標は、明白にイギリスに拮抗し得るところの海軍を建設することにあった。ドイツがこのように海軍大拡張を企てるにいたったのに対しては、イギリスももとより傍観することはできず、一九〇三年には巨大な海軍拡張計画を立案、これに対抗するにいたった。

 さて、英独帝国主義の次第に先鋭化するこの対立を軸として、国際政治は大きくその様相を改めることになった。イギリスは一九〇四年にフランスとの間に英仏協商(Anglo-French Entente)-それはアンタント・コルディアール(Entente cordiale)(心からの諒解という意味)ともよばれているーを成立させた。すなわち、イギリスとフランスとは、エジプトおよびモロッコをめぐって長年にわたって演じてきた烈しい帝国主義的対立関係、ならびに、ニューファンドランド(Newfoundland)、シャム(Siam)、マダガスカル(Madagascar)、ニューヘブリデス(New Hebrides)に関する両国間の係争問題を互譲的に解決して、その国交の調整を行ったのである。イギリスとしては、かくすることによって、ドイツ帝国主義の烈しい攻勢により強力に対処し得る地位に立とうと欲したのであり、またフランスは、ドイツと次第に鋭く対立し出しているイギリスに接近することによって、ドイツに対するその地位を有利ならしめることを望んだのであった。

2024年4月7日日曜日

20240406 2170記事に到達して:(読書や文章作成から感じられることについて)

昨日の引用記事の投稿により、総投稿記事数が2170に至りました。そして、さらに30記事の更新により、当面の目標としている2200記事に到達することが出来ます。その時期は、今後毎日1記事の更新であれば約1カ月後、つまり5月初旬と見込まれますが、その投稿頻度での継続は困難であると思われることから、期間を延長し、5月中での2200記事達成を目標にしたいと考えます。

さて、別件ですが、つい先日オーランド―・ファイジズによる「クリミア戦争」上下巻を読了しました。当著作は近年の私にとっては久々の文量であり、さらに、これまで自らの専門、あるいは、その周辺分野として慣れ親しんだ経験がない分野の著作であったことから、当初は読み進めていても文章の理解が伴わないことが度々ありましたが、読み進めるにつれ、徐々に慣れて楽になり、下巻に入ってからは、文章に何らかの変化があったのか、あるいは、私の方がさらに慣れたのか、読み進めることが楽になり、下巻に関しては思いのほか早く読了に至ったように感じられます。また、その読了後の実感は、さきに述べた文量と比例するものであったのか、相対的に大きなものであり、現在でも、このように文章などを作成していて少し集中してきますと、どうしたわけか、その感覚が想起されてくるのです。

そして、こうした経験を通じて思ったことは、私には読書の習慣がありますが、そこで読む著作とは、概ね、新書や選書や学術文庫や文庫の小説といった比較的手軽な様式の書籍であり、そしてまた、それらの読了後の感覚は、さきに述べた「クリミア戦争」上下巻でのそれとは異なり、相対的に軽いものであり、また、長期間は継続しません。そうした実感から、さらには当ブログ継続の見地からも、比較的手軽であるからと、文庫様式の著作ばかり読まずに、時には重要と考えるハードカバーの著作を、古書であっても良いので入手して読むことが重要であるということです。

また、現在になり少し面白く感じられたことは、さきの著作上下巻は、移動や外出の際にも持参して読んでいましたが、これを読了後から肩が少し軽く感じられるようになったことです・・。おそらくハードカバーの著作を持ち歩いて、外出時に読むことは、身体に対しても少し負荷を掛けていたのかもしれません。とはいえ、おそらく、これも慣れであると思われますので、今後もう少し意識しつつ継続してみようと考えています。

と、如上のように先日の読書経験から思ったことを述べましたが、当ブログ自体の継続もまた、自らの読書経験に基づいていると云え、引用記事などは、その最たるものであると云えます・・。そういえば、当記事は久々の自らの独白形式によるものであり、そのためか、書き進め方がぎこちなく、文章の流れもどうも滑らかではないように感じわれるのです・・。しかし、こうしたことも、これまでのブログ記事作成の経験から、継続により徐々に自然に、そして自分なりに、出来るようになっていくのではないかと考えています。そして、この「自分なりに出来るように・・」という感覚の積み重ねにより上達するということは、我々の活動の多くに共通して云えるのではないかと考えます。

とはいえ、私の場合、これまで8年以上にわたり当ブログを(どうにか)継続してきましたが、文章作成の上達の実感を記憶に残るほど強く受けたことはないと記憶していますので、さきの著作読了後に得た感覚と同程度に強く、今後、自らの文章作成について、上達などの変化を実感してみたいと願うところではあるのですが、さて、どうなるのでしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













2024年4月5日金曜日

20240405 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.302-304より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.302-304より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

実際には、人間はつねにポスト・トゥルースの時代に生きてきた。ホモ・サピエンスはポスト・トゥルースの種であり、その力は虚構を創り出し、それを信じることにかかっている。

自己強化型の神話は石器時代以来ずっと、人間の共同体を団結させるのに役立ってきた。実際、ホモ・サピエンスがこの惑星を征服できたのは、虚構を創り出して広める人間ならではの能力に負うところが何より大きい。

私たちは、非常に多くの見ず知らずの同類と協力できる唯一の哺乳動物であり、それは人間だけが虚構の物語を創作して広め、膨大な数の他者を説得して信じ込ませることができるからだ。誰もが同じ虚構を信じているかぎり、私たちは全員が同じ法や規則に従い、それによって効果的に協力できる。

 だから、新しい、ぞっとするようなポスト・トゥルースの時代をもたらしたとして、あなたがフェイスブックやトランプやプーチンを責めるなら、何世紀も前に何百万ものキリスト教徒が自己強化型の神話のバブルの中に閉じこもり、聖書の記述が事実どうかをけっして問おうとはしなかったことや、何百万ものイスラム教徒がクルアーンを疑うことなく信じ込んでいたことを思い出してほしい。何千年にもわたって、人間の社会的ネットワークの中で「ニュース」や「事実」として通ってきたことの多くは、奇跡や天使、魔物、魔女についての物語であり、想像力に富む報告者が奈落の底から直接、生中継したものだ。イヴがヘビに誘惑されたことや、異教徒はみな死ぬと地獄で魂が焼かれることや、宇宙の創造主はバラモンの人が不可触賤民と結婚するのを好まないことを裏づける科学的証拠はいっさいない。それにもかかわらず、何十億もの人がこうした物語を何千年にもわたって信じてきた。フェイクニュースのなかには、いつまでも消えないものもあるのだ。

 私が宗教をフェイクニュースと同一視したため腹を立てた人も多いかもしれないことは承知しているが、それがまさに肝心の点だ。でっち上げの話を一〇〇〇人が一カ月信じたら、それはフェイクニュースだ。だが、その話を一〇億人が一〇〇〇年間信じたら、それは宗教で、信者の感情を害さない(あるいは、怒りを買わない)ために、それを「フェイクニュース」と呼ばないように諭される。とはいえ、私が宗教の有効性や潜在的な善意を否定していないことに注目してほしい。むしろ、その逆だ。良くも悪くも、虚構は人間の持つ道具一式のなかでもとりわけ効果的だ。宗教の教義は、人々をまとめることによって、人間の大規模な協力を可能にする。宗教の教義は人間を鼓舞して、軍隊を組織したり刑務所を設置したりさせるだけでなく、病院や学校や橋も建設させる。アダムとイヴはけっして存在しなかったが、それでもシャルトル大聖堂は美しい。聖書の大半は虚構だろうが、それでも何十億人の人に喜びをもたらすことができるし、慈悲深く、勇敢で、創造的であるようにと、人間を促すことに変わりはないー「ドン・キホーテ」や「戦争と平和」や「ハリー・ポッター」といった、他のフィクションの名作と同じように。

 私が聖書を「ハリー・ポッター」になぞらえたので、またしても機嫌を損ねた人もいるだろう。もしあなたが科学を重んじるキリスト教徒なら、聖書はもともと事実に基づく説明としてではなく、深い叡智を含むたとえ話として意図されていたと主張して、聖書の中の誤りや神話の釈明をするかもしれない。だが、それは「ハリー・ポッター」にも当てはまるのではないか?

 もしあなたがキリスト教原理主義者なら、聖書の言葉は一つ残らず文字どおりの真実だと言い張る可能性が高い。それならば、あなたは正しいと、しばらく仮定しよう。聖書は本当に唯一の真の神の絶対信頼できる言葉だ、と。では、あなたはクルアーンやタルムード、モルモン書、ヴェーダ、アヴェスタ〔訳註ゾロアスター教の教典〕、古代エジプトの「死者の書」はどう考えるのか?こうした文書は、生身の人間が、(あるいはことによると悪魔が)創作した、手の込んだ虚構だと言いたくならないだろう?そして、アウグスゥスやクラウディウスのようなローマの皇帝の神格は、どう見るか?古代ローマの元老院は、人を神に変える力を持っていると主張し、そうして生まれた神々を、帝国の臣民が崇拝することを求めた。それは虚構だったのではないか?実際、自らの口でその虚構を認めた偽りの神の例が、歴史上に少なくとも一つは存在する。前述のように、日本の軍国主義は一九三〇年代から四〇年代前半にかけて、昭和天皇の神格に対する熱狂的な信心を拠り所としていた。日本の敗戦後、天皇は、それが真実でないこと、自分はけっきょく神ではないことを公に宣言した。

20240404 株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」 pp.90~92より抜粋

株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」
pp.90~92より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065209218
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065209219

 一九三〇年、日本は米英主導のロンドン海軍軍縮条約に調印した。また、日米対立の大きなきっかけの一つであった排日移民法についても、移民法は日本人の面子を守る形で修正しようという排日移民法修正運動がアメリカ民間人の間に起こっており、日米関係は安定しているかのように見えた。そして、ついには一九三一年九月一七日に、ワシントンでスティムソン国務長官が出渕勝次駐米大使に、移民法修正への楽観的見通しを語るにまでなっていた。

田中上奏文と満州事変

 ところが翌一八日、満州事変が勃発する。すると、黄禍論を恐れていた米英人は、来るべきものが来たと感じた。彼らがまず想起したのは田中上奏文であった。

 田中上奏文とは、日本の世界征服計画が記された怪文書で、昭和初期に田中義一首相が天皇に宛てた上奏文の形をとっていた。当時すでに他界していた山県有朋が協議に加わっていたり、上奏文が内大臣でなく宮内大臣を通じて奉呈されているとするなど内容的に明らかに偽書であった。しかし、その征服計画において、世界征服にはまず中国を支配すべきであり、中国を支配するにはまず満蒙を征服しなければならないとの記述があったため、満州事変の勃発途ともに想起されたのである。

 日本側が強く偽書であると否定していたため、欧米人の多くはこの文書を信憑性あるものととらえられていなかった。しかし、そこに記されたとおりに日本の世界征服プランが実行に移されているように見える事態が現出したのであった。「ニューヨーク・タイムズ」は、「狂った軍国主義者の夢想」としか見なされてこなかった田中上奏文は、いまや現実に姿を現し、「中国侵略はその第一歩である」との中国政府関係者の発言を報じた。

 一方で、アメリカ政府の満州事変への対応は当初は微温的であった。当初、現地からの情報が少ない中、スティムソン国務長官は、一部の兵による反乱であるとみなしていたし、東京に駐在していたキャメロン・フォーブズ駐日大使などは、偶発的事件ですぐに収まるという日本外務省の説明を信じて、事変勃発二日後に、休暇のためアメリカへ向けて出港している。時の共和党政権は、東アジアに対しては、日本とのビジネス関係を維持しつつ、中国ともその領土保全を前提として友好関係を維持するという、漠然とした政策に終始していた。フーバー大統領は介入に消極的であったため、結局国務省としては、長官名で不承認主義のスティムソン・ドクトリンを送付するに留まった。

 当時、南京に住んでいたパール・バックは、仕事を手伝ってくれていた中国人から、「日本が満州をとったということが何を意味するのかを米英人が理解しないということがどうして可能なのでしょうか。二回目の世界戦争になりますよ」と言われたことを記録している。日本の満州獲得は、これまでの西洋によるアジア抑圧に対して反抗する狼煙を日本があげたのであって、アメリカとの最終戦争を優位に進めるためのものであると、当時の中国人や中国在住の外国人は直感したのである。

 一九二〇年代の日本のアジア主義は無名の国会議員や民間人が主導したものであったが、満州事変以降は政府内部の人間も含めた有力者によって繰り広げられていくことになる。それは、日露戦争以降の黄禍論を否定しようという日本政府の姿勢から大きく転換するものであった。それまでは西洋列強が人種的に国際関係を捉え、合同して日本に対抗するのを避けるため、日本政府は、アジア主義的野心など日本は持っていないと示すことに腐心してきた。それが、自らアジア主義を率先して露にするようになっていくのである。

2024年4月3日水曜日

20240403 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻 pp.234-236より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻 
pp.234-236より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309227368
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309227368 

 科学には、宗教が下す倫理的な判断を反証することも確証することもできない。だが、事実に関する宗教的な言明については、科学者にもたっぷり言い分がある。「受精後一週間のヒトの胎芽には神経系があるか?胎芽は痛みを感じられるか?」といった、事実に関する疑問に答えるには、聖職者よりも生物学者のほうが適格だ。

 事実をもっとはっきりさせるために、ある歴史的実例を詳しく考察しよう。この例は、宗教のコマーシャルではめったに耳にしないが、当時、途方もなく大きな社会的・政治的影響を及ぼした。中世のヨーロッパでは、ローマ教皇は絶大な政治権力を誇っていた。ヨーロッパのどこで争いが起こっても、教皇はそのたびに問題の決着をつける権限を主張した。その権限の正当性を立証するために、教皇は繰り返しコンスタンティヌス帝の寄進状を挙げ、ヨーロッパの人々の注意を喚起した。この寄進状の物語によれば、三一五年三月三〇日、ローマ皇帝コンスタンティヌスは公式の命令書に署名し、ローマ教皇シルウェステル一世とその後継者たちにローマ帝国西部の永続的な支配権を与えたという。歴代の教皇はこの貴重な文書を保管し、野心的な君主や好戦的な都市や反抗的な農民が敵対の構えを見せたときにはいつも、強力なプロパガンダの道具として利用した。

 中世ヨーロッパの人々は、昔の皇帝の命令にはおおいに敬意を払っており、文書が古いほどその権威を増すと考えていた。彼らはまた、王や皇帝は神の代理人だとも考えていた。コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国を異教徒の領域からキリスト教帝国に変えたので、とりわけ崇められていた。だから、当時の都市の議会の要求と、ほかならぬコンスタンティヌス帝が発した命令とが衝突したら、古い文書のほうに従うべきなのは、中世ヨーロッパの人々には明らかだった。したがって、教皇は政治的な抵抗に遭うたびにコンスタンティヌス帝の寄進状を振りかざし、服従を求めた。ただし、いつもうまくいったわけではない。だがコンスタンティヌス帝の寄進状は、教皇のプロパガンダと中世の政治秩序の重要な土台だった。

 コンスタンティヌス帝の寄進状を念入りに調べてみると、この物語が上の表のように三つの別個の要素から成ることがわかる。

 古い皇帝の命令が持つ倫理的な権威は、およそ自明とは言い難い。二一世紀のヨーロッパ人の大半は、現在の人々の願望のほうが、とうの昔に死んだ君主たちの命令に優先すると考えている。とはいえ、この倫理的な論争に科学は参加できない。どんな実験も方程式も、この問題に決着をつけられないからだ。現代の科学者が七〇〇年前にタイムトラベルしても、昔の皇帝たちの命令はいまの政治の議論には無関係であることを、中世のヨーロッパ人に証明できないだろう。

 もっとも、コンスタンティヌス帝の寄進状の物語は、倫理的な判断だけに基づいていたわけではない。そこには、とても具体的な事実に関する言明も含まれており、それは科学にも立証したり反証したりする資格が十分ある。一四四〇前、カトリックの司祭で言語学の先駆者ロレンツォ・ヴァッラが科学的な研究を発表し、コンスタンティヌス帝の寄進状が偽造文書であることを証明した。ヴァッラはその文書の文体や文法や使われている語句を分析した。そして、この文書には四世紀のラテン語では知られていない単語が含まれており、コンスタンティヌス帝の死後およそ四〇〇年を経てから捏造された可能性が非常に高いことを実証した。この文書には、他にも重大な問題がある。そこに記された日付は「コンスタンティヌスが四度目に執政官に、ガリカヌスが初めて執政官を務めた年の三月三〇日」だ。ローマ帝国では毎年二人の執政官が選ばれ、文書では誰が執政官かで年を表すのが習いだった。あいにく、コンスタンティヌス帝が四度目の執政官になったのは三一五年だったのに対して、ガリカヌスが初めて執政官に選ばれたのは三一七年になってからだった。これほど重要な文書が本当にコンスタンティヌス帝の時代に書かれたのなら、これほど明白な誤りが含まれていることはけっしてなかっただろう。トマス・ジェファーソンと同僚たちが、アメリカの独立宣言に「一七七六年七月三四日」と日付を書き込んだようなものだ。

 今日、コンスタンティヌス帝の寄進状は八世紀のいずれかの時点に、教皇の下で捏造されたということで、歴史学者全員の意見が一致している。ヴァッラは古い皇帝の命令の道徳的権威にけっして異議を唱えることはなかったものの、彼の科学的分析は、ヨーロッパ人は教皇に従うべきであるという実際的な指針の効力を間違いなく切り崩した。

20240402 株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.126‐129より抜粋

株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.126‐129より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094888
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094884

 英国内で過去数十年間蓄積されてきた根深い対露不信は、ロシア皇帝のロンドン訪問によっても払拭されなかった。現実問題としては、英国の国益を損傷するようなロシアの脅威は微小であり、両国間の外交関係と貿易関係も、クリミア戦争が勃発する時までは概して良好だったが、それにもかかわらず、反露感情は(反仏感情以上に)英国民の世界観を左右する重要な要素となっていた。そもそも、ほぼすべてのヨーロッパ諸国で国民のロシア観を形成していたのは恐怖心と想像力だったが、英国もその例外ではなかった。十八世紀の全期間を通じてロシアが強行した急速な領土拡張、ナポレオン軍を粉砕したロシアの軍事力の誇示、「ロシアの脅威」を論ずる小冊子、旅行記、政治論文などがヨーロッパの各国で次々に刊行され、ロシア脅威論は一種のブームとなった、現実的な脅威または体感できる恐怖というよりも、むしろヨーロッパの自由と文明を脅かすアジア的な「他者」としてロシアを論ずる議論が主流だった。これらの出版物の業者たちがその想像力によって生み出した固定観念としてのロシアは、野蛮な強大国であり、本質的に攻撃的で領土拡張主義的だが、同時に狡猾かつ欺瞞的で、「見えざる勢力」と共謀して西欧諸国に敵対し、西欧社会に浸透しようとする陰謀国家だった。

 「ロシア脅威論」の著者たちがその主張の根拠としていた参考文献の中に「ピョートル大帝の遺書」と呼ばれる文書があった。反露派の作家、政治家、外交官、軍人などの多くが、世界征服を企むロシアの野望の明白な証拠として「ピョートル大帝の遺書」を引用している。ピョートル大帝はこの文書の中で誇大妄想的な国家目標を言い残したとされていた。すなわち、バルト海から黒海に至る広大な範囲に領土を拡張し、オーストリアと組んで欧州大陸からトルコ人を放逐し、東地中海地方(レヴァント)を征服し、インド貿易を支配し、ヨーロッパ全土に不和と混乱の種を撒き散らし、欧州大陸の支配者になるというのがその目標だった。

 「ピョートル大帝の遺書」は実は偽造文書だった。十八世紀初頭のある時期にフランスおよびオスマン帝国とつながりを持つ何人かのポーランド人、ハンガリー人、ウクライナ人によって創作され、数種類の異本を経た後、最終的にこの偽造文書は一七六〇年代にフランス外務省の文書館に収蔵された。フランスはこの文書をピョートル大帝の真正の遺書として扱った。それがフランスの外交政策に役立つと考えられたからである。ヨーロッパ東部におけるフランスの主要な同盟国(スウェーデン、ポーランド、トルコ)はすべてロシアによる侵略の被害者だった。十八世紀から十九世紀の初めにかけて、フランスの外交政策の基底には、「ピョートル大帝の遺書」の内容をロシアの外交政策の基本と見なす考え方があった。

 この文書の影響をとりわけ強く受けたのがナポレオン一世だった。ナポレオンの外交顧問たちは事あるごとに「ピョートル大帝の遺書」に書かれた思想や文言を持ち出している。たとえば、フランスの総裁政府時代(一七九五~九九)と執政政府時代(一七九九~一八〇四)の両期を通じて外相の地位にあったシャルル¥モーリス・ド・タレーランは、「ロシア帝国の全システムはピョートル一世以来一貫して変わらぬ目標を追求している。すなわち、全ヨーロッパを野蛮の洪水の下に沈めるという目標である」と主張している。ナポレオン・ボナパルトから厚く信頼されていた外務省幹部のアレクサンドル・ドートリーヴ伯爵は同様の趣旨をさらに直截に表現している。

 ロシアは戦争を通じて近隣諸国の征服を追及する一方、平時には近隣諸国以外の地域にも進出して不信と不和を扇動し、全世界を混乱に陥れようとしている・・ロシアがヨーロッパでもアジアでも他国の領土を簒奪していることは周知の事実である。ロシアはオスマン帝国とドイツ帝国の破壊を目論んでいる。そのやり方は正面攻撃だけにとどまらない・・ロシアは陰険な手口で秘密裏にオスマン帝国の基盤を掘り崩すための陰謀をめぐらし、地方勢力の反乱を扇動している・・その一方で、オスマン帝国政府(「ポルト」)に対しては常に友好的な姿勢を装い、オスマン帝国の友人、保護者を自称している・・ロシアはオーストリアに対しても同様の攻撃を準備している・・そうなれば、ウィーンの宮廷は消滅し、西欧諸国はロシアの侵略から身を守るための最も有力な防壁を失うことになるだろう。

「ピョートル大帝の遺書」は一八一二年にフランスで刊行された。ナポレオン軍がロシアに侵攻した年である。それ以来、同書はロシアの拡張主義的外交政策の決定的な証拠としてヨーロッパ各国で再版され、引用されることになる。以後、ヨーロッパ大陸でロシアが参戦する戦争が勃発する時には、決まって「ピョートル大帝の遺書」が話題となり、一八五四年、一八七八年、一九一四年、一九四一年などに繰りかえし刊行された。第二次大戦後の冷戦時代にも、ソ連の対外侵略の意図を説明する資料として引用されることがあった。一九七九年にソ連がアフガニスタンに侵攻した時には、「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙と「タイム」誌がモスクワの意図を示す証拠として「ピョートル大帝の遺書」からその一部を引用し、英国下院の論議でも同書が取り上げられた。

2024年4月1日月曜日

20240331 株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.22‐25より抜粋

株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻
pp.22‐25より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094888
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094884

クリミア戦争は、また、最新の工業技術が動員されたという意味でも、まさに近代戦の最初の例だった。新型のライフル銃、蒸気船、鉄道、近代的な兵站、電報をはじめとする新しい通信技術、革命的な軍事医学などが動員された総力戦だった。戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場したのも初めてだった。しかし、同時にクリミア戦争は古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争でもあった。戦闘の最中に敵味方の話合いがもたれ、戦場から負傷者と死体を収容するための一時的な休戦が頻繁に実現した。有名な「軽騎兵旅団の突撃」の舞台となったアリマ川の戦いやバラクラヴァの戦いなど、クリミア戦争の初期段階の戦闘はナポレオン時代の戦争の様相を色濃く残していた。しかし、最も長く、また最も決定的な局面となったセヴァストポリ攻防戦の段階に入ると、工業力を背景として戦われた第一次大戦(一九一四~一八年)を先取りする塹壕戦の特徴が明らかとなる。十一ヶ月半に及んだ攻防戦の間、ロシア軍、英国軍、フランス軍が掘り進めた塹壕の延長距離は一二〇キロに及び、攻撃軍と防衛軍の双方が交わした銃弾は一億五〇〇〇万発、砲弾は各種口径を合わせて五〇〇万発に達した。
 クリミア戦争という名称を使うこと自体が、そもそも、この戦争の世界的な規模を表現するには十分ではなかった。戦争の深刻な影響は、西ヨーロッパとロシアだけでなく、バルカン半島からエルサレムまで、また、コンスタンチノープル(イスタンブール)からカフカスに至るまでの広大な地域に及んだ。これらは、当時、東方問題と呼ばれていた問題の紛争地域である。東方問題はオスマン帝国の崩壊を目前にして発生した重大な国際問題だった。少なくとも東方問題との関連を明示するという意味では、ロシアが採用した「東方戦争」(ヴァストーチナヤ・ヴァイナー)の方が実態にふさわしい名称だったかもしれない。また、トルコ側が使った「トルコ・ロシア戦争」も、数世紀に及ぶロシアとオスマン帝国との抗争という歴史的な意味合いを表現するには適切かもしれない。しかし、「トルコ・ロシア戦争」という名称からは、この戦争に西欧諸国が介入したという決定的な要素が抜け落ちてしまう。
 戦争はオスマン帝国とロシア帝国の軍事衝突として一八五三年に始まった。衝突が始まった地域は現在のルーマニアにあたるドナウ川下流域のモルダヴィア公国とワラキア公国だったが、戦場はすぐにカフカス地方に拡大する。カフカスでは、トルコと英国がイスラム教徒諸部隊を支援して反ロシアの抵抗闘争を奨励していた。戦争はカフカスからさらに黒海沿岸地域全域に拡大する。一八五四年に入って、英国とフランスがトルコに味方して参戦し、さらに、オーストリアが反露連合に参加する動きを見せると。ロシア皇帝はドナウ両公国から軍隊を撤退させ、その結果、主戦場はクリミア半島に移る。しかし、一八五四~五五年にかけて、戦争はその他のいくつかの地域でも戦われることになる。たとえば、英国海軍はバルト海に進出してロシアの首都サンクトペテルブルグへの攻撃を計画し、白海では実際にソロヴェツキー修道院を砲撃している。一八五四年七月のことだった。ロシアへの攻撃はシベリアの太平洋岸でも実行された。(一八五四年、英仏連合艦隊はカムチャッカ半島のペトロパヴロフスク・カムチャツキーを砲撃した。同市の湾内には英仏艦隊を撃退した記念碑が今も残っている)
 クリミア戦争は世界規模で戦われた戦争だったが、その事実はこの戦争に関わった人々の多様性にも反映されている。本書に登場する関係者の顔ぶれを見れば、期待(または懸念)に反して軍人が少なく、むしろ軍人以外の人々、たとえば、国王や女王、貴族諸侯、廷臣、外交官、宗教指導者、ポーランドやハンガリーの革命家、医師、看護婦、ジャーナリスト、画家や写真家、パンフレット作者や作家が多数登場することに気づくであろう。たとえば、クリミア戦争についてのロシア側の見方を最も雄弁に語っているのは他ならぬ文豪レフ・トルストイである。トルストイはロシア軍の青年士官としてクリミア戦争の三つの戦線(カフカス、ドナウ、クリミア)を体験している。読者は、また、英国軍兵士の「トミー」や、フランス軍アルジェリア歩兵連隊のズアーヴ兵や、ロシア軍の農奴兵など、この戦争で戦った一般兵士と士官の生の声を彼らの手紙や回想記を通じて知ることになるであろう。
 クリミア戦争については、英語で読むことのできる書物だけでも数多く出版されている。しかし、英国の立場からでなく、ロシア、フランス、オスマン帝国の立場からの資料を幅広く利用して、これらの大国がこの戦争に関与するに至る経緯を当時の地政学的、文化的、宗教的背景を含めて解明しようとする試みは、言語の如何を問わず、本書が初めてだろう。歴史的文脈を重視するという本書の特徴からして、戦闘場面の描写を期待する読者にとっては、最初の数章は退屈かもしれない(したがって、そこは飛ばして読むという手もある)、ただし、私がこれらの章で言いたかったのは、歴史の巨大な転換点としてのクリミア戦争の再評価である。クリミア戦争はヨーロッパ、ロシア、中東地域の歴史にとって重大な転換点であり、その影響は現在に及んでいる。ところで、これまで英国には「クリミア戦争は無意味で不必要な戦争だった」という根強い固定観念があった。軍事作戦上の不手際と芳しくない戦果についての当時の国民の落胆から生まれたこの固定観念は、長い間、英国の歴史界に陰を落としてきた。その間、歴史学者たちはクリミア戦争を等閑視し、まともなテーマとして取り上げてこなかった。そのため、英国では、クリミア戦争はもっぱら戦史物語として扱われてきた。戦史物語の熱心な語り手たちの多くは歴史学者としてはアマチュアであり、いつも繰り返されるテーマは、たとえば、「軽騎兵旅団の突撃」、英国軍司令部の失態、フローレンス・ナイチンゲールの活躍などの同じ話だった。この戦争のきっかけとなった宗教的背景、「東方問題」に含まれる複雑な国際政治、黒海地域におけるキリスト教とイスラム教の競合関係、ヨーロッパに蔓延していた反ロシア主義などについての本格的な議論はほとんど皆無だった。しかし、これらの問題を抜きにしては、クリミア戦争の本質とその重要性を理解することは難しいのである。