2016年1月21日木曜日

20160121 テレビ、情報リテラシー、ラジオスターの悲劇などについて

A「最近男性五人組の人気アイドルグループの解散を匂わせるニュースがありましたけれど、あれは実際大したことなのでしょうかね?
テレビ報道などでは結構大々的にやっていたようだけれど、ああいった報道は、この時機に他の何かに目をそらせることを目的にしているのではないかな・・?」

B「私はテレビのニュースはあまり観ませんが、ネットのニュースでもそのことは大きく取上げられていましたので、一応知っています・・。
また、それが何か目くらましの目的を持っているのではないかという御意見も、それは充分あり得ると思います。
しかし、実際問題として、そのニュースがもたらす影響とは、テレビ離れが進行している現今我が国社会においてそこまで大きいものなのでしょうか・・?」

A「なるほど・・それもたしかに一理ありますね。
また、そう考えますと、このアイドルグループの解散危機の報道とは、テレビ離れを食い止める一つの策であるのかもしれませんね・・。
それに何故そして誰が、その解散危機を報道のネタにするのでしょうか?
他にもそういったグループはいくらでもあると思うのですが・・。」

B「ええ、それは昨今のネット社会の進行により、そうしたウラ事情の存在を考えさせるようになったのではないでしょうか?
その意味において、ネット社会の進行とは、情報リテラシーの向上にある程度寄与しているのかもしれませんね・・。
とはいえ、さきの報道の真相は相変わらず分かりかねますが・・(苦笑)
まあ、いずれにしてもそれは我々を含めた多くの方々にとって、あまり関係のないことであるのではないかと思いますが()。」

A「・・それはたしかにそうだけれど、そういった報道から何かしらの真相なり傾向を感知できるのではないかと考えるのも、また一つの情報リテラシーであると思いますので、そういった意味では、これはこれで有意義であると私は考えますが・・。」

B「まあ、そうですね・・()。
しかし、様々なところで述べられていることですが、現代の情報化社会とは、報道も何もかもショー、見世物化しているということですが、こうした社会において、実際の日常的な職業上の経験、必要性以外において付加的に必要とされる情報リテラシーがネット社会の進行により向上するということは、良いことであるとは思いますが、一方においてそれは、何かしら負の要素もあるのではないかとも思いますが・・?
あたかもジェイコブスの怪談「猿の手」あるいは「イーリアス」のトロイの木馬のように・・。」

A「ううむ、そういった危惧とは、たしかに私も時折考えることですが、いずれにしてもテレビの情報媒体としての重要性が以前に比べ低下していることは明らかであると思いますので、相対的に見て今後大きな問題になるのは情報媒体としてのネット社会における自律性ではないかと思いますが、これもかなり難しい問題ではないかと思います・・。」

B「そうですね・・ここ20年程度における情報媒体に対する価値比重の大きな変化とは洋楽の「ラジオスターの悲劇」を彷彿とさせますが、とにかくこうした情報媒体とは、我々の日常生活に対し大きな影響を与えるという意味において大変重要であると考えますが、それでも今後のネット社会の進展に関しての具体的な予測は難しいですね。」

A「日常性に対する影響ですか・・たしかにそうですね。
そしてそのように考えると、様々な情報媒体が発信する内容とは、それを受け取る側にとって、いわば精神の食物にあたるのではないでしょうか・・?
現在、具体的な食物に対しては食育などもあり、情報媒体が発信する内容に関しては情報リテラシーがそれに相当するのではないかと思うのですが、このことに関しては最終的に「美味しい」とか「安全」などで片付けることが出来る食物と異なり、より何というか意識的、形而上的そして継続的な思考が重要視され、また、その際のある種の枠組み、土台となるものが、おそらく宗教であると思うのですが、これに関して我が国とは、欧米諸国に比べ大分事情が異なるのではないかと思います・・。」

B「うーん、たしかに欧米諸国に関しては、その日常的な意識において持つ宗教および宗教概念が少なくとも我が国に比べて大きな影響力を持っていると思いますからね・・しかし、それだからといって今後我が国が何等かの宗教を持つべきであるとは思えませんし。それ以前に無理であると思います・・(苦笑)。
何故ならば、そういった文化とは、自然な歴史的経緯によって培われるものですから・・しかし、おそらく明治以降の我が国とは、現代に至るまで、外国からの様々な文化の導入をその存立のために行わざるを得なかったのしょう・・。
これはAさん御存知のように夏目漱石が述べていたことですが・・。」
A「ええ、そのようにして成立している我々の日常性が何らかの原因により自身が持っている現実的な意識と合致、適応しないようになると、それに伴い自身が用いる言葉、言語が何というか現実味がない、味気ないものになってしまうのではないかと思います。
そして他者とは、そういったことを敏感に感じ取るものではないかと思います・・。
その意味において昨今のテレビ離れとは、こういったところにもまた原因があるのではないでしょうか?
加えて、これは教育現場などにおいても同様であるかもしれません・・。
さらに、その意味において書籍、ブログなどの面白さも、大きくそういった要素に依存しているのでしょう。」

B「ううむ、それはたしかにそうなのだけれど、一方において昨今流行の読書ブームやブックカフェみたいなものも結局何というかカーゴカルト的なものに思えてしまうこともありますので、Aさんのいう他者が、その解釈、つまり何を根拠にしてそれらの良し悪しを判断しているのか大変疑問に思うことがあるのです・・。
そして、そこから一歩進めると、それこそが日常性と現実的な意識が合致していないことを示しているのではないかと考えさせられるのです・・。
しかし、実際こうした意見をいうと「ではお前は日常性と意識は合致していて、十全に用いている言語、言葉、考え、思想を理解しているのか、あるいはそこまで偉いのか?」といった出る杭式の批判が生じるのが我が国の特性、傾向であると思うのです・・(苦笑)。
そして、これは多分改善されないどころか、ネット社会の進化により、益々その傾向を強めてゆくのではないかと思いますね・・。
それ故、さきほどの「猿の手」トロイの木馬を例として挙げたような危惧をおぼえるのです。」

A「・・まあ、たしかにそういわれるとそうですね・・。
歴史を知らないと歴史的因果律から脱却することは困難ですが、そういった認識を強要することは出来なく、またその一方において、これも重要ではあるのですが、西欧に直接的始原、基礎に持つ精緻に構築された物質文明に基づき存立している現今我が国の状態が、これもまた西欧に直接的起源があるネット社会の更なる進行により、今後どのような変化を遂げるのかとは、大変興味深いです・・。」