2016年10月31日月曜日

20161031 小説、物語とその映像化作品について・・

A「昨日は不図「ブログ記事の作成を止めておこう・・。」と考え、どちらかというと意図的に記事作成を止めました。

その理由とは、昨日は休日ということもあり、また目標とする500記事まで年内に到達することが可能であるならば、多少の小休止もまた合理的な判断ではないかと考えたためです。

加えて1日意識的に休むことにより、如何なる影響が自身の記すブログ記事に生ずるのかを確認することもまたできます・・。

とはいえ、こうしたことをこの程度長々と記しますと「それはただのサボりの言い訳ではないのか?」と思われる方々もいらっしゃるかもしれませんが、たしかにそれは穿った見方として間違いではないと思われますし、意識しなくとも、あるいは、文字に記さなくとも、おそらくそうした心情とは、正直なところないとは言い切れません・・(苦笑)。

とはいえ、一方において、これまで多少の断続はありながらも、どうにか継続的と云える程度にはブログ記事を作成してきましたので、その見地にて考えて頂ければ、たとえサボりの部分が多少あったとしても、それは今後のブログ記事作成を円滑に行う為の小休止であったと認識、見做して頂くこともまた出来るのではないでしょうか・・?

そして、それすらもまた「言い訳ではないのか?」と追及されるのであれば、そこから先は私も何もその点に関しては記すコトバがありません・・(苦笑)。

さて、この点はこのくらいにしまして、先日、これまで投稿しましたブログ記事において度々取り上げた作家北杜夫の小説が映画化されていることを知りました。

この小説につきましては、これまでに読んだことがありませんが、とりあえずは、以前ブログ記事に記しました、かねてよりの企図にしたがい同著の「楡家の人びと」を読んでみようと思います。

また、長編小説といえば、今春~夏にかけて読みました野上彌生子著「迷路」の次となりますが、この「楡家の人びと」もまた、さきの「迷路」と時代背景が重なるため、なかなか面白く読むことが出来るのではないかと考えております・・(笑)。

しかし、そう考えてみますと、どうも最近の私は、この時代(戦間期~戦中、戦後)を舞台にした長編小説を好んで読んでいるようです・・。

さらに加えて、それ以前(2007~2008)に読んだ大西巨人著「神聖喜劇」もまた、主に戦中を舞台(この著作は主人公の作中での回想あるいはかつて読んだ著作からの想起により、描かれる時代が実に多岐に渡る。)としていることから、あるいはこの時代(戦間期~戦中、戦後)とは、おそらく我が国の近代文学がある程度成熟した、それに加え、認識し得る我が国の歴史の中で最も波瀾に富んだ時代(の一つ)であることから小説、物語などに対し格好の時代背景を提供するのではないかと思われます・・。

とはいえ、そうしたかつての我が国社会の一面を「活写」したと思われる著作とは、これまでに映像化されたということは(少)ないようです・・。

これはなかなか面白いことであると思うと同時に、おそらく現今の我々の社会においては技術的云々よりも、それを演じる方々のそれら小説、物語の登場人物への同期化した行動、言動つまり演技が困難であるのではないかと思われます・・(時代精神との同期化が困難・・?)。

その点においてやはり、かつて製作されたこの時代(戦間期~戦中、戦後)を舞台にした映像とは、舞台となった時代と製作された時代が比較的近い(当事者が存命)ことから、何といいますか、無理なく、その舞台となった時代として製作された映像を観ることが出来るのではないかと思われます・・。

あるいは、こうした現象とは、我が国の映像作品にのみ当てはまるものなのでしょうか・・?

とはいえ、こうしたことからもまた、おそらく国民性の一端らしきものは看取、認識することが出来るのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」




2016年10月30日日曜日

20161029 月間総閲覧者数20000到達 各地の名水 および書籍からの抜粋(養老孟司著「カミとヒトの解剖学」より

おかげさまで、昨日投稿したブログ記事は思いのほか、多くの方々に閲覧して頂いたようです。

また、今月も残すところ僅かではありますが、昨日の時点にて月の閲覧者総数が20000人に到達しました。

また、これまで7月より月間総閲覧者数が20000人に到達しておりましたが、今月はそのペースが若干早いようであり、このままのペースで行きますと31日には2万数千人にまで到達するのではないかと思われます。

しかしながら、以前もブログ記事にて記しましたように、ここから月間総閲覧者数が30000人に到達するまでが一苦労を要するのではないかと思われます・・。

とはいえ、現今の状態まで、どうにかこうにかブログ記事の作成を継続することが出来た主な要因とは、閲覧してくださっている皆様に因っております。

また、昨今は「はてなブログ」においても、こちらで作成した記事をコピペして投稿しておりますが、もしかすると、これもまた、何かしらの影響があるのではないかと思われます。

しかし、何れにせよ、ここまで飽きずに興味を持ち閲覧してくださっている皆様、どうもありがとうございます。

今後もとりあえずキリのいい500記事までは継続的に記事を作成するつもりですので、どうぞよろしくお願いします。
また、閲覧して頂いて、興味深い、面白いと思われましたら「★」・「いいね」などを押して頂きますと、大きな励みになりますので、こちらもどうぞよろしくお願いします(笑)。

さて、先日仕事にて都内某所に行きますと(この地域に出向いたことはこれまでになかった。)商店街の中に鹿児島の物産を扱うお店があり、入ってみました。

比較的新しいそのお店に置いてある商品とは、やはり焼酎がメインであり、次いでお茶、さつま揚げといった感じでした。
また鹿児島ではよく見受けられたペットボトルの「高牧の森の水」が置かれており、これは迷わずに購入しました・・(笑)。

そういえば、現在、コンビニにて購入するペットボトルの水とは、大抵の場合ファミリーマートの「霧島の水」であり、これを飲むとおそらく偽薬効果のようなものであると思われますが、何となく元気になるような感じがします(笑)。

また、都内には各道府県の物産店が多く存在しますが、私はこうしたお店に入り、その物産、商品を見ることが好きであり、また、そこでは大抵、その土地の名水をペットボトルに詰めたもの(大抵のお店にはあります。)を購入します。

そして、それらを飲み、自身とその土地の相性らしきものを感じてみるのですが、これはおそらく首都圏であるからこそ気軽に出来る自身を用いた面白い実験?ではないかと思われます・・(笑)。

さて、ここまで記していて、不図思い起こした著作、養老孟司著「カミとヒトの解剖学」からの一節(pp.225ー228)を抜粋引用し、下に示そうと思います。

あるいはこの抜粋引用部もまた、さきに述べた内容と多少関連があるのかもしれません・・。


「山本七平氏は、歴史について言う。
歴史的に見るといいましても、例えば「方丈記」を見ますと、歴史を「流れ」という自然現象のように見ているわけで、どこから来て、どっかへ流れていってしまう。

ここには「創造・終末」という発想がないわけです。

さらに興味深いのはこのときの鴨長明の見方で、彼は岸辺に立ってその流れを見ているという見方をしているわけです。

いわばこの「流れ」と自分とは関係ない位置にいるわけで、歴史を荷っている自分の生涯は、その‘‘流れ”-というと語弊がありますが―の一部分だという見方はしていないわけです。

そして彼自身は、それを横目で見つつ、出生から死亡までこの世を通過するという形で、自分自身を把握しているわけです。

そして人間が流れと共に流れているなら、それは相対的な意味での動きではなくなりますから、共に流れている人間にとっては動いていないのと同じことで、そして時間の経過とともに生まれかつ世を去るという形で個々の人や事象が把握されれば、結局は、動かない中を通過しているのと同じ意識です。

山本七平氏もそうだし、丸山眞男もそうだが、日本人には「歴史」という観点がないという指摘がなされる。

キリスト教もマルクシズムも同根であるから、そこに「流れる」歴史観と、我々の歴史観は異なって当然である。

山本氏は、日本人は「まだ足りない」でやって来たと書かれる。
民主主義がまだ足りない、福祉がまだ足りない。
歴史観がないのも事実だし、「まだ足りない」も本当であろう。

しかし、山本氏の言われる「歴史観がない」も「まだ足りない」の一種かもしれないのである。

文化というものの中に閉じこもるかぎり、あっちの文化に飛んだり、こっちの文化に飛ぶことは可能だが、どちらにも共通し、どちらをも基礎づける、「普遍」を構築することはできない。しかし歴史とは、もともと普遍を構築しようとする努力ではないのか?

人間という存在が「生まれつき、自然に」持っている道具、つまり人体と、その中に位置する脳とは、どこの土地でも、どの時代でも、ほとんど変わりはしない。

それ以外に、人間の物差はあるか。

歴史観が「ない」文化と、「ある」文化とに共通する基盤とはなにか。

「ない文化」が「ある文化」に喧嘩を仕掛けても、「ある」文化が「ない」文化を尻に敷いても、答えにはならない。
文化の興亡があるばかり。

しかも、どちらもたかだか一・五キロの脳が考えることに過ぎないではないか。

この普遍という物差を、わが国では「人」と表現するのであろう。人間とはどういうものか。

「不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る」と、長明は無責任なことを言う。

しかし、この先を追求しなかった方が悪い。

鴨長明の責任ではない。長明自身は、「不知」と、問題を提起しているのである。

「方丈記」にこう書かれているのを見れば、長明が人間の歴史について、無関心だったはずがないとわかる。

この文章を、一言にして尽くす歴史の定義ととることすら、不可能ではない。

問題は歴史が「あるか、否か」ではない。
歴史とはなにか、である。
あるいは、歴史の前提はなにか、である。

それはそれぞれの社会の、政治的、文化的な存在基礎と、密接に関わっている。

天皇制は歴史ではないのか。
これは生物学で言えば、「生きた化石」であろう。

丸山氏の言うように、「永遠としての現在」がこの国の歴史観であるなら、歴史観が「ない」のではなく、それが歴史観なのである。

そこでは、視覚の関与する時が、瞬間と永遠に分別される。
そして、その間をすべてが「流れる」。

山本氏の書かれるように、鴨長明が傍観者のように見えるとすれば、そこでは、視覚の特徴が明瞭に出ているからである。

「観」とは目、すなわち視覚系の機能であって、ここでは視覚が表面に出ているが、じつは長明の前提は「流れ」あるいは「運動」である。

長明の文章は、私には、むしろ流れと視覚の関係を述べようとしたと読めるのである。

「人間が流れとともに流れているなら」、確かに、ともに流れている人間どうしは相対的には動かない。それなら、流れない意識は、長明のどこにあるのか。なにかが止まっていなければ、「流れ」はない。

答えを言えば、それが長明の視覚であろう。「方丈記」の書き出しは、まさにそれを言っているのである。

ここでは、運動と水という質量、それが絶えず動いてとどまらないことを言うとともに、それが示す「形」が動かないことを、一言にして提示する。

形の背後には、視覚系がある。

長明の文章は、われわれの脳の機能に対するみごとな説明であり、時を内在する聴覚ー運動系と、時を瞬間と永遠とに分別し、時を内在することのない視覚との、「差分」によって、われわれの時の観念が脳内に成立することを明示する。

これが、ひいては歴史観の基礎を表現しているのではないか。

人はあるいはこれを、深読みだと言うかもしれない。

しかし西行や長明の時代に、哲学や理学があるわけではない。「方丈記」に存在するのは、感覚的な表現だけに見えるかもしれぬ。
しかし、本当にそうか。
人間の脳は、西行の頃も、いまも、まったく変わりはしない。
当時存在したのは、具象的な表現法のみであり、その表現法にだまされて、思考の内容まで、具象的と即断しているだけではないのか。
それは歴史における進歩主義ではないか。
後の時代ほど、人間がものがわかっているとは限らない。
哲学的には、他人の思考内容を対象とする議論は、客観的証明を欠く点で悪名が高い。
しかしそれは、表現の具象性が、内容に抽象性がないことの証拠にもまたならないことを、同時に意味しているのである。」

今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震、そして昨今の山陰東部にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして復興を祈念しております。」

カミとヒトの解剖学


ISBN:4-480-08674-9
JANコード:9784480086747




2016年10月29日土曜日

20161028 夜間の山道の走行など・・

5年間のサラリーマン生活の後に大学院修士課程に入学しましたが、その当初は色々と慣れないこともあり、色々と苦労をしたように思います(院生研究室の席など)。

また、知人、友人が一人もいないところに飛び込んだわけですから、やはり、入学当初の時期とは自然、一人でいることが多かったです・・。

しかしながら、(文系)大学院というところは面白いところであり、院生研究室に持ち込み、置いてある書籍について(当時としては)かなり込み入った、難解な質問をしてくる人が普通にいました・・(笑)。

これはやはりボケとツッコミが根付いている近畿、関西地方であるからかもしれません・・(笑)。

ともあれ、そうした環境であったが故に、自然発生的にさまざまなことについて議論を交わすようになったのではないかと思います。

さらに面白いことは、そうした議論を研究室前、図書館前などで行っていると時折、教員が参加されてきたことです・・。

こうした状況になりますと、多少は恐縮して議論の白熱度が下がるのが一般的であるのかもしれませんが、さきに述べたような環境に既に慣れている方々(決して多数派ではありませんが)は、話しコトバこそ多少丁寧にはなりますが、その白熱の度合いに関しては、特に下がるということもなかったように思います・・。

また当初、こうした現象を不思議なものと思いましたが、私の方もそれに慣れるにしたがい、あまりそうしたことを考えなくなっていきました・・(笑)。

加えて、教員の方々もまた、院生に反論をされたからといって憮然としたり、不機嫌になるということもなく、どちらかというと、鷹揚な調子で且つ真剣に議論を楽しんでおられるようでした。

また、こうした議論は長いものになると、数時間も続き、夏から秋にかけての時季などは、数人で各々持っているクリアファイル、バインダーなどで扇ぎながら、蚊を払いながら、さきに述べた場所にて議論を続けていたことを憶えています。

現在考えてみますと、これはなかなか贅沢なものであったのかもしれません・・(笑)。

そしてまた同時に、この議論の経験があったからこそ、これまでに1年以上、ブログ記事作成を継続することが出来、また、一連の対話形式を用いた記事を記すことが出来たのではないかと思われるのです・・。

しかし、それと同時に思い起こすことは、この時期、自分なりに数多くの書籍を読んだことです。

おそらく、この時期とは、それまでの人生の中で最も濃密に多くの書籍を読んだ時期であったのではないかと思われます・・。

さらに、この時期に以前投稿した「もう一人の師匠についてP51 兵器開発事情 武器貸与法」の師匠が関西にて開催された学会の日程を利用し、こちらに訪れて頂いたことが幾度かありました。

これらの折は、自動車にて紀伊半島の様々な旧所、遺跡等を巡り、私が述べるそれらの解説や見解を興味深く聞かれ、また、時においては異なる見解、欧米での類似した事例などを述べられましたが、それらもまた大変興味深く、面白いものでした。

また、別の機会では、新たな弟子(当時大学1年生)と思しき学生さんを連れて来られたこともありましたが、これもこれで大変面白く、また、この時に印象的であったことは、深夜の山道を走行の折、如何なる理由に因るものか、鹿に遭遇することが大変多かったことです・・。

当時、夜間の山道を走行することは特段珍しいことではなかったのですが、これほど鹿に遭遇したことは後にも先にもありませんでした・・。

また、夜間の山道の走行といえば、さきに述べたよく議論を行っていた方々(連中)と9月の後半に山奥のダム湖へ釣行した帰路の折、車内にてワーグナーの「ワルキューレの騎行」、シベリウスの「フィンランディア」等のノリのクラシック音楽を大音量で流し、同じく夜間(深夜)の山道を走行したことです・・。

これは現在思い返してみますと、多少恥ずかしく思わなくもないです・・(苦笑)。

また、この時「フィンランディア」を聴いて一人が「ダイ・ハードや!ダイ・ハードや!」と叫んだことが大変印象的であり、憶えております・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。」





2016年10月27日木曜日

20161027 文体、表現、創造などについて・・

A「本日もまた若干帰宅が遅くなりました。
さて、本日作成分のブログ記事の主題に関しても、現在特に決めておりません・・(苦笑)。

そういえば、昨日作成したブログ記事は、投稿翌日にしては、その閲覧者数が伸びました。

そのことから、やはり当ブログ記事の文体とは、こうした多少口語体に近いものの方が良いのかもしれないと思うに至りました。

また、実際、現在このように文章を記していても、こちらの文体の方がスムーズに文章が湧いてくる感じがします。

そうしますと「あるいはこれが私の「文体」であるのかもしれない。」と考えるのですが、また他のこれまでのブログをある程度読んで頂いている知人に対し、この「文体」について聞いてみますと、自身では明瞭に認識することが出来ないのですが、やはり「私の文体」というものは存在するとのことでした・・。

こうしたことは自身に強く根差してい過ぎるために、客観的なものとして認識することが困難であるのかもしれません・・(苦笑)。

しかしその一方、たとえば私が師匠(歯科理工学)の論文、文章などを読んだ場合「ああ、これは師匠の文章、文体である・・」と割合強く認識することが出来るのではないかと思われます・・。

また、これはあくまでも私見ではありますが、理系学問分野の文体とは、一種独特であると同時に、その大きな傾向らしきものとは、ある程度類似、共通しているのではないかと思われるのです。

このことは自身が歯系院に行った当初、その独特の文体、言い回し等に慣れることが出来なく、いささか苦労した記憶を思い起こさせます。

それはつまり、歯系をも含む理系的な文体、言い回しにて文章、原稿(文語、口語)などを記すといった「表現」あるいは「創造」が出来ないということです・・。

こうしたまさしくモヤモヤとした心境とは、体験された方々も少なからずいらっしゃるかと思われますが、なかなか苦しいものです・・(笑)。

そして、そうした出口の見えない暗いトンネルのような状況(モヤモヤとした心境)から脱出する為の確実ともいえる手段が、とにかく、その分野における著作、書籍を読むということに尽きるのではないかと思います・・。

また、面白いことに、そうした時期を知らないうちに過ぎます(過ぎると慣れる)と、今度は何となく、自身の思考、指向、嗜好までもが変化してしまったのではないかと思われるようになるのです・・(笑)。

さらに後になるとそうした変化が存在したこと自体をも忘れてしまうのかもしれません・・。

こうした忘却とは、あまり良いものであるとは思えません。

そして、多くの方々は記しませんが、こうしたことを実際に感じていた、認識されていたのではないかと思われるのですが、如何でしょうか・・?

ともあれ、こうした変化が人間の精神における相変態、相変化とも云えるようなものではないかと思われるのです。

一体こうした変化とは、どの程度の年代に至るまで生じ得る性質のものであるのでしょうか・・?

あるいは、こうした変化において、何かしら人類、人種、民族などにおいて各々普遍的な傾向といったものは存在するのでしょうか?

そして、そうしたものがもしも存在するのであれば、何に対し注視し検討、考察を行うことにより、その見解らしきもの(人類、人種、民族などにおける各々普遍的な傾向)を得ることが出来るのでしょうか?

そのように考えてみますと、歴史とは一面においてロマンであっても良いのですが、それと同時に「本来」は、普遍性を重んじる科学の対象の一つとして認識され得るものではないかと思われるのです。

そしてまた、そうした考えに基づき、はじめて「時代精神」「歴史感覚」といったコトバの「意味」を理解することが出来るのではないでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の復興を祈念しております。」


2016年10月26日水曜日

20161026 文体および記事更新の頻度に関して思ったこと・・

A「先日来より記してきた記事にて用いた硬質な文体とは、記した後の疲労感が、そうでない文体にて記した場合と比べ、多少大きいと思われることから、一旦この文体にて記すことを止め、以前からの文体にて記してみようと思います。

また、それと同時に、自身の記す文体とは、その同時期に読んでいる書籍の文体からの影響をも少なからず受けるのではないかと思われます。

それ故、英語の書籍を読んでおりますと、その時に記す日本語の文体とは、英文和訳のような、いささかぎこちないともいえる文体となるのではないかと思われます・・(笑)。

そのように考えてみますと、直近まで用いてきました硬質な文体とは、現在の私にとって、その出だしにおいては調子が良いのかもしれませんが、どうもその継続が困難であり、且つ、この文体においては、文章の記述方法(内容ではない)における創造、あるいは良い意味での脱線が生じにくくなるのではないかと思われます。

それ故、私見ではありますが、おそらく論文などで多く見られる硬質な文体とは、このブログ記事のような即興的な散文に適したものではなく、時間をかけ、推敲に推敲を重ね、内容に矛盾、論旨に破綻が生じないように作成するカチッとした論文にこそ相応しいのではないかと思われます。

また、読み手側としても、硬質な文体にて記されたものは、そうでないものと比べた場合、若干読む際の疲労の具合が異なるのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

さて、ブログ記事の文体については、このあたりにします。

今回投稿する記事により総投稿記事数が460となります。
先日の450記事到達から考えますと、これは早いのか、遅いのかよく分かりませんが、何れにせよ、お蔭様でまた一つの里程標を目にすることが出来ました。どうもありがとうございます。

また、そうしますと、残り40記事にて500記事に到達する次第ですが、今年が残りあと70日未満ですので、現在のペース(1日1記事)にて記事を作成し続けることにより、特に無理なく、年内に500記事に至ることが出来ると思われます。

そして、この500記事に至りましたら、ブログ記事の作成を一旦、意識的に止めてみようと思います。

そして、そうすることにより、自身の内外に何かしら多少の変化が生じ、それを感じ取ることが出来るのでしょうか・・?

これは正直なところ自身のことではありますが、苦労して作製した試料を試験機にかけ、さらにそれ(試験機にかけた試料)を電子顕微鏡にて観察する時のような好奇心が惹起することが認められます・・(笑)。

また、ここまで記しており不図思い起こしたことは、かつての鹿児島在住時、ミクシィというSNSにて、こうした文章、記事らしきものを作成していたのですが、その際は記事も現在投稿しているブログ記事よりも全般的に短く、また週1回程度の更新であったことです。

その時から比べますと、現在のブログ記事更新の頻度とは、劇的に増加しており、またそれが私が鹿児島在住の期間において進化発展した能力の一端ではないかと考えられます・・(笑)。

また、こうしたことは、当然ではあるかもしれませんが、おそらく外観からの認識、判別が困難ではないかと思われます。

とはいえ、作成者自身からしますと、この間には明らかに何かしらの内面での少なからぬ変化が生じたのではないかとも思われるのです・・。

こうした変化を的確(しかも、この場合の的確とは何か?)に言語化、文章化することは果たして可能なのでしょうか・・(笑)。

そしてまた不図思ったことは、おそらくこうしたことは、これまでいくつか過去の出来事をブログ記事として言語化、文章化することにより、はじめて思い起こし、考えのようなものとして、述べる、記すことが出来るようになったのではないかということです・・。

そうしますと今度はゲーテの
歴史を書くのは過去を脱却する一つの方法である。」
あるいは同じく
「人間の最大の値打ちは、人間が外界の事情にできるだけ左右されず、できるだけこれを左右するところにある。世界の一切は、建築家の前にある大きな石切場と同じように、われわれの前に横たわっている。建築家の本領は、この偶然自然の石塊から、できるだけ経済的に、目的にかなうように、しっかりと、自分の心の中に生じた原型を作り上げるところにある。われわれの外部にある一切のものは要素に過ぎない。否、われわれにくっついている一切のものも要素に過ぎないと言ってよいだろう。しかし、われわれの奥深くには、あるべきものを創りだすことのできる創造力がある。その力は、われわれが、あるべきものを、われわれの外部に、あるいはわれわれの身辺に、何らかの方法で現すまでは、われわれを安らかにさせない。」
といったコトバを思い起こさせます。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震における被災地の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
















2016年10月25日火曜日

20161025 ブラックコーヒーを飲むようになった理由

A「先日来より、過去の出来事を記しております。
面白いことに、こうした過去の出来事を題材として記しておりますと、それまでの主要な形式である、現在思ったこと、考えたことと過去の出来事を多少関連させた題材を記したものに比べ、疲労の度合いが異なるということです。

これはおそらく記事を記す際における用いる頭の部位、機能が異なるからではないかと思われます。

しかし、この過去の出来事を題材として記す形式にも慣れてきますと、さきに記した疲労の仕方もまた変化するのではないかと思われます。

あるいはまた、そこで不図思ったことは、記す文体において過去の出来事を扱う際に用いている硬質な文体とすることに因り、現在認識される、こうした疲労の仕方(硬質な文体にて記すことによりより多くの疲労が認められる)に結び付くのかもしれません・・。

そこに、どのような関連性があるのかは分かりませんが・・。
とはいえ、今回の記事も以降、先日来の硬質な文体にて過去の出来事を記してみようと思います。
それでは、続けます。

修士課程における私の師匠とは、私と同様関東、千葉県の御出身であった。
とはいえ、この師匠は、就職以来長く和歌山に在住されていたためか、その話し言葉のイントネーションとは、関東のそれであるよりも、和歌山のそれに近いものであった。

また、この師匠は、長い和歌山での在住経験により、県内地域の様々な産物、伝説、言い伝えについて博識であり、それらに対し、時折私が幾分見当違いな見解を述べると、落ち着いた口調にて「そうかなあ・・それに関しては、もう少し調べてみてはどうかな・・?」といった感じで柔らかく再考を促すといったところがあった。

また、この師匠から(勝手に)教わったもう一つのことはコーヒーであった。
それまでに私は缶コーヒーを好んで飲んでいたが、この師匠と様々な機会において会話を交わしていくうちに徐徐に私の方も缶コーヒーよりインスタントであってもブラックコーヒーを好むようになっていったのである。

こうした好み、嗜好の伝播もまたなかなか面白いものである。

しかし、こうした些細なことをも含む、好み、嗜好の伝播とは、おそらくその大半が無意識であり、そして我々が認識、意識するよりも多く生じているのではないかと思われる。

それはまた、我々の社会の各規模において見受けられる、こうした現象、傾向(生み出された流行)が、同時に我が国社会において比較的多く見受けられる「同調圧力」の基軸となっているのではないかとも思われる。

しかしながら、そうしたことを記していると、不図、これまでに記した一連のブログ記事もまた、何処からの好み、嗜好の伝播であったり、同調圧力によって継続することが出来ているのではないかとも考えるに至るのである・・。


今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして復興を祈念しております。」


2016年10月24日月曜日

20161024 北海道からの転勤、南紀での勤務、さらなる転勤・・

A「本日は少し帰宅が遅くなりました。
さて、昨日のブログ記事の続きとなります。
私の就職後初めての赴任地とは北海道の札幌市の近郊であった。
無論、これは私にとって初めての北海道での在住経験であったが、北海道とは、冬が寒く、日射量が少なかった。
そして、この時に日光の精神に与える影響の重要性および自身が北海道を含む寒冷地に対し体質的に向いていないことを強く認識した。
とはいえ、ここで2年間在住した。
この2年間の在住期間を通じ、特に価値観が大きく変化することはなく、ただ漠然と東京を含む首都圏に戻ることを望んでいた。
そして、その次の転勤先とは和歌山、南紀であった。
東京、首都圏を通り越し、はるか遠く、和歌山、南紀が転勤先であったことは、当時の自身にとって決して嬉しいものではなく、むしろ強く落ち込む要因となった。
とはいえ、この地に赴任し、最初に感じたことは、日射量が多いということである。
また、それによりいくらか萎縮気味であった自身の精神が膨らみ、そしてほぐれていくというような感覚をおぼえた。
しかしながらこうした、しばらくの期間、日射量の少ない寒冷地に在住した後、日射量の多い温暖な地域に転居した場合、こうした現象が生じるのは特に珍しいことではないものと考える。
さらに、この南紀での在住期間を通じ、山奥のダム湖でのバス釣りをおぼえ、夏の暑い盛りに一人釣行し、ボートの上から釣糸を垂らしているのは、なかなか風情があり、また、魚が掛かった時の興奮とは、それまでに味わったことのないものであった。
私はこの南国的ともいえる南紀の横溢とした自然風土が徐徐に好きになっていった。
また、それと同時にここではサイクリングもよく行い、南紀白浜から中紀の御坊市まで日帰りで行ったことも何度かあった。
そしてまた、近隣地域を無闇に走り、迷ってしまうことも度々あった。
そうした折、目にする珍しい地名をいくつも憶えたが、これらは不思議なことに、後に当地の雨乞いに関しての研究を行った際、よく出てきたように思われる。
また、その地名のいくつかとは銅鐸の出土地でもあり、それら(珍しい地名、銅鐸の出土)の関連性とは、未だ判然としていない。
とはいえ、やはり何かしらの関連性があるのではないかと今でも考えている。
以上のような経験、経緯により、当地の歴史、文化に対し漠然とした興味を抱き、それらに関する書籍を能動的に読みはじめた頃、東京の事業所への転勤の辞令を受けた。
当初望んでいた東京への転勤がこの時期に為されることはなかなか皮肉なことであった。
そして、東京転勤の後も、この思いは終息することはなく、また当時実家近くにいたこともあり、以前より相談に乗って頂いていた方々に会い、そうした思いを述べ、相談し、やはり、かねてよりの望みに従い大学院に進学した方が良いのではないかと考えるに至った。
この時、相談に乗って頂いた方々は、特に賛成、反対することもなく、ただ、その方法に対して具体的な質問をするのみであった。
ただ、この時兄が、それまでの経緯を知ってくれていたことから、賛成してくれた。
その後、会社を退職し、必要であると思われる勉強を行い、いくつかの大学願書を入手し、必要書類を作成、入手し院試に望んだ。
また、この時期は幸いなことに、丁度、会社勤務時代に貯めていたものの価格が急騰をはじめた時期でもあり、これによりおおいに助かった。

受験した大学院は全て関西、近畿圏に立地するものであり、それぞれの先生方に事前に連絡を取っていたが、その感触とは、よく分からないものであった。

そして、結果的に二つの大学院に通り、このうちの自身が研究を望む地域により近い大学の方が良かろうと考え、そちらに進学することにした。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本での大地震、そして昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」


2016年10月23日日曜日

20161023 もう一人の師匠について P51 兵器開発 武器貸与法

昨日投稿の「輪読会」についての記事は投稿翌日のわりには多くの方々に閲覧して頂いた。これを興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さて、本日はそれとはまた別にお世話になった師匠について記そうと思います。
この師匠との出会いは大学3年生の頃であり、その頃の私は体育会運動部に属しながら、一方において様々な書籍を無軌道に読んでいた。
こうしたことは部活内ではあまり知られず、評価もされず(当たり前ではあるが)そうした行動を知っている部員の方々は殆どいなかった。
それ故、当時の私の無軌道な読書を知っていた感づいていたのは、主に部活動以外での知人であった。
そうした知人の一人に誘われ、新しく着任してきたという教員(師匠)の研究室に行ってみようということになった。
この教員(師匠)は、それまで海外の大学に長く留学されていたということであり、今回の着任がはじめての就職ということであった。

知人に連れられ、研究室に入ると文系大学教員研究室の類例にもれず大量の和洋の書籍が書棚、机上を問わず置かれており、また、それと同時に、これまた大量の軍艦、戦車、飛行機などのプラモデル、クラシック音楽のCDがいくらか整然と室内各所に置かれていた。

これまでにそうした教員にお目に掛かったことはなかったため、興味を示し置かれてあった一つのプラモデルの飛行機を興味深げに眺めていると、おもむろにこの教員(師匠)が
「君、**君といったっけ、君が見ているその飛行機の名前を知っているかね・・?」と尋ねてきた。

その話口調はいくらか甲高く、明瞭ではあるが多少早口気味であった。

それ故、再度その飛行機のプラモデルをよく見ると、その塗装は典型的な第二次世界大戦欧州戦線におけるイギリス空軍のそれであったことによりホーカー・ハリケーンあるいはスーパーマリン・スピット・ファイアではないかと思われた。

しかし、その主翼の形状、胴体下部の特徴的な丸みを帯びた張り出しから、それは同時代のアメリカ軍の機体P51ムスタングであることが分かった。

それ故、この旨を質問の主(師匠)に返答すると、満足気に頷き、この珍しい塗装が為された機体の来歴を第二次世界大戦開戦当時の兵器開発事情、国際情勢から説明され、結びのコトバとして「こうした一つの兵器からもまた、当時の国際情勢あるいは近現代史の一幕を理解することが出来るのです。」といったことを述べられた。

そのハナシは大変興味深く、また私としては、この教員(師匠)が一応満足して頂く程度の返答をすることが出来たことに大変満足し、そのためか、その後、折を見てはこの教員の研究室に足を運ぶようになった。

また、時代が良かったのか、当時はこうしたことも大目に見られていたようであり、師匠が講義に出ている間、私が研究室で読書をしているということも度々あった・・。

そして、部活も引退する時期になると、この傾向は一段と強くなり、ついには大学院に進学し、さらに欧米の文化、歴史について勉強、研究してみようと考えるに至った。

また、幸運なことに、当ブログにて何度か取り上げているように、ごく親しい親戚の一人(これもまた師匠)が文系学問分野にて大学教員の職に就いていたことから、この願望を打ち明けたところ「それはいい考えであると思うけれども、とりあえず何年か社会に出て働いてみて、それでも大学院に行きたければ、その時に行けば良いと思うよ。」と云われ「なるほど、そういうものか。」と納得し就職活動を行い企業に就職した次第である。

しかしながら、この影響とは、その後も尾を引き生き続けたようであり結果として5年間企業にて働いた後、大学院に進学することとなった・・。

とはいえ、この間に生じた大きな変化とは、専攻研究分野に関してである。

そのことについては、以前ブログ記事にて記したが、次の機会に改めて記そうと思う。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念いたします。

2016年10月22日土曜日

20161022 輪読会について・・

昨日のブログ記事にて記した「輪読会」にて想起することは、歯系院に在籍以前、文系の修士課程在籍時に受講した英語科目が経済学関連の英論文、雑誌を用いるそうした形式であったこと、また、それとは別に院生有志にて岩波文庫版のマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の輪読会を夏の暑い盛りに行ったことである。

その後、この私的な輪読会の形式が進化し、院生有志が自身の行っている研究内容を講義形式にて各々発表しあう研究発表会が行われるようになった。

そして発表の後、学食や図書館前、近隣の喫茶店などで、各発表内容に関しての議論が行われるのであるが、私個人としては、こうした全く私的な集まりにて行われた方が、より自由であり面白かったように思われる。

しかし一方、この場合、問題であったのは、議論によって生じる意見の対立の際の裁定、調停を行う存在がいないということであった。

そうした場合、議論の主題に詳しいと思われる教員の研究室にご意見を伺いに行っていた。

大概の場合、オフィスアワーでないにもかかわらず、快く対応して頂けたと思う。

そうしたことからか、後に、この集まりは教員有志のご参加により、半ば公式化し行われるようになったが、それもまた概ね自由な雰囲気にて行われ大変勉強になった。

私が文系学問、特に思想関連に関して多少なりとも分かったようなことを記すことが出来るようになったのは、この研究発表会に拠るところが大きい。

また、鹿児島在住時においてもこうした集まりに参加させて頂き、就中2012年初秋に開催されたそれに参加した際の私とはD2病の一番勢いのあった頃ではないかと思われる・・。

この時発表、報告した内容は、過去から現在に至る歯科材料の概容、およびその歴史であり、それに加え、和歌山ということもあり、銅鐸を絡めて発表・報告した。

また、その際、前置き・緒言として文系らしくトーマス・マン著の「魔の山」からの一節を抜粋引用した。

また、このことは以前ブログにて記した記憶があるが、その翌年に公開されたジブリアニメにおいて、伏線として、この著作が存在したことには多少驚かされた・・。

ともあれ、こうした自身の知性、直観を練磨することの出来る集まりとは、なかなか大事であり、おそらく創造性なるものとは総じて、こうした「場」において発生するのではないだろうか?

しかしまた、こうしたこと(創造性の由来、発生の機序)とは、大事であるにもかかわらず、科学的には、あまり解明されていないのではないだろうか・・?

あるいは、こうしたことを解明してしまうと、創造性自体が創造性のない味気のないものと認識されてしまうおそれがあるため、解明はされても発表はされにくいものであるのかもしれない・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さる熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震による被災地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。




20161021 2009年4月初め頃の記憶から・・

A「2009年4月初旬、はじめて指導教員となる先生(師匠)の研究室を訪ねた。

それまでに師匠の執筆された論文、レビューなどはいくつか読んでいたが、それらの文体とは、いずれも典型的な理系論文のそれであり、そのことから随分とカタい人柄を勝手に想像し、若干緊張していたが、実際にお目に掛かり、そのおハナシを伺うと、若干甲高いともいえる、特徴的な関西弁を話される、気さくな御人柄であり、その書かれた文章、文体とのギャップに当初いささか驚いた。

しかしながら、現在になり考えてみると、こうしたことは特に研究者などでは珍しくないと思われる。

また、その研究室、講座周辺とは、多くの理系研究室がそうであるように、一面の壁に学会発表にて用いたポスターおよび得た賞状のコピーなどが掲示されていた。

さらに、それらの多くが英語にて記されていることに対し驚きと共に強い不安を感じたことを覚えている・・。

そして講座の教職員、在籍、修了院生の方々を紹介され、講座内に机、椅子およびPCを貸与支給して頂いた。

また、同時に師匠より「毎週水曜日、朝8:00より英語論文の輪読会を行っているので出席するように」との指示を受けた。

現在輪読中の論文は、以前より出席されている修了院生の方から速やかに頂き、また現在読んでいる箇所も教えて頂いた。

この時は正直なところ、大変緊張したが、少し間を置き冷静に考えてみると「何も理系の論文であるから読めないこともないはずではなかろうか・・」と考えるに至った・・。

その理由とは、一応私も文系のそれであれば、修士課程在籍時、この輪読会の形式と類似した講義をいくつか受講しており、特にそこで困ったという記憶もなかった。

さらに、その時期において、参考文献として英書を幾つか(自己流に)読んでおり、また、留学生との会話、コミュニケーションにおいて特に困ったという記憶もなかった。
といったところである。

しかし、そうはいうものの、やはり、この緊張は全く無くなるものでもなく、院の講義や講座内の様々なことを覚え知るのと並行し、自分なりに念入りに予習を行った(つもりであった)。

そして訪れた次の輪読会にて順繰りに周囲の出席者が読み、それを和訳していき、師匠が註釈を加え、ついに私の番となった時はやはり大変緊張していた・・。

とはいえ、意識して、これまでに行ってきたそれとほぼ同様の調子にて音読、和訳を行ったところ、特に場の雰囲気も急変せず、概ね「・・まあ、いいだろう」といった感じであった。

その後、実験室にて実験、作業などを行う際、その合間にて輪読中の論文そして辞書を持ち込み、その読解を行うことが徐徐に習慣となっていった。

とはいえ、こういしたことは全く珍しいことでもなく、多くの研究室の院生達が同様のことをしているものと考える。

そして、これがおそらく、文系学問の研究を行う院生達と大きく違うところではないかと思われる。

つまり、この違いとは、手作業の合間にて論文読解を行う理系、それに対し概ね研究室、図書館といった環境にて読解等の研究を行う文系といったところではないかと思われる。

また、後になり考えてみると、自身の場合、前者のそれであったことが本当に良かったと思われる・・。

さらに後になると、学会発表前の一人予演をも実験室での作業、実験の合間にて堂々と行うようになっており、これを異言すると、立派なD2病となっていたということである・・(苦笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる熊本の大地震そして昨日の山陰東部にて発生した地震による被害、そしてその後の種々復旧活動が速やかに為され、復興されますことを祈念しております。」






2016年10月21日金曜日

20161020 岩波書店刊 野上彌生子著「迷路」上巻pp.319ー322より抜粋引用

「省三は幅のある机に身を乗りだして窓をあけた。生ぬるく潤んではいって来る夜気には、酒の香がほのかに漂うた。
これは家の体臭といってよかった。
それを発散させる酒倉は、下の石畳の空地の三方を取りかこみ、厚い壁と、ほんの覗き穴ぐらいの小さな窓で、城砦めいて並んでいた。
省三に父祖の古い家に帰っていることを端的に思い知らせるのは、これらの重々しい建物と酒に匂う空気であった。
父親に似てか進んでは飲む気もしないのに、場合ではいくらでも飲めて、赤くもならず、かえって蒼ざめて眼がすわって来るだけなのは、赤ん坊から酒のかおる空気よりほかには呼吸しなかったためかもしれない。
その意味ではまた乳の香にも等しかった。省三は小鼻をふくらませ、それを嗅ぐことで、子供時代の家にまつわる追想に意識的に耽ろうとした。考えまいとするひとのことから、乱れる情念を引き剥ぐには手近く、便利な方法でもあった。
九月にかかると、田舎から背中の両側に重い俵をつけた馬が、店から内所のまえの通路を抜け、それの奥まった拡がりなる下の石畳の空地に毎日曳きこまれる。
俵のなかみはまっ青な渋柿である。酒倉の端に設備された臼場の、一列の古めかしい足搗の石臼で挫かれる若い渋い果実が、梯子でのぼる大桶に投げ込まれ、酒袋をそめる大切な染料としての渋の自家製造がはじまるのが、醸造場の行事の幕開でもあった。
日増しに透明に冴えていく秋陽は、石畳や酒倉の屋根の一部にもあるコンクリートの乾場に鱗のように並べられ、染め返されるたびに渋いろを深めて行く長方形の麻袋と、酒倉の白壁との映りあいを鮮明にする。当分渋の匂がぷんぷんして、こぼされた液が、黒ずんだ血に似た斑点を石畳に撒くのもこの頃である。しかし樽屋がはいって、親桶の箍の締め直しがはじまると、渋の臭気は、鋭利な包丁の切先でぱりぱり音をたてて割られる太い真竹の、甘青っぽい匂に変る。
また大阪からとどく吉野杉で新桶がつくられる時には、酒の芳醇を増すとされているその木肌特有の香気が、かんな屑の一片にも漂い、これも梯子乗で、えんやさ、えんやさと、大槌を振う樽職人たちの掛声まではずみわたって聞こえた。
実際これ等のまっさらな親桶が、角力の横綱めいてふとぶとした青竹の大箍で、淡紅いろの胴体を幾段にも締めあげられた出来上がりは、どっかりと目ざましい観物であった。親桶が石畳に現れだすと、小学生の省三は仲間を引きつれて這いこみ、いくら叱られても、内側からを輪廻しのようにごろん、ごろん、させておもしろがったものであるが、新桶だけは流石の悪童たちも憚った。
敢えて犯そうものなら、仕込米を積みこんだ米蔵の中での戦争ごっこと同じく、老杜氏に大目玉を喰わされるのである。
主人の治右衛門でさえ「おやじどん」で、決して呼び捨てにはしなかったこの老杜氏は、もう四十年からの奉公人で、彼に劣らぬ年期を入れている弥吉番頭と並んで、店と酒倉を分権的に支配していたので、奥の小わっぱなど孫扱いであった。臍の下に猪口がのるのが自慢で、時々やって見せた彼の毛むくじゃらの偉大な布袋腹と、毎朝くばって来たひねり餅の味が、省三の記憶には切り離されない連関をもっている。
このひねり餅で、倉はいよいよ酒の仕込みがはじまったのを子供の省三は知る。またそれは米の蒸れ工合を見るために、酒屋だけで作られる特殊の餅であることもわかっていたが、どんな方法で拵えられるかは、白い米がどんな過程で酔う水に変ずるか、わからないと同じにわからなかった。そのほか酒倉のことは、昼でも場所ではまっ暗なのと、容易に人の立ち入りを許さない拒否で、一種神秘めいた蔽いに包まれていた。それに店と倉とは地球の東西に似ていた。酒醸りのおもな作業は、店の商売とは反対にほとんど真夜中に行われるからである。長い頑丈な鎖つきの大戸が、がら、がら、がちゃんと閉ざされて店が眠り、内所に集まって、雑巾さしやつぎ物の夜なべをする女中たちも寝てしまい、鼠の渾名のある小男の、眼っかちの不寝番の爺が、拍子木を叩いて廻りはじめる頃、倉は活動を開始する。表側がおきて働いている時、裏側は眠っており、それがおきだすと表側が眠る、というわけで、このずれちがいが酒倉の中の生活を一層隔絶させ、子供の幼いこころには怪しく、不可知なものに感ぜられるのであった。」


迷路」上巻

ISBN-10: 4003104927
ISBN-13: 978-4003104927

2016年10月20日木曜日

20161019 少し酔った状態にて記しております・・。

A「本日は若干帰宅が遅くなりました。

また本日に関しては「ブログ記事の作成は止めておこうか・・。」とも比較的強く思いましたが、とりあえず何かしら書いておこうと思い、ついさきほど記しはじめた次第です・・。

さて、本日は以前いや現在もお世話になっている歯科理工学分野の先生二人とお目に掛かることになりましたが、久しぶりにこうした空間に身を置くことになりますと、不思議なことに以前の記憶が比較的鮮明に甦ってくるものです・・(笑)。

おそらく人と会うこと、そしてハナシをすることとは、記憶および精神の減退を防止する大きな要素ではないかと思われました・・。

また、そうした意味において、これまで記し続けているこのブログ記事もまた、同様の効果を持っているのではないかと思われます。

とはいえ、ハナシを戻し、これまで同じ研究分野(歯科理工学)であるにもかかわらず、あまり接点のなかった先生方が一堂に会する機会を設けることが出来たことは、少なくとも悪いものではなかったと考えます。

こうした狂言回し的な役回りとは、正直なところあまりキライではありません・・(笑)。

そしてまた、それが以前に自身が身を置いた研究分野に対して現在行うことの出来る僅かばかりの貢献ではないかとも思われます・・(苦笑)。

そういえば、ハナシは変わりますが、昨日記したブログ記事は、どうしたわけか、投稿翌日であるにもかかわらず、その閲覧者数が思いのほか多かったことは、多少不思議に思われます。

あるいは、これは先日来「はてなブログ」に記事を投稿していることに因るのでしょうか・・?

いずれにしましても、私の記したブログ記事を閲覧してくださる方々が多いことは、大変嬉しいことであり、よろしければ、こちらのブログであれ「はてなブログ」の方であれ、「★」あるいは「+1」を押して頂けますと、大変励みになりますので、僭越ではあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします(笑)。

また、本日に関しては久しぶりにお酒を飲んだことにより、何といいますか、頭の中で心理学でいうコンステレーションのようなことが生じていることが認識されます・・(笑)。

こうした気分とは、なかなか悪くないものではありますが、同時に多少フワフワしており、ある程度硬質の文章を記す場合においてはあまり適していないようです・・(笑)。

こうした状態にて記すのに適した、脳裏に浮かびやすい文体とは、私の場合、おそらく詩、短歌?のようなものであり
実際のところ
「秋の宵 右手に見ゆる 牛ヶ淵 月に照らされ 水面は映える」
「神無月 月陽は照らす 牛ヶ淵 神はなけれど 水面煌めく
「千代田にて はじまり興る 歯科医学 神無月とて 話ははずむ」
といった、よく分からないものが、困ったことに比較的スムーズに出てきます・・(苦笑)。

そして、このまま書いていきますと、おそらく変なことになりそうですので、本日はこの辺りで止めておきます(笑)。

とはいえ、本日もここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

さる四月の熊本における大地震にて被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。」


2016年10月18日火曜日

20161018 吸気と呼気のように膨張、収縮する精神・・

A「つい先日作成、投稿したブログ記事により総投稿記事数が450に到達しましたが、現在においてもこれといった内外の変化などは認められず、また、それと同時にかつてほど記事作成に窮するということもありません。

そして、そうした心境、状態にて本日も記事を作成しております。

とはいえ、やはり一日働いておりますと精も根も疲れるようであり、また、それが平日の記事作成の場合、通常の状態ではありますが、そうした疲労感の中で本日もまた記事作成を行っております・・(苦笑)。

しかしながら一連のブログ記事を閲覧しておりますと疲労感の中で作成したものと、そうでないものの間では特に大きな相異とは認められないのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

そして、これは作成者の文章作成の才能の乏しさを示しているのか、あるいは、その進歩を示しているのかは、よくわかりません・・願わくは後者であらんことを望む次第ではありますが、こうしたものは自身のみで判定することは多少危険なことではないかと思われます・・(苦笑)。

そして、そうしたことと多少関連があるのではないかと思われますが、以前読み、また、これまでのブログ記事においても幾度か抜粋引用した夏目漱石著「三四郎」内の記述、主人公三四郎と広田先生との会話にて「我々の住む世の中とは、偽善的、露悪的の両思想が主たるものとして、それら交互の変化、交代にて進行していると考えて差支えない。」といったものがありましたが、これを現今の首都圏に当て嵌めて考えてみますと、おそらく後者の色彩が強いのではないかと思われます・・。

そして、これを異言すると、露悪的つまり強者、膨張、男性的な思想、発想が現今の首都圏において優位を占めているのではないかということになるものと思われます。

また、こうしたことは歴史上の事物、遺物について考えてみても、あるいは看取することが出来るのではないかと思われます。

それはたとえば巨大化した銅鐸、銅矛、古墳、そして近現代であれば19世紀末から20世紀前半における大艦巨砲主義などがそうした強者、膨張、男性的思想あるいはそれが優位を占める時代精神を示しているのではないかと思われます。

しかし一方、我々日本人とは「何でも小型化したがる」といった心的傾向を持つなどとも云われておりますが、これにさきのことを加味して考えてみますと、それは時代精神の一面のみにおいて云えることであり、実際のところ、我々の精神とは、時代により、事物により、種々様々な膨張、縮小双方の嗜好を示すのではなかろうかと思われます・・。

あるいはまた、それをさらに視点を変えますと、時代精神における躁、鬱双方の傾向を示すのではないかとも思われますが、さて如何でしょうか・・?

とはいえ、本日のブログ記事にて、こうしたことを主題として記す背景について考えてみますと、その根本とは、作成者の能動性ではありますが、それと同時に本日お話しを伺った歯科医師の方との対話もまた一つのそれ(根本)ではなかろうかとも思われます・・。

そして、そこ(このブログ記事)から本日私が伺ったハナシおよびそこで為された対話の概容を想定してみるということは、現時点においては時間的に近すぎることにより困難であり、おそらくこうしたことは、以前さかんに作成した対話形式のブログ記事のように、ハナシ、対話の後、ある程度時間を経てからでないと、うまく捨象し対話形式の文章と成すことが困難であるののかもしれません・・(笑)。

しかし、そうであるからといって、それ(直近のハナシ、対話)が現在そして未来においても無価値であると断ずるのはナンセンスであることはご理解頂けるのではないかと思われます。

とはいえ、現今首都圏において優位を占めていると思われる強者、膨張、男性的思想に拠ると、そうしたもの(直近のハナシ、対話)などは、無価値に近いものであると判ぜられる傾向があるのではないかとも思われます・・。

そしてこうした傾向とは、一体どこに由来しているのでしょうか?

一方、こうしたもの(時代精神)とは、時代が生む多くの文物に対し影響力を持ち、そしてそれらが現今の我々よりも賢明且つ客観的であるかもしれない後世の人々により鑑定、評価されることを忘れてはいけないのかもしれません・・(笑)。

ここでは「近視眼的」というコトバがキーワードになるのかもしれません・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの今後の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。」

20161017 2009年3月末~4月初頭のこと

おかげさまで450記事目の投稿となる昨日、1日の閲覧者が1000人に到達しました。

また、ここ最近、2回にわたり記した鹿児島についての記事は思いのほか閲覧者数が伸びましたので、いかなる要因であったか分かりませんが、少なくとも全くツマラナイものではなかったのかもしれません・・(笑)。

それ故、今後も折を見て、こうした形式にて、この周辺のことを少しづつ記してみようと思います。

しかしながら、さきの鹿児島での記憶を題材とした2記事は、これまでのブログ記事とは多少文体が異なり、不思議なことに、あの時期(2009~2013)の出来事を記す場合、あの少し硬質ともいえる文体にて記述する方がスムーズに文章が湧いてくる感じがするのです・・(笑)。

こうしたことは案外、単なる迷信や笑い事でもなく、実のところそれ(文章が湧き出すための心の構え?)が文体なるものを構成する極めて大事な要素ではないかとも思われるのです。そして、それを念頭に置き早速もう少しこの時期のことを以下に記してみようと思います。

「歯科技工学校を卒業し、鹿児島に移り住んだのは2009年の3月末であった。正直なところ、この進学とは、あまり周囲に喜ばれるものではなく、ただ、当時臨床研修医であった兄、そして松山に在住していた叔父がこれに賛成してくれていた。また私の方も叔父に出発前に「機会がありましたら鹿児島からそちらに遊びに行きますので、その時はどうぞよろしくお願いします。」といったアイサツを電話口にていささか興奮気味にしていた・・(笑)。兄の方は技工学校以前の和歌山在住時より何度か訪ねてきてくれていた。その際、自動車にて紀伊半島の古墳を2日かけて廻ったこともあった。
ちなみに兄の古代、就中、古墳時代に対する興味および、その材料となった諸書籍を薦めていたのは概ね私であり、また、そのように考えてみると割合子供の時分から私は書籍に関しては兄の案内人のようなものであったともいえる・・。
ハナシを戻し2009年の3月末に鹿児島に向け発った私は鹿児島着後当初数日は入居予定のアパートが契約日程の都合にて入れず、仕方がなく市内のビジネスホテルにて宿泊するうちに4月となった・・。入居したアパートは大学の近くではあったが、大学の立地自体が周辺市街地と多少隔たった丘の上であったため、何らかの移動手段は今後必要になるであろうと感じた。そして当初必要な家財道具等を近くのホームセンター(しもんそマルヒラ)にて購入し、それらを抱え昼過ぎ頃バスにてアパートに帰る際、不図、何ともいえない強烈な郷愁をおぼえたことを思い出す。しかし、そうした感傷的な心情は一時的なものであり、家電の設置、到着荷物の荷ほどき、整理などに追われ、それが一段落する頃には夕刻となっていた。当時はそれまで首都圏に在住していた為か、そのままアパートにて大人しく過ごすという考えに至らず、再度バスにて市街地に下り、市電に乗り鹿児島中央駅(西駅)まで出かけた。4月はじめの鹿児島市街は同時期の首都圏に比べると明らかに温暖であった。私は鹿児島中央駅周辺をひとしきり散策し、駅ビル上階の映画館にて当時上映されていた1944年のヒトラー暗殺計画を映画化した「ワルキューレ」という作品をレイトショーにて鑑賞した。しかし、よくよく考えてみると鹿児島着数日目に観た映画が「ワルキューレ」であったことは、その語源である北欧神話の女神の役割について考えてみると、多少こじつけ気味ではあるが、なかなか感慨深いものがあるともいえる・・(笑)。そして、その翌日は初めて大学に顔を出す予定の日であった。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。





2016年10月16日日曜日

20161016 450記事到達、および先日のノーベル文学賞に関連して思ったこと

A「本日の記事投稿により投稿記事数が450となります。

これは一つの区切りとなるのではないかと思われますが、しかし同時にこれは次の500記事への一区切りといった認識の方が適切ではないかと思われます・・。

そして、このようなことを記しますと、否応なく500記事までは記事を書き続けなければならないという認識(強迫観念?)が生じてきます(苦笑)が、これを異なった視点より考えてみますと500記事を全体として考えた場合、現在450記事にて、残りの50記事とは、これまでのブログ記事作成に費やした労力の9分の1程度にて到達可能であるということになります。

その場合、これを継続し500記事まで到達した方が自身の内心、精神にとっては良いとも思われますので、これまで以上にあまり無理をせず、途中休みも設けつつ継続するのが上策ではないかと思われます。

そして具体的には年内に500記事に到達すれば、とりあえず良いということにします・・(笑)。

しかし一方において面白いと思うことは、ブログ記事作成とは継続して行うことにより、それこそ継続することが出来ているのではないかということです。

これはよく分からない禅問答のようですが、おそらく実際に文字通りの意味です。

つまり、何か文章の主題となるものを胸中に持っているのであれば、即座にそれを適当な形式にて文章化することが出来るというわけではなく、むしろ我々とは一般的に、常時そうした主題をどのようなものであれ持っており、それを発信、発表する形式の方に関しての方がむしろ不慣れであり、そのため、常時ともいえる、ある程度の発信、発表の練習、修練の方が「より」必要ではないかということです・・。

そして、その一つの方法、形式がブログであるといえます。

少なくとも、現在の私の場合はそうであると考えております。

また、それに加え、ブログという不特定多数に対する発信、発表により、当初思っていた以上の閲覧してくださる方々がいることにより一層トルクが強まり、記事数増加(新たな記事作成)の推進力が増したものとも考えております。

人間のこうした精神、心情とは単純且つなかなか面白いものであり、もしこれ(ある程度の閲覧者数およびその経時的増加)がなければ、記事作成の継続を途中にて断念していたものと考えます。

それ故、450記事という一応区切りでありますので、これまで興味を持って読んでくださっていただいる皆様、どうもありとうございます。おかげさまで、450記事まで到達することが出来ました。

また、ここまで記していして不図思い起こしたことは、先日のノーベル文学賞の受賞者発表にてアメリカ合衆国のミュージシャンの方が受賞されたことです。

ちなみにこの方の有名な一曲は、以前(約半年前)、私のブログにてその演奏動画(モノクロ)が共有されておりました・・(笑)。

またミュージシャンが文学賞を受賞されるのは特に問題ではなく、それでしたら、たしかイギリスの高名な政治家が同じ賞を受賞されておりました。

これは当時のイギリスでは面白いハナシのネタになっていたそうです。

その内容は「この政治家がノーベル平和賞ではなくて文学賞を受賞したということはなかなかアジなことをする。」といった感じではなかったかと思われます・・。

とはいえ、ハナシを戻し、さきに示した楽曲の歌詞とは、もしかすると、私のこれまでのブログ記事作成においても多少は類似した要素があるのではないかと思われました・・。

ちなみに、この楽曲とは、大分前に観た映画「フォレスト・ガンプ」にて知り、また師匠(歯科理工学)が好んでいたものでもあります。

たしか学会にどこか(東京であったように思われる)へ出向いた際、師匠が私を含め弟子共数人と昼食にて学会場近くのレストランに入った折、どのような経緯であったか忘れてしまいましたが、この音楽家のハナシとなり、突然、師匠がこの楽曲の一節を英語にて歌い出されたことが大変印象的であり憶えております。

そして、このことを記しますと、今度は福岡在住時、地下鉄博多駅のホームにて電車待ちの際、その時話していた大学院生(留学生)の方がハナシの流れにて出てきた日本のある楽曲(童謡)を突然歌い出されたことをも思い起こされます・・。

おそらく場合にもよると思われますが、それらの場合に関して、私は特に不自然、不愉快なものであるとはまったく感じませんでした。

ハナシの流れ次第では、こうしたこともまた、あるのではないかということです・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した地震によって被災された地域での諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」


Blowing in the wind



2016年10月15日土曜日

20161015 はじめての鹿児島訪問2008

「2008年夏過ぎに院試のために鹿児島を訪れた私は、修士課程での友人であり、実家が鹿児島であるBとも久しぶりに会うことになった。
Bは地元の企業に就職し、当時はたしか国分、隼人方面に住んでいたにも関わらずわざわざ出向いて来てくれた。
当日の昼過ぎ頃には既に院試を終えていた為、その時は特に緊張する要素はなかった。
待ち合わせの場所は天文館の電停交差点であり、この時は多少私が早く着いていた。
市電が電停に着きBが下車してくるのが見えたので、声をかけ、手を振ったところ、Bの方もすぐに気づいた。
Bと会うのはさきのAと同様、修士課程修了後以来であるので、かれこれ1年半ぶりであった。
そして天文館にある霧島方面にて本店を構える地元で有名な焼き鳥屋(関東のそれとはニュアンスが異なる、どちらかというと鶏肉に特化した焼肉屋と考えた方が良い。)に入り、美味しい鳥を十分に御馳走になった。
Bは食べながらさかんに「どうです、美味しいでしょう?」と聞いてきたが実際、それは大変美味しいものであり、且つ面白いことに、このお店の霧島にある本店にはその後何度も足を運ぶことになり、後に鹿児島に訪れたAを案内したのもこの霧島のお店であった。
それらの起因とは、このはじめての鹿児島訪問時にあったことをこれを記していて気付いた。
その後、同じく天文館にある鹿児島名物「白くま」を食べさせてくれるお店に入り、これもBから御馳走になった。
この本家本元の「白くま」とは具材(主にフルーツ)のたくさん入った巨大なかき氷のようなものであり、たしかに夏場にこれを食べれば涼しくなること請け合いであろうと思われる。
また具材が種々入っていることより、比較的量が多かったにもかかわらず最後まで飽きが来ないで完食することが出来た。
とはいえ、食後のデザートとしてはかなりの量であったことをも思い出される。
あるいは通常これはカップルが二人して食べるようなものではないだろうか・・?
ともあれ、このお店には閉店までいて、ここでも色々と近況や思ったことを駄弁っていた・・。
久しぶりに知人に会い話すことになると、私はどうも勢いに任せて色々と語ってしまう傾向があるように思われる。
しかし、それはおそらく何も私のみならず、さきに出たAなどは、私などよりかなりいい線を行っているのではないかと思われるのだが・・。
そして夜半過ぎにBと別れ翌日帰郷した。
その後の技工学校では相変わらず講義、実習に追われる毎日であり、且つ秋を過ぎると国家試験の準備などで更に忙しくなっていった。
とはいえ、この当時は分からないことがあると周囲の歯科関係者に容易に聞くことが出来たため、環境的にはかなり恵まれていたのではないかと思われる。
修士院生の頃は分からないことの調べ方も分からず、またインターネットからの情報をあまり信用せず、専ら実地調査、図書館、書店などに拠って、分からないことの意味を泥縄式に調べていた・・。
しかし、この分からないことを足を使い、体を動かし調べるといったことが案外大事であったのではないかと現在になっては思われる。
とはいえ、それはある明確な調べたい目標の情報を直線的に得るといった性質のものではなく、得られた情報が当初企図していた意味、傾向を持っていなくとも、それが「確からしい」ということにより、その次の思考段階に移行してゆくといった計画性が立てにくい性質のものであり、おそらく総じて科学とは、本質的には、そういったものではないかと思われる。

たとえ最終的には大きな企図する目標があったとしても・・・。

その意味において現在世間に流布している様々な事物、利器とは、こうした科学の成果に基づいたものが多いと思われる一方、さきに記した「自らの足を使い、体を動かし調べる」といった要素が昨今の情報機器の進化発展によって、その本来の価値、意味が軽視せられているのではないかとも思われる。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」



2016年10月12日水曜日

20161012 2008での出来事を思い起こして・・

これまで仕事にて何人もの歯科医師の先生からお話しを伺っておりますと、時折それらをベースとして不図「何かモノガタリでも書いてみようか・・」と思うことがあります・・。

私はこれまでに創作部分が多いモノガタリ的なものを作成したことがないため、特に自信といったものはありませんが、一方、伺ったお話し、自身が経験したことを統合、整理することにより、何かしらモノガタリに近いものは創作することが出来るのではないかとも思います・・。

そして、モノガタリの題材とは基本的に2009~2013の自身の経験が適当であるのではないかと思われます・・。

「2008年4月、私は**歯科技工専門学校の2年生に進級していた。
そして同月の後半、大学院博士課程(経済学)に進学し、同じく2年生となっていたAが学会にて東京に訪れたことを電話にて知らされ***で約1年ぶりで会うことになった。

その日は幸いなことに実習が比較的早く終わり、急ぎ待ち合わせをしていた***駅に向かった。

***駅に着くとAは既に待ち合わせ場所に到着しており、連れ立って近くの喫茶店に入った。

Aと会って話をするのは修士課程修了以来はじめてのことであり、現在彼が行っている研究、勉強、読んでいる書籍のことなどで大分ハナシが盛り上がった。

この時、修士院生当時と変わらずに手振りを交え話していたAの手がテーブルの上に置かれていた水の入ったコップにあたり、水がテーブル一杯に広がるほどにこぼれたが、Aは途切れることなく話し続け、また私もそのことに特に気を向けることなく話しを聞き続けていた・・・。

この時話していた内容とは、彼の専攻としている経済学者についての新しい発見、知見のタネとなりそうなことであり、また、同時にそれはAの修士院生当時の研究からの継続、発展したものであったため、ほぼ1年振りであったにもかかわらず、特に理解できないということはなかった。

また、私の方も修士課程修了後も継続的に文系学問の著作を読んでいたことによってか、どうにかAの話しについてゆくことが出来たのかもしれない・・。

とはいえ、この時、Aの研究内容の話しよりも、私が大きく興味を示したのは、現在Aが在籍している大学院博士課程での具体的な研究生活のことであり、これは当時歯科技工学校にて手を用いるさまざまな実習に明け暮れていた私にとって、かなり好奇心を抱くに値するものであり、別れ際に近い頃、私はAに向かい「私は現在歯科技工学校に通っていますけれども、ここを出たらいずれ博士課程に行きます!」と宣言したことを覚えている・・。

今回もまた、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。


さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。

2016年10月11日火曜日

20161011 言語、語彙体系の相異から感じること・・

A「本日も比較的長距離を歩いて移動したと思います・・。

また気温もこれまでに比べ若干涼しくなり、日中の気温も以前の夏日(30℃超え)ほどはこたえなくなりました。

さて、本日投稿分のブログ記事に関しましても、これまで通り今現在に至るまで、特に主題、テーマを定めておりません・・(苦笑)。

そういえば、昨日投稿の記事において北杜夫著「楡家の人びと」に関して少し記しましたが、その後調べてみますと、この著作に関しては英訳版が存在するようです。

これは原書(日本語)を読了の後、機会があれば是非読んでみたいと思います。

とはいえ、北杜夫といえば個人的な見解として以前もブログ記事にて記しましたが「どくとるマンボウ」シリーズを英訳にて刊行してみましたら、なかなか破天荒な試みであり、面白いのではないかと思われます・・(笑)。

ただし、それに対し(ある程度多くの)読者がいるかどうかはまた少しハナシが異なってくるのかもしれません・・(苦笑)。

その点やはり「楡家の人びと」とは、様々な視点から英訳版を刊行するのに相応しい著作(文学作品)であったようです。

また、英訳版の文学作品といえば、先日より大岡昇平著の「俘虜記」を読んでおりますが、それら(主に英論文)を比較的多く読んでいた時期と比べますと、やはり読むスピード、読解力が落ちていることが明らかに感じられます・・(苦笑)。

とはいえ、この著作もある程度時間をかけても、どうにか読了に至りたいものです・・。

また、英語にて書かれた小説で私が面白く感じた著作の一つとしてジョージ・オーウェル著の「パリ・ロンドン放浪記」が挙げられます。

これは岩波文庫から邦訳が刊行されておりますが、双方共に大変面白く、且つ読み易いと思われます。

加えて、この著作の内容とは、どちらかというと若い時分に読むのに適しているとも思われますので、これにより少しでも興味を持たれた方々、もしよろしければ、一度書店にて手に取り読んでみてはいかがでしょうか?

また、個人的なハナシではありますが、英語にて書かれた小説に関してここ最近思うことは、こうした著作を読んでいる間とは、不思議なことに、あまり日本語の文章が浮かんでこないということです・・。

あるいはこうしたことは、私の能力の現時点のある面での限界を示しているのかもしれません・・(笑)。

こうしたことも、今後継続的に訓練(どのような訓練であろうか?)を行うことにより、徐徐に改善されていくのでしょうか・・?

これに関しては若干興味があり、また今後行ってみる価値があるのではないかと思われます・・。

しかし、考えてみますと、こうしたことは実は言語間(日本語、英語)においてのみ見られる傾向といったものではなく、学問分野間においてもまた存在するのかもしれません・・。

このことに関しては、先日投稿のブログ記事での荒俣宏著「理科系の文学誌」の抜粋引用部から不図思うに至りました・・。

また、それと関連して我が国における様々な学問分野の進化発展に伴う分化により生じるセクショナリズムガラパゴスタコツボ化などは、あるいはこうしたこととも関連があるのではないかとも考えさせられます・・。

とはいえ、学問がより進化、専門化していくことにより、こうしたセクショナリズム、ガラパゴス、タコツボ化が生じることは、実際問題として、ある程度は仕方がないことであるとは思います・・。

そうしますと、その一方においてセクショナリズム、ガラパゴス、タコツボ化が進行するのと同時に、それを包括する考えを随時考案、検討していくことが必要になるのではないかと思われます。

そして、感覚的ではありますが、おそらく我が国とは、この作業に関して、これまでのところあまりその価値を見出せずにいるのではないかと思われます・・。

さて、これを読まれた皆様はどのようにお考えになるでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念します。」


2016年10月10日月曜日

20161010 立ち読みにて思ったこと・・

A「ここ最近はどうしたわけか、あまりブログ記事の題材が思うように浮かんできません・・。

とはいえ、毎日、何かしら記しておかないと、どうも落ち着かないため、ほぼ惰性のような感じにて、記事を書き、書籍からの抜粋引用等を行っております・・。

このうち書籍からの抜粋引用に関しては、常時何かしらの書籍を読んでいるため、特に題材に困るといったことはないのですが、書籍からの抜粋引用を行った場合と、たとえ惰性であったとしても自身の文章にて記事を作成した場合では、後者の方が何といいますか、より多くの達成感らしきものがあり、そこからまた次に繋がる力、意欲といったものになるのではないかと思われます・・。

それ故、本日の記事投稿とは、ここ最近比較的多かった書籍からの抜粋引用を以って充てようと考えたのですが、とりあえず何かしら自身の文章にて記しておいた方が、次に訪れる「文章が湧く時期の波」にスムーズに入れるのではないかと考え、こうして記している次第です(こうした考えとは案外普遍的ではなかろうか・・?)。

本日は特にどこかへ出かけるということもなく、おとなしく過ごし、近くの書店に行く程度でした。

そして行った先の書店にて先日作成したブログ記事にて記しました北杜夫著「楡家の人びと」を見つけ、しばし立ち読みしましたが、大変読み易く、おそらく次に読む長編小説は、この著作になるのではないかと思います・・(笑)。

そういえば、以前は長編小説などをたて続けに数作品読んでいた時期もありましたが、現在では年齢、あるいは環境のためか、あまりそうした無理(?)がきかないようになりました・・(苦笑)。

しかし同時に、現在は、こうした長編小説をはじめ様々な著作を読むにあたり、以前よりも精読をすることが出来るようにはなったのではないかと思われます・・。

そして、そのお蔭で何かの契機により、それら著作での記述、内容をほぼ無意識に思い起こす、取り出すことが出来るようになったのではないかと思われます・・。

また、現在このように書いておりますが、もう少し若い頃とは、こうした頭の回路が現在ほど発達していなかったのではないかと思われます(無論現在でも発展途上ですが・・(苦笑))。

そして『何時頃』こうした回路による思考(?)を行うようになった、あるいは、明瞭にそのような思考を言語化、文章化するようになったかと考えてみますと、おそらくそれは、和歌山在住時の頃ではないかと思われます・・。

また、この時期がおそらくそれまでの私の人生において最も書籍、文献を読み、多くの議論を交わした時期であると思われます・・。

そして、この時期がなければおそらく、その次に在住した鹿児島において、果たしてどうなっていたか分かりません・・。

また、和歌山以前より、ある程度学術的な書籍(分野は特定されますが)などは読むことが出来、また、そうしたことを好んでいたとは思います。

つまり、この和歌山在住時での経験がなければ、何といいますか、読んだ複数書籍内容を統合、あるいはそれらを比較した内容を言語化して人に説明し、そしてその内容を(異なる研究分野の方々に)理解、納得してもらうといった作業とは、出来なかったのではないかと考えます。

そして、この時の経験が、現在このようにブログ記事という形にて何とか継続的な発信が出来る基礎になっているともいえます・・。

また、現在継続的に作成している一連のブログ記事に関しては特に、それらを読んで頂いている方々により支えられておりますので、いわば、これは必然といえば必然、偶然といえば偶然の積み重ねにより成り立っているものといえます。

今回もまた興味を持って読んで頂いている皆様、どうもありがとうございます。

そして、今後どの程度まで継続するか分かりませんが、今後ともどうぞよろしくお願いします。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の今後における諸インフラの出来るだけ早急な復旧そしてその後の復興を祈念しております。」


2016年10月9日日曜日

20161009 445記事 偽らざる内心との調和、融和

A「おかげさまで昨日のブログ記事閲覧者数もまた1000人に到達しました。

また投稿記事数も本日の記事投稿により445記事となり、とりあえずの一区切りともいえる450記事まで、あともう一歩となります・・。
そして、現在、目標とする投稿記事数は500と設定しておりますが、450記事に到達しますと、以前よりも、この目標が一層現実味を帯びてきます・・。

これまで一連の記事を興味を持って読んで頂いている皆様、どうもありがとうございます。

とはいえ、実際のところ、500記事に到達したならば、何か良い出来事が生じるというわけでもなさそうです・・(苦笑)。

そうしますと「これまで(何となく)目標を定め、それに向かい、一つ一つ記事を作成し投稿してゆくといった作業、行為とは一体どのような影響を私に及ぼしているのであろうか?」という疑問が不図、頭をよぎることがあります・・。

そしてまた、その影響とは、果たして500記事という具体的な目標とする数値に到達した場合においてのみ、発揮、及ぼされるのであろうか?とも思うに至ります。

他方、ブログ記事の作成、投稿という作業、行為によって生じる何らかの影響とは、これまでに投稿した400記事程度により(十分)得られているのであるとすれば、今後のそれはいわば蛇足というものであり、必要ないものとして認識することも出来るのかもしれません・・。

しかしながら、感覚的なことではありますが、こうしたものは、ある数値目標を達成、到達することにより、何かが生じるというものでも、ある一定の適当な量をこなしたから何かが生じるというものでもないと思われます・・。

それは、ただ偽らざる自らの内心(無意識に近いものであろうか?)との調和、融和によって内面において何かが生じるのではないかと思われます・・。

そして、それ(内面での変化)が自身の行動、言動に変化をもたらし、結果的に外部からの要因により、何かしらの出来事が生じたように思われる、感じられるのではないでしょうか・・?
(あるいはそうしたものとして認識した時点で何かが大きく変わるのかもしれない・・。)

もちろん断言はできませんが、これまでブログ記事の作成投稿を行っておりますと、少なくとも私の場合、そうではなかろうかと思われるということです・・(あくまでも一つの仮説です・・。)。

その意味において、容易に自らの内心との調和、融和を図ることが出来る方の方が相対的にこの世間を生きていく上においては有利であるのかもしれません・・(結局それはコトバ、そしてコトバの定義の問題なのであろうか・・?)。

また、それと同時に、この主題、テーマとは以前作成投稿したブログ記事「なかなか大事なことであるかもしれませんが・・」と関連があるのではないかとも思われます・・。

そして、それをさらに長期間、数世代にわたるモノガタリとして考えてみますと、今度は「素戔嗚から菅原道真まで・・」と題した以前に投稿したブログ記事の主題、テーマとも関連が見出せるのかもしれません・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

先日来の熊本、阿蘇山の噴火による、四月に同地域を中心として発生した大地震での被災された地域の復旧、復興作業に支障がないことを祈念します。」


20161009 最近の東京にて思ったこと

A「これまでに投稿された一連のブログ記事を読んで頂いている方々は理解してくださっているとは思いますが、私は特に自信を持って一連のブログ記事を作成しているわけではありません・・。

むしろ私はこれまでに自信を持って何かにあたったということはないと思います・・(苦笑)。

しかし一方、世間一般において「何かを行うにあたり自信を持っていないとダメである。」とはよくいわれることです。

そして、他者による自信の認識とは具体的には、表面的な態度、挙措動作であったりするのですが、私が考えるに、そうした表面上の態度、挙措動作から感じ取ることの出来る自信とは、往々にして(全てではないにしても)ニセモノ(練達した虚勢)ではないかと思われます・・。

そして、特に昨今の我が国の社会においては著しく表面的な見た目が重視される傾向が存在すると思われるのですが、これは実のところ大変マズイことなのではないかと思われます・・。

そして、さらに誤解、非難を恐れずに記しますと、それは主に女性的な感性に基づいているのではないかと思われます。

そして、それに反応、対応するようなカタチで男性側に、さきに述べたような傾向(著しく表面的な見た目が重視される)が社会にて惹起され(無駄に)強化、強調されるに至るのではないかと思われます・・。

とはいえ、これは主に首都圏において看取し得る傾向であり、おそらく国内他地域、地方においては、そうした傾向とは、あたり前のように、むしろ「良からぬもの」として認識されているのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?

また、そのことと少しハナシが異なりますが、先日朝の通勤電車にて車内に設置してあるモニター(様々なニュース、広告等が流れている)を意識せずに見ておりますと、流れていた百貨店の紳士服売り場の広告映像にて外国人(コーカソイド)のモデルが様々なスーツ、コートを着てポーズを決め、ダンスを踊るものがありましたが、その最後に百貨店の名前と共に「This is Japan」と表示されておりました・・。

それを観て「さすがにそれは違うのでは・・」と思いましたが、私が思うに、昨今の首都圏、東京には、何かしらこうした(欧米的な外装の洗練を誇示する楽屋落ち的な)傾向が存在するのではないかと思います・・(昨今のテレビ番組自体、視聴率の低迷により開き直ったのか、こうした傾向が著しく見受けられるように思います。)

そして、この傾向とは、おそらく主に首都圏、東京のある程度若い年齢層の新住民の見当違いな積極性により惹起せられたのではないかと思われます(明らかではありませんが・・)。

また、こうした現象を認識し、同時に考えることは、こうしたものは明治初期の「東京」において見られた一連の流行(牛鍋、ザンギリ頭、洋服、舞踏会、建築・・)とも類似しているのではないかということです・・。

また当時(明治初期)のこうした傾向とは、たとえ軽薄であっても一国の首府として地方に対し圧倒的に大きな波及力、影響力(同調圧力?)を持っていたのかもしれませんが、様々な情報、傾向が様々な地域、地方で当時よりも容易に入手することが可能になった現代においては、そうした首府における傾向とは、ある地方においては特に参考とするべきものではなく、むしろ反面教師的なものとしてとらえられるのかもしれません・・。

それは、おそらく昨今一連の東京オリンピック開催準備に付随する出来事、築地市場移転に伴い浮上した出来事などと併せ、より強く、そのよう(反面教師)に認識せられるのではなかろうかと思います・・。

そして、こうした一連の首府機能、文化、感性の劣化ともとらえられる出来事、傾向とは一体どのような事情、状況によりもたらされたのでしょうか・・?

また、史家が指摘する江戸末期における徳川幕閣とは、その統治能力を失っていたということは、あるいは、さきに挙げた傾向、出来事とも何かしら関連があるのではないでしょうか・・?

しかし今度は、ハナシを卑近なところに引き戻し、その観察者である人間(私)が(再度)地方に移り住んだ場合、今度はまた他のことでこうした思い、考えをその地方に持つに至り、結句、首都圏を懐かしく思うことになるのでしょうか・・?

「ないものねだり」と「冷静客観的な観察の結果」とは本質的に異なるものなのでしょうか・・(笑)。

あるいは単なる「コトバのあや」であるのでしょうか・・?

とはいえ、多少飛躍するかもしれませんが、私はスマホ、マンガなどは一国の文化の成長、発展といった創造性に関しては、あまり良い効果を持たないのではないかと先日東急東横線渋谷駅の発車メロディを聞きながら不図、思いました・・(笑)。


今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域の諸インフラの早急の復旧およびその後の復興を祈念しております。」








2016年10月8日土曜日

20161008 筑摩書房刊 山田風太郎著「戦中派虫けら日記」pp.153ー156より抜粋引用

昭和十八年二月十二日の日記
『機械というものはふしぎである。
およそ人間の生んだ偉大なものの極致は機械であろう。
機械によって人は火を駆使し、水を使用し、空を飛び、地を走る。
文明とは機械化のことだといってさしつかえないほどである。
しかし人は機械によって幸福を得たか。火薬は数百人の生命を奪う。
空を飛ぶのは小鳥の快を味わわんがためではなく爆弾を以て都会を粉砕するためであり、水を潜るのは魚の神秘を探らんがためではなく魚雷を以て船を沈めるためではないか。
人間は自分で機械を生み、心血をそそいでその発達をはかり、その結果機械に苦悶している。
今の世界を見るのに、どの民族も、或いは自ら進んで、或いは国家の強権によって自由を捨て、人間を殺戮する船や航空機や大砲の製造に狂気のごとく使役されている。機械というものの典型はあのギロチンであるという印象を深めざるを得ない。
それは機械の罪ではない。戦争の罪である。機械は平和的に利用すべきものであり、それによる大量生産がなければ、人類はどうして文明生活を営むことができようかという人があるかも知れない。
しかし、平和時代といえども労働者は機械の蹂躙に喘ぎ苦しむものである。
大量生産のない時代にも人類は生存し得たのである。
昔は現代より幸福であったとはいわない。
しかし、昔は現代より幸福であったということもできない。
機械は人間の生きんがための必要から生まれたものではなく、単なる脳髄の遊戯的作用によって生じたのがその初めであると自分は断言する。
人間は機械を使用せず、機械に使用されるという自分の印象は、現在自分が働いている軍需工場の日々から、理屈を超えて感得できるものである。
轟轟と回転する車輪、奔流する巨大なベルト、噴きあがり流れる重油、塵埃と煤煙の黒く渦巻く工場の底に、たがいに一語も交わさず黙々と動き続ける工員の群れ。-機械はいわゆる機械的な動きを繰り返す。
空は晴れても鳥は鳴いても、機械は傲然索然冷然としておのれの機能をつくす。
労働者はその前に首をたれて、時たま油を与え、材料たる金属を挿入し、製品を運搬するに過ぎない。-これを以て人間は機械を使用するというのか?
この人々の姿を産業戦士の崇高なものというのか?
或いはそうかもしれない。
しかし自分の、巨大な機械に対する恐怖と小さな人間に対する同情を如何せん。
人間は、自然と芸術の中に呼吸しているのが本来の姿であるとはいわない。
機械に全身の愛情を覚えている人も多いであろう。
しかし機械と人間との間の恐るべき単調な日々は、この二者がとうてい花と人間との間に見るような柔らかで平和な光景とは映らないのである。
自分に関する限り、もし自分が一生、あの人々のように機械と相対しなければならぬ運命となったら、確実に発狂せざるを得ないであろう。

〇機械の前に甘んじて生活を捧げている人々に、一種異様の不思議の念を抱く自分は、神を信じる人々に対しても、一種異様の不思議の念を抱かないわけにはいかない。
神は果たしてあるか?
ない、と高言して心底何やら不安をおぼえるのは、自分の人間としての本性のゆえか、或いは現在に至るまでの教育のせいか知らない。しかし、ほんとうに自分の心を偽らないならば、自分の心は無神論に傾くであろう。
むろん、深夜蒼茫の銀河を仰ぐとき、過去未来、永劫に流れる時間を思うとき、またいずこよりか生れて来て、いずこへか去る人間を眺めるとき、何やら神々しきものの手を感じる。
しかしこんな大きな思想は、もとより現在の胸中に絶えず蹲っているわけにはゆかない。
自分は日常生活に於いて殆ど無信仰であると告白する。
まして世間のいわゆる怪奇な「神」に於いておやである。
人間の姿に象徴された「神」に於いておやである。
自分の周囲を見ると老若男女ーとくに若い人々は、たいてい無信仰である。
しかもこの無信仰者たちが死期迫る落日の年齢に達すると、しきりにお経を唱え、鐘をたたく愚は滑稽千万である。
それもまあ一つの善行なのだからという寛容を、自分の狭量は認めることはできない。
神を信じるならば、彼らの日常はことごとく神の影の下になければならないのに、彼らの日常はほとんど嗤うべき我利我利の狂奔である。
暮色仄かに漂い来たる一瞬時に於いて、口をぬぐって神や仏に対するだけである。
人間が神を信じるのは、俗物に関するかぎり、彼ら自身も意識しないいい気な欲望の一種である。
そして人類の九分九厘までは俗物なのである。』


ASIN: B00ETNHZMA


20161007 岩波文庫刊 野上彌生子著「迷路」上巻pp.199ー201より抜粋引用

『維新の風雲に乗じて功を成した薩摩派の顕官を父とする後嗣の宮内官は、生みの母の前身を軽蔑して、息子らしい情愛はみじんも示さなかった。

丹羽家においては、麻の葉模様がタブウであった。
着物でも、器具でも、手拭のようなものに至るまで、麻の葉模様をつけたものは厳禁された。
正夫人に直らないまでの母が、薄紫の麻の葉絞りの半襟を好んでかけていたのが、当主の宮内官に屈辱的な思いでをとめているためである。

祖母自らの極端なお上品ぶりも、似たような細心な警戒から来ていた。そうして美しさと悧巧さで、まことに名門の出にひけを取らぬ自然な品格を拵えあげたとともに、五つで母を失った時からその手に引きとった孫娘をも、自分の教育法で訓練した。

その意味から三保子には祖母が母親であり、艶麗さもそっくり受けついだ。彼女は祖母と別邸に住まった。

吉良は勉強を見に来てくれた、同じさつまっぽうながら、祖父が十年戦争に西郷方について以来の不運が祟っている、遠縁の貧しい大学生であった。

祖母が彼に優しかったのは、本邸の冷淡にそれとも凛々しく頼もしげな青年が自分でも気に入っていたのか、両方であったに違ない。

どちらから引いたとも、引かれたともわからず。相寄る若いこころに水を注そうとしなかったのみか、夏休には、箱根の別邸に吉良を内緒で呼んでくれたりもした。

祖母の好意のみが恋人たちには頼みの綱であった。父や継母の反対はわかりきっていたが、祖母だけはきっと二人の味方になってくれるであろう。

しかし阿藤家との縁談に際して、もっとも無慈悲に振舞ったのは祖母であった。

色恋はべつとして、結婚となれば目標を変えなければならいのを、誰よりも厳しく判断したのである。

それは自分が根引きされた時からの信条であり、今日までの生涯で実証されたことであり、すべての女が、愛する男とのみ眠るものではないのを知っているからであり、それ故にこそ死にたがって泣く孫娘に対して、幼い彼女が、なにかお腹にわるい食べものでの欲しがってむずかるのを、宥めすかす調子であの説得をしたのである。

決して染めないで、毎朝、卵の白味で輝くばかりに洗い手入れされた切り下げの白髪で、かえって清麗に匂やかな祖母の顔が、その瞬間、なにか悪鬼じみた気味わるさで打ち守られた。

しかし三保子の怖ろしいのは、祖母の囁いたものが毒草のこぼれ種子のように、また刺青のように心とからだの二つながらに浸みつき、根をおろしたのに気がついたことであった、その罪の深さ、汚らしさが、はじめは彼女を身震いさせた。
どうかしてその呪文から逃げだそうとすればするほど、執拗に枕につけた耳もとに甦り、阿片患者めいた幻想に誘いこまれた。

卒業するとセレベスのゴム会社に行ったとかの噂もたしかでない吉良が、夜とともに戻って来た。

暗さはその呼吸と、体臭と、重さを感じさせ、四肢に触れさせ、愛撫を愉しませた。
三保子は彼に甘えた通りに甘えた。
愛しあったものの結婚は遂げられ、二年目には忠文が生まれた。彼が誰の子供であるかは、普通の母親がもつ特権とはまた別な秘密で彼女のみが知っていた。

同時に昼の夫なる眉目秀麗で、愚かで、金持で、それでいて絶えず小遣いの金額で会計主任と喧嘩する、ゴルフと、麻雀と、食べることのほかには考えない男に対しては、ますます従順な、優しい申分のない妻になって行った。」

迷路」上巻

ISBN-10: 4003104927
ISBN-13: 978-4003104927



野上彌生子

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの速やかな復旧、そしてその後の復興、またそれに加え、昨晩に鹿児島県奄美地方において発生した地震による被害が出来るだけ軽微であることを祈念します。





2016年10月6日木曜日

20161006 日常用いている靴について・・

A「これまでに投稿したブログ記事もこれで440を越え、とりあえず目標とする450記事まであともう一息といったところです・・。

本日も特に投稿記事の主題を定めずに記しはじめた次第ですが、本日は思いのほか長距離を移動したと思われます・・。

ほぼ電車を乗り継いでの移動ではありましたが、途中地下鉄の駅二駅分程度は徒歩にて移動したのではないかと思われます・・。

しかし、この程度の徒歩での移動とは特に珍しいことではありません。

とはいえ、それと関連して思うことは靴の重要性です。

私はこれまでに部活動にはじまり、基本的に足を用いる移動を多く行ってきたといえます。

その際、疲労の軽減などにおいて極めて重要であるが靴の選択であるといえます。

これは自身の体験に基づくものであるので、おそらく間違いないと考えます。

この靴とは、それがどんなに高価であっても、それ以前に自身の足との相性といったものがあると思います。

そうした要素を加味して靴を選択することは、簡単なようでありながら、なかなか難しく、これまで靴の選択において何度も失敗してきました・・(苦笑)。

そして、現在において用いている靴とは、一応、そうした失敗の上に立つものであるので、いくつか種類がありますが、どれも私にとっては相対的に疲労を軽減させ、歩き易いものであるといえます。

また、見栄えに関しても個人的な意見ではありますが、特に問題はない程度であると思います・・。

そして、先日不図気付いたのですが、現在私が用いている靴の一つと兄弟の用いているものが期せずして同じであったことは、なかなか面白く思われました。

この靴に関しては兄弟の方が多少、年季が入っているようですが、あるいは以前に私が無意識でそれを見て、おぼえていたのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、私がその靴を靴店で購入したいきさつ(こうしたことは具体的に文章にて表現することが実に困難です・・(笑)。)から、おそらくさきに記したような無意識での記憶とは関係ないと思われますので、やはり面白いことであると思います・・。

さて、またもう一つのタイプとは、かれこれ10年程度使用しており、これまでに幾度かソールを交換しております。

このようにしてソールを交換した靴は、当たり前であるのかもしれませんが交換前後では、その履き心地が大分異なり、交換直後のそれは、どちらかというと違和感として感じるほどです。

とはいえ、以前からの使用により足が慣れているためか、あるいは徐徐にソールがアッパーの形状に順うためか、そうした靴はしばらく(一週間程度であろうか)履いているうちに、ソールを交換したことを忘れてしまうほどに早急に日常化していきます。

そして、そうした感覚を持ちうる靴が、靴本来の機能として良いものではなかろうかと思います。

しかし、そこまで記していて不図思うことは、おそらく、こうした観点において、性差による見解の相違といったものが顕著に表れるのではないだろうか・・?ということですが、これを読まれた皆様はどのようにお考えになるでしょうか・・?

そういえば、ハナシは変わりますが先日久しぶりに洋書(小説)を購入しました。
これは頁数少なくなく多少不安ではありますが、少しずつ読んでいこうと思います・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早急な復旧および、その後の復興を祈念しております。」





20161005 事物全般に対する評価 ナルシシズム

A「本日投稿するブログ記事により投稿記事数が440に到達します。

そして、このままのペースにてブログ記事を投稿し続けますと450記事まではどうにか到達することも出来るのではないかと思われます。

また、昨日投稿した記事内の書籍からの抜粋引用部分とは、なかなか面白いことが書いてあったのではないでしょうか・・(笑)?

・・個人的な感想を押し付けるようであり、多少恐縮ではありますが・・(苦笑)。

しかしながら、これまで作成、投稿したすべてのブログ記事も見方によれば(いや、よらなくとも)多分に「個人的な考え、感想の押し付け」といった要素が強いと思われます・・(苦笑)。

そうしますと、ブログに限らず大方の世に出回っている文章、出版物等とは、おそらく同程度にそうした要素(個人的な考え、感想の押し付け)を有しているものと思われます・・。

そして、それを記した人間がそれらの文章を(ある程度の時間が経過の後)焼き捨てたり、削除しないでおくことには、何と言いますか一種のナルシシズム、自己愛による作用が(少なからず)あるのではないかと思われます・・。

つまり、自身としてはあまり「良い出来」と思われる文章でなくとも、読んで頂いたどなたかが、それにより、何かを気付いたり、発見する可能性があるのではないかという、いわば他力本願の「甘え」のような要素が(少なからず)あるのではないかと思われます・・(苦笑)。

そして私の場合は多分にあると断言できます・・(苦笑)。

とはいえ一方において自他何れであれ、作成された文章をも含む事物全般に対する評価とは、必ずしも精確(こうした場合、何をもって精確とするのか・・?)であるとはいえません・・。

また、世間にて良い評価を受けたものがすべて良いとも一概にはいえないようですし・・。

しかし一方に、そうした評価を絶対的に決める権威を有した組織、機関などがもしも存在しましたら、それはそれでかなりギスギスした居心地の悪い社会にはなりそうです・・(苦笑)。

そしてハナシを戻しますと、様々な事物に対する評価とは、その評価する人数が多くなるほど、多くの場合、相対的あるいは「蓼食う虫も好き好き」といったものになると思われます・・。

そして、こうしたことを記していると不思議に気分が落ち着いてくる自分がおります・・(苦笑)。

また、このようなことを記したついでに記しますと、数カ月前にはじめて、ここ最近は更新(とはいってもここでのブログのコピペですが)を行っていなかった「はてなブログ」を再開してみようと思います。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に熊本を中心に襲った大地震により被災された地域における出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」