2016年10月18日火曜日

20161018 吸気と呼気のように膨張、収縮する精神・・

A「つい先日作成、投稿したブログ記事により総投稿記事数が450に到達しましたが、現在においてもこれといった内外の変化などは認められず、また、それと同時にかつてほど記事作成に窮するということもありません。

そして、そうした心境、状態にて本日も記事を作成しております。

とはいえ、やはり一日働いておりますと精も根も疲れるようであり、また、それが平日の記事作成の場合、通常の状態ではありますが、そうした疲労感の中で本日もまた記事作成を行っております・・(苦笑)。

しかしながら一連のブログ記事を閲覧しておりますと疲労感の中で作成したものと、そうでないものの間では特に大きな相異とは認められないのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

そして、これは作成者の文章作成の才能の乏しさを示しているのか、あるいは、その進歩を示しているのかは、よくわかりません・・願わくは後者であらんことを望む次第ではありますが、こうしたものは自身のみで判定することは多少危険なことではないかと思われます・・(苦笑)。

そして、そうしたことと多少関連があるのではないかと思われますが、以前読み、また、これまでのブログ記事においても幾度か抜粋引用した夏目漱石著「三四郎」内の記述、主人公三四郎と広田先生との会話にて「我々の住む世の中とは、偽善的、露悪的の両思想が主たるものとして、それら交互の変化、交代にて進行していると考えて差支えない。」といったものがありましたが、これを現今の首都圏に当て嵌めて考えてみますと、おそらく後者の色彩が強いのではないかと思われます・・。

そして、これを異言すると、露悪的つまり強者、膨張、男性的な思想、発想が現今の首都圏において優位を占めているのではないかということになるものと思われます。

また、こうしたことは歴史上の事物、遺物について考えてみても、あるいは看取することが出来るのではないかと思われます。

それはたとえば巨大化した銅鐸、銅矛、古墳、そして近現代であれば19世紀末から20世紀前半における大艦巨砲主義などがそうした強者、膨張、男性的思想あるいはそれが優位を占める時代精神を示しているのではないかと思われます。

しかし一方、我々日本人とは「何でも小型化したがる」といった心的傾向を持つなどとも云われておりますが、これにさきのことを加味して考えてみますと、それは時代精神の一面のみにおいて云えることであり、実際のところ、我々の精神とは、時代により、事物により、種々様々な膨張、縮小双方の嗜好を示すのではなかろうかと思われます・・。

あるいはまた、それをさらに視点を変えますと、時代精神における躁、鬱双方の傾向を示すのではないかとも思われますが、さて如何でしょうか・・?

とはいえ、本日のブログ記事にて、こうしたことを主題として記す背景について考えてみますと、その根本とは、作成者の能動性ではありますが、それと同時に本日お話しを伺った歯科医師の方との対話もまた一つのそれ(根本)ではなかろうかとも思われます・・。

そして、そこ(このブログ記事)から本日私が伺ったハナシおよびそこで為された対話の概容を想定してみるということは、現時点においては時間的に近すぎることにより困難であり、おそらくこうしたことは、以前さかんに作成した対話形式のブログ記事のように、ハナシ、対話の後、ある程度時間を経てからでないと、うまく捨象し対話形式の文章と成すことが困難であるののかもしれません・・(笑)。

しかし、そうであるからといって、それ(直近のハナシ、対話)が現在そして未来においても無価値であると断ずるのはナンセンスであることはご理解頂けるのではないかと思われます。

とはいえ、現今首都圏において優位を占めていると思われる強者、膨張、男性的思想に拠ると、そうしたもの(直近のハナシ、対話)などは、無価値に近いものであると判ぜられる傾向があるのではないかとも思われます・・。

そしてこうした傾向とは、一体どこに由来しているのでしょうか?

一方、こうしたもの(時代精神)とは、時代が生む多くの文物に対し影響力を持ち、そしてそれらが現今の我々よりも賢明且つ客観的であるかもしれない後世の人々により鑑定、評価されることを忘れてはいけないのかもしれません・・(笑)。

ここでは「近視眼的」というコトバがキーワードになるのかもしれません・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの今後の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。」

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