2019年7月15日月曜日

20190715 ホセ・オルテガ・イ・ガセット[著] 木庭 宏[著・訳] 松籟社刊「オルテガ 随想と翻訳」pp.42-45より抜粋引用

ホセ・オルテガ・イ・ガセット[著] 木庭 宏[著・訳]
松籟社刊「オルテガ 随想と翻訳」pp.42-45より抜粋引用
ISBN-10: 4879842761
ISBN-13: 978-4879842763

オルテガの大学論の中心テーマの1つは、教養の意味の闡明と教養学部創設の提案にある。そこでまず、《一般教養》と真の教養の意味についてオルテガが述べるところを引いてみよう。以下の引用文中に「教養(文化)あるいは「文化(教養)という括弧つきの概念が出てくるが、それは、教養と文化の両義を持つスペイン語の語彙 cultura を表現し得る単語がドイツ語にも日本語にもないためである。

〈一般教養〉。この愚劣で俗物的な響きは、その不実さを示唆している。家畜や穀物ではなく、そもそも人間の精神に関わる教養は一般的でしかありえない。人は物理学や数学で〈教養〉を積むことはできない。せいぜいこの領域で知識を身に付けるくらいである。一般教養という言葉が用いられるとき、その意味するところは、学生に何がしかの装飾的知識を、彼の性格ないし精神に漠然とした教育的影響を及ぼしそうな知識を与えるべし、ということである。こうした漠然とした目論見のためなら、技術的要素が比較的少なく、厳密性の乏しい科目ならば、科学であれ歴史学であれ社会学であれ、何でも用いることができるのである。
 しかし私たちがいま一跳びして中世へ、つまり大学発祥の時代へと立ち返ってみると、現代まで存続するこの残存物が、実は、もっぱら当時の大学の本来の内実をなしていた物のささやかな名残であることに気付くだろう。
 中世の大学は研究を行わない、職業教育もほんのわずかしか携わらない、すべたがただ・・「一般教養」-神学、哲学、いわゆる人文科学なのである。
 それはしかし今日「一般教養」と呼ばれるようなものではなかった。決して精神の飾りでも、また人格修練でもなかった。いな、その逆である。それは、あの当時の人間が自らのものと呼んでいた、世界と人類に関する諸理念の体系であった。つまり実際に自らの存在の指針となる様々な確信のたくわえだったのである。生は混沌であり、原生林であり、錯乱である。人は生の森のなかで道に迷う。寄る辺のない世界での挫折感、この感情に対して人間精神が、生の森のなかに「小径」を、「道」を見出さんとする努力で応えるのである。「道」とはすなわち、宇宙についての明快かつ確たる理念のこと、世界とは何か、事物とは何かという問題についての積極的な確信のことである。これら理念の総体、その体系がしかし言葉の最も真なる意味での教養(文化)なのであり、それゆえ装飾物とは正反対のものである。教養とは、生という大海のなかで座礁せぬように我々を守ってくれるもの、無意味な悲劇に終わったり、汚辱にまみれたりするのない生の営みを可能にしてくれるものなのである(148頁)

「一般教養」という「愚劣的な響き」を表現するのに、日本の学生たちの間で用いられているジャルゴン、「パンキョウ」(般教)以上に露骨なものはない。ここから、学生たちが一般教養なるものをあってもなくても良い価値低きものとして、蔑視していることがよく見て取れよう。さて、右の引用文であるが、その第1節では、たとえば日本の大学の旧教養学部における一般教養の曖昧さが鋭く指摘されているといえる。そして、第2、第3節において中世の大学制度に遡及し、そのあと、最後の第4節で、教養とは「世界と人類に関する諸理念の体系であった。つまり実際に自らの存在の指針となる様々な確信の貯えだった」ことがきわめて明快かつ論争的に説明されている。教養は、上流社会の取り澄ました人々が上着にぶら下げるような装飾物などではない。かつて我が国で喧伝され、今ではすっかり廃れてしまった、あの(岩波)教養主義とか教養人とか言われる類のものではないのだ。そしてここで、オルテガが教養について敷衍する箇所をさらに2つ引いておこう。いくらか重複しているが、それぞれ違った表現で、違ったアスペクトから描かれているので、引用は不可欠である。

教養(文化)とは、それぞれの時代が所有する生きた理念の体系である。もっと適切に表現すれば、教養とはある時代がそれをもとにして生きる理念体系である。逃れるすべはない。人間はつねに特定の理念群をもとにして生き、そしてこれら理念が彼の存在に依拠する基礎となっているのだ。それらの理念ー私はこれを「生きた理念」もしくは「生の糧となる理念」と呼んでいる―は、世界とは何か、私たちの同胞とは何かという問と、そして、事物と行為に与えられる価値のヒエラルキー、すなわち、何が尊重さるべきか、何がさほどでないか、に関する、私たちの実際的な確信の蓄積であり、それ以上でも以下でもない。(160~170頁)

啓蒙と文化(教養)は幾人かの有閑人が自らの生の上着にぶらさげる装飾品に過ぎぬとする曖昧な考え方は、いかなる種類のものであれ、断固排除さるべきものである。これ以上ひどい曲解はないだろう。文化(教養)は生と切り離せない必然である。それはちょうど手が人間の一部であるように、私たちの存在の本質に属するものなのである。[中略]自らの時代の高みに生きない人間は、自分の実際の生に見合う水準以下にとどまっている。つまり、自らの生を偽り、歪めている、十全なる意味で生きていない、ということなのである。(173~174頁)

教養に備わっていた本来の生きた意味を人びとの記憶のなかに呼び起こし、それを活性化させんとするオルテガの目論見とその議論にはたしかに説得力がある。もしも教養、文化がそのようなものであるのなら、大学で教養を教えることは不可避のこととなり、またそうした思想は当然ながら学部創設の基本理念ともなりうるのである。』


今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。







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ISBN978-4-263-46420-5

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