2016年4月2日土曜日

20160402 野上彌生子著「迷路」について

小説などを読む際、その描かれているを状況を頭に思い浮かべながら読むことが一般的であると云えます。

現在読んでいる小説は、時代背景が昭和10年代の太平洋戦争以前であり、また、その地域的背景はいくつかありますが、主要なものは東京、九州の架空の街(大体わかりますが・・。)です。

こうした状況を思い浮かべる際に役に立つと思われるものが同時代の記録映画、あるいは舞台とした映画であると思われます。

そして私がこの小説を読む際によく参照、想起する映画とは「戦争と人間」です。

物語のスジも若干似ていなくもないと思いますが、文章による小説であるだけに、ある状況における各登場人物の思考、情感の描写などにより引き込まれてしまいます・・(笑)。

また、同時に、この小説においては、各登場人物の個性が、そこまで強烈に感じることがありません、夏目漱石の「三四郎」に出てくる広田先生、与次郎などのように・・。

「三四郎」では読み進んでいくうちに、あるセリフを読んだだけで、それが誰の発言、思考であるか、大体分かるような感じがあるのではなかと思いますが、現在読んでいるこの作品には、そうした要素は今までのところあまり感じることはありません。

とはいえ、こうした状況も今後さらに読み進んでいくうちに徐々に変わってゆくのではないかとも思います。

また、さきほど、この小説内の状況を理解するために映画「戦争と人間」を参照、想起すると記しましたが、同時にその登場人物の情感を描いている部分においては、なぜだかよくわかりませんが、少女漫画的な情景を想起してしまいます・・(笑)。

具体的なものとしては、アニメ化もされた大和和紀のマンガ「はいからさんが通る」のような感じです。

舞台となる時代が20年近く異なりますが・・。

しかし、小説などを読んでいて、こうした想起はメッタにしない私ではあるのですが、なぜ少女漫画なのでしょうか・・(笑)?小説の文章を読んでいて、自然とそのようになったのでしょうか?このことを多少考えてみますと、このマンガの物語背景において、この小説のそれ(物語背景)に近いものが少なからずあり、それがこうした想起に結び付いている原因となっているのではないかと考えました。それ故、この小説は上下巻1000頁超の長編ではありますが、日本の近代について具体的な物語を通して知りたいと思われる若い方々にとっては男女問わず面白く読むことができるのではないかと思います。
加藤周一著「日本文学史序説」下巻 筑摩書房刊 pp.423‐424より抜粋引用

『1885年九州の臼杵町で富裕な醸造業者の家に生まれた野上弥栄子(1885~1985)は、若くして上京し、明治女学校を卒業して、後の能研究家、野上豊一郎と結婚した(1906)。
漱石の門に入り、多くの小説を発表し、遂に「迷路」を書く(1936~56、その間に戦時中の中断がある)。
30年代初めのマルクス主義運動の渦中にあった主人公の青年とその周辺を詳細に描いて、太平洋戦争の前夜に及ぶこの小説は、一世代の日本の知識人の内面史として―彼らのなかで戦争を生きのびた人々こそは、敗戦後の文学的または思想的な世界で、指導的な役割を演じた―、おそらく比類のない作品である。
しかも「迷路」は、他方で、徳川幕閣の遺臣(井伊大老の孫)を主人公とし、生涯を能に託するその老人が、維新以来の天皇制官僚国家と、30年代の軍国主義権力を、痛烈無残に批判するその様を、実に活き活きと描き出す。すなわち天皇制を、一方ではマルクス主義の立場から、他方では徳川体制の立場から、挟撃して相対化し、批判するという仕組である。その意味でも、この小説は、日本近代文学史上の一つの記念碑と考えることができる。』