2015年10月11日日曜日

加藤周一著「日本文学史序説」下巻筑摩書房刊pp.504-509より抜粋 20151007

敗戦後の日本には、占領軍の強制により、政治社会制度の大きな変化がおこった。
その一つは、軍国日本の「非軍事化」であり、(憲法第九条の戦争放棄条項)、もう一つは、天皇制官僚国家の「民主化」である(天皇の法的権限の縮小、議会民主制、政党および労働組合の活動の自由、言論表現の自由など)。
しかし政治制度の急激な変化に、政治的な意識と行動様式の変化がただちに伴ったのではない。
権力と人民との関係においては、伝統的な「官尊民卑」の風習が残り、今日なお日本社会は、市民革命を経過した社会と異なる。
中央と地方との関係においても、明治以後の中央集権的傾向がそのままひきつがれて、地方自治は極めて弱い。
社会生活一般について、四五年以後のおそらく最大の変化は、家庭でも、学校での、企業でも、集団内部の上下関係の厳格さが崩れ、平等主義が普及したことである。
しかし集団帰属性を強調する価値観が、四五年を境として変ったのではない。
四五年以後の日本社会は、以前と同じように集団志向型の社会であった。
すなわち敗戦と被占領後に出現したのは、個人の人権と少数意見の尊重に鈍感で、しかし高度に平等主義的であり、集団相互および集団の成員相互の競争が激しく、個人の集団への組込まれが常に強かった社会である。
対外関係での最大の変化は、もちろん、被占領から始まった日米関係である。
かつての「枢軸国」は、一転してアメリカとの同盟関係に入った。
アメリカの圧倒的な影響は、政治・経済・軍事・情報・学問・大衆文化の、ほとんどあらゆる領域にわたる。
これほど広汎な領域で、日本国が特定の外国へ依存したことは、一九四五年以前にはなかった。
古代日本への大陸文化の影響は、はるかに広く、はるかに深いものではあったが、中国側からの軍事的・経済的な圧力を伴わない。
一九世紀の「開国」は、たしかに軍事的な圧力のもとで行われたが、その後の「西洋化」の過程は、手本とする先進国が一国に集中していなかった。
またその影響が大衆の風俗習慣に及ばなかったという点でも、戦後三〇年の状況とは大いに異なる。
経済的にみれば、この三〇年を二つの時期に分けて考えることができる。
前半の一五年間は、初めはアメリカの援助、後には朝鮮戦争景気を利用して、日本経済が戦争の荒廃から立ち直った時期である。
五〇年代の半ばに一人当りの実質国民所得は、戦後の水準を恢復した。しかし日本人はまだ貧しく(一九五六年の一人当り国民所得二二六ドル、これはアメリカ合衆国のおよそ一〇分の一、西ヨーロッパ諸国にも遠く及ばない)、TVと乗用車と海外旅行はまだ大衆化していなかった。
戦時中の鎖国状態の後で、国外の文物への知的好奇心は強く、翻訳の欧米文学が読まれ、「西洋事情」の紹介は盛んであった(福沢諭吉「西洋事情」初篇刊行一八六六年の後およそ八〇年である)。
後半の一五年間は、日本経済の高度成長期である。工業製品の国外および国内の市場は、劇的に拡大した。
日本人の生活程度は、かなり高くなった(一九六九年の一人当り国民所得は、一三〇四ドル、これはアメリカ合衆国のおよそ三分の一、西ヨーロッパ諸国の水準にほとんど追いつこうとしていた)。
TVはほとんどすべての家庭に普及し、乗用車は大衆化し、海外への団体旅行は盛んになった。同時に翻訳文学への好奇心は後退し、西洋の知的遺産への関心は薄くなったようにみえる。第一に、ヴェトナム戦争、第二に、「新左翼」の学生運動が、青年たちの関心をひきつけたのは、この時期である。学生運動は、管理された消費社会への成功しない反抗であった、といえるだろう。三〇年間の日本の文学は、経済的復興の前半に活発で、経済的繁栄の後半に独創的な活気を失った。その事情は、第二次世界大戦のもう一つの敗戦国西ドイツの場合とおそらく対称的である。西ドイツの経済的復興は早かったが、その時期に、文化的創造力はほとんど全く麻痺していた。文学芸術の領域での創造的な活動が始まったのは、六〇年代になってからである。日本の戦後文学の主要な条件は、その前半一九六〇年までの時期には、戦争体験と「第二の開国」であり、六〇年以後の後半期には、ヴェトナム戦争と高度成長の消費社会であった。そういう条件が文学にどう反映してきたか。それがここでのわれわれの問題である。


戦争体験について

中国侵略から太平洋戦争へかけて、戦争体験と日本型「ファシズム」の経験とを切り離して考えることはできない。敗戦後にあらわれた日本型「ファシズム」の日本人による自己理解の試みは、その経済的背景の分析から国家論まで、社会心理学的説明から伝統的文化の批判まで、多岐にわたった。そのなかで、思想的領域での分析と叙述が、もっとも周到で、またおそらくもっとも深い影響を戦後の青年たちに及ぼしたのは、丸山真男(一九一四~九六)の「現代政治の思想と行動」(上、一九五六、下、一九五七)に収める諸論文、殊に「超国家主義の論理と心理」(一九四六)、「日本ファシズムの思想と行動」(一九四七)、「軍国支配者の精神形態」(一九四九)である。
丸山はそこで、日本型「ファシズム」を、ナチの体制および歴史と比較し、その特徴を指摘した。すなわち「イデオロギー」における家族国家・農本主義・大アジア主義、運動形態における既存の国家機構の保存・大衆組織の欠如、担い手における小工場主・小地主・下級官吏などの積極性(都会の俸給生活者や「インテリゲンチャ」の消極性)、発展の型における下からの「ファシズム」が上からの「ファシズム」へ吸収される過程などである。
このような特徴の背景には、ドイツと較べての工業化段階および民主主義の後れがあり、したがってドイツ型とはちがう日本型の「ファシズム」が生じたとする(「日本ファシズムの思想と運動」)。民主主義において後れた天皇制国家の基本的な構造は、国家主権がそれ自身に超越する絶対価値へ「コミット」していないということである。
「国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内容的正当性の基準を自らのうちに(国体として)持っており、従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を超えた一つの道義的基準には服しないということになる」(「超国家主義の論理と心理」。すなわち「主権者自らのうちに絶対的価値が体現している」(同上)。
国家の正統性legitimacyは合法性legalityに解消されず、規範的な内容をもつ。したがって人民は国家に奉仕するためにあるので、国家が人民に奉仕するためにあるのではない。
しかもその国家の指導者が彼らの決定について責任をとらぬという、単に個人の道義的な傾向ではなくて、体制そのものに内在する仕組がある。ニュールンベルグ裁判における被告との対比において、東京裁判の被告の態度の特徴は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」の二点に要約されるという(「軍国支配者の精神形態」)。

前者は、「みんなが望んだから私も」主義である。
みんなが望んだことは、「成りゆき」であり、事の「勢い」であり、「作りだされてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こって来たもの」(同上)である。
東京裁判の被告の言い分によれば、日本軍国主義の指導者たちは、誰一人として太平洋戦争を望んでいなかったにも拘らず、太平洋戦争を始めたということになる。
特徴の後者は、指導者のなかに誰にも、特定の決定について、権限がなかったという主張である。
日本文学史序説 (下)
日本文学史序説 (下)
ISBN-10: 4480084886
ISBN-13: 978-4480084880
加藤周一









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