2015年10月10日土曜日

「小林秀雄対話集」講談社文芸文庫pp.223-229より抜粋

知識過剰ですかな。言語過剰かね。美なんて非常にすぐそばにあるもので、人間はそういうものに対して非常に自然な態度がとれるものなんですよ。
生活の伴侶ですから。
だけど、さて現代文化における美の位置というような考え―、美の日常性に関する経験がないから、そんな考えから出発するほかはない。すると言葉しかもうないということになる。そういうところからきているのじゃないかな。
まあとにかく、ジャーナリズムでは小説が盛んでしょう。しかも小説も大変批評的なものになっていましょう。そのほか、論文とか報道とか、みんな知識の誇示だ。片方では政治的な行動的傾向が強いでしょう。政治的経験というものは、美的経験というものと全然関係がないからな。(中略)
美の日常性がなくなったんだね。
伝統という問題も理屈からすると、むずかしいことになるでしょうがね。そういうものをキャッチできるという経験には、たしかにはっきりとしたものがあるのですよ。
たとえばね。永仁のツボの騒ぎがあるでしょう。ああいう騒ぎというものが起こることは、美とはなんの関係もないということを、騒ぐ人たちが全然考えてないんですよ。
あれは虚栄心とか名誉心とか、商売上の問題とか、要するに本物、にせ物という言葉しか騒ぎのなかにはないんですよ。
騒ぎのなかには焼き物の経験なんてものはないんですよ。
あれだけの騒ぎが起こって、このなかには実物の焼き物の経験なんてものは一つもないということに気が付いている人が、実に少ないのではないか、ということをぼくはしきりに考える。
気が付いている人はだまっているんです。
そしてだまっている側に伝統は流れているんです。
だから伝統というものをキャッチすることのむずかしいことは、いま決して伝統なんてものはなくなっちゃったからではないのだな。むしろ、伝統を経験している人々がいるか、ということに気が付くと、これが大事なんだな。
どこに捜すこともない。ただ、ふつうの書画好き、道具好きのなかにいるのですよ。
いわゆる書画骨董の世界というもののなかに、たいへん、なんというか時代錯誤的な、たいへん複雑な形で現に生きているのです。
断っておきますが、時代錯誤的なものというのは、知的な評価なのです。
審美的な評価ではない。
伝統が今日も生きているということが時代錯誤と見えるのは、傍観者の知的な目です。
好き者には、そんな目はない。
伝統を内側から見ますから。そういう目に伝統の命が見えている。
これは日に新たなはずのものなのです。
いったんこれを見てしまった人には、これは消そうといったって消えるものではない。そんな不自然なことができるものではない。


私は鍔に手を出したときに、こんなばかなことを考えたんだ。
鍔の世界にはまだ見残しがあるだろうと。
収集家が騒いでいるものは、たいがい新しいところなのです。
もっと古いところにいきますと、まだ見残しがあるだろう、という感じを持ったことがあるのです。
やってみると、そんなばかなことはないんだよ。これは瀬戸物の世界と全く同じなんだよ。いわゆる本物、にせ物の混合世界です。
それから本物とにせ物との間に無数の段階があります。
さっき言ったように、工芸の世界は模倣でできている。みんなイミテーションの長い歴史なんだ。
イミテーションのでき、不できに無限のニュアンスがあるが、いじる人は、イミテーションの動機なんて考えるもんじゃありません。そんなものはいりません。
現に目の前にある姿をたしかめることで手一杯なのです。
手一杯でそれが楽しいのです。
この手一杯の経験を何百年の間重ねてきているわけです。
だから同じものは何十万度、何百万度見られたか分からない。
どういうふうに評価されたか実にまちまちな、不思議な評価をされてきた。
その間に、永仁事件なんか何度あったか分かりはしません。
たまたま犯人が見つかる場合は何パーセントでしょうかね。
見つからない場合の方が、むろん多いわけですよ、それはみんな、本物の中に入ってしまっているんです。
それでちっともかまわないです。
見つかる場合なんて一番低級な場合なんです。論ずるに足りない、興味のない問題なんです。
いわゆる好き者から、つまり尋常な状態から見ますとね。
だいたい本物、にせ物の見分けより、本物同士の間に上下をつける方が、むずかしくおもしろいことなのだ。
そんなこと何百年もやっている間に、この雑然たる世界に、動かせない秩序が生まれてくるのだね。
鑑賞というものは、その秩序を許容しておのれを失うことなのです。
生意気なことをこちらから勝手に言う、そんなものじゃないんです。あの世界の経験は。
ただ、あの世界に入らない人は、美術なんてものは「私」の鑑賞でどうにでもなる、と思う。
ことに現代人はそうです。
芸術家というと、なんでも造れるような顔をしている、それが芸術家です。
鑑賞もこれに似て、自分の解釈評価次第で一万円のものを五十円ということもできる。
そんな気でいるのです。自己主張が好きなんだな。
おのれの主張とか、解釈とか、そんなものに美があると思っている。
そうじゃない、美はいつも人間が屈従するものです。

物に自分をまかせる。そういう経験のうちに、伝統の流れというものが、まざまざと見えてくる、こんなことは分かり切った話ですけれども、インテリがなかなかそれに気が付かないということがある。
たとえば、わたしのところに、現代の美術や音楽に大変関心を持った人が来る。
美を論ずる種はいくらでも持っているのです。鍔が少しばかり置いてあるのを見ると、全く関心を示さない。
古い道具が置いてあると思うだけなのです。実に不思議な気がします。これはもう一種の現代審美病なのです。

小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫)

ISBN-10: 4061984160
ISBN-13: 978-4061984165

小林秀雄 (批評家)

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