2015年10月28日水曜日

北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.284-294より抜粋20151020

夢と芸術との関係は昔から注意されてきて、古いところではアリストテレスが、芸術家や哲学者が作品を生み出す際に、しばしば夢に教えられることがある事実を指摘している。
こうしたことを重要視するのは危険であるが話の順序として、夢を見ていわゆる「無意識的創造」を行ったと伝えられる芸術家の実例をあげよう。
ベートーヴェンは友人あての手紙のなかで書いてある。
「僕はウィーン行の馬車の中で眠った。夢のなかで、僕は遠い国へ旅をしシリヤにもインドにも行き又帰国し、最後にはイエルサレムにも行った。聖都は聖書のことを憶いださせた、と同時に、僕はカノンを考えついた。
目覚めるともうそれは消えてしまい、どうしても思い出せなかった。けれども翌日同じ馬車で帰る途中うつつに夢のなかの旅をつづけてみると、連想のおかげで僕はそのカノンを思い出した。僕はメニエライがプロチウスに飛びついたようにそれに飛びつき、三声にわけて歌わせることにした」。
リヒャルト・ワグナーも自伝のなかでこう書いている。
「死ぬほど疲れきって、私はぐっすり眠ろうと固い寝床に横になった。けれど眠れなかった。やがて私は夢遊病者の状態におちいった。不意に、私は急流に沈んでゆくような気がし、そのくだける音が変帆ホ長調のように思えた。
それははげしく流れて比喩的なオルペドウロになった。
私は波頭が私の頭上高くうちあうのを感じながら現つの夢から目覚めた。自分がうまくゆかないで苦しんでいた「ラインの黄金」の前奏曲を幻に見ていたのだ」。
もっとも著名なのはタルティーニの場合であろう。
老後彼が語ったところによると、彼は悪魔に魂を売った夢を見、悪魔に自分のヴァイオリンを手渡してみた。
「ところが実に驚いたことに、悪魔が完璧な腕前で演奏するのを聞かされたことです。
そのソナタは私の想像がいかに大胆に天空を馳せたとしても、到底太刀打ちできぬほどいみじくも美しいものでした。私は歓喜し、我を忘れ、魔法にかかったように思いました。私は息もできず、そこで目が覚めたのです。
私はヴァイオリンをとり、今聞いたあの曲に比べればどのくらい劣っているかわかりません」。
画家としてはラファエロの話をブラマンテが伝えている。「ある夜ラファエロは、それまでもしばしばあったように聖母に祈る夢を見、感動して目覚めた。闇のなかに、彼の寝台の前の壁が映っていた。よく見ると、壁には未完成のマドンナの姿が優しい光につつまれ、完全に、また生けるがごとく懸かっていた。その神々しさは云わんかたなく、その姿は今にも動くかと思われた。否、本当に動いていると見えた。しかし特に驚くべきことは、ラファエロが生涯求めていたもの、彼がおぼろに予感していたものが、その像の中に見出されたことである。彼がふたたび寝たかどうか憶えていないが、翌朝起きた時は生まれ変わったようだった。
なぜなら、その面影が永久に彼の魂と感動のうちに感銘されたのだから。こうして彼は聖母を心深く宿る姿に描くことができた」。作家の例は枚挙に暇ないが、ヴォルテールは「アンリアード」第一部の変形を夢にみた。
「私は目覚めていてはいえないようなことを夢を見ながらいった。こうして私の理想のあるものは私の意志でなく私の方から働きかけることなくしてできあがった」。
またプーシュキンは次のように語る。
「私はエゼキエル書の断章をよみ、ふかく心を打たれました。私が「予言者」のなかで言葉を変えて歌ったのはそれです。その断章は数日間頭にこびりついていましたが、ある夜私はその詩を書きあげました。私は起き上がって書き出したのですが、どうもその詩の言葉は夢に見たものとしか思われません」。
別の箇所で彼はこうも述べている。「時折、夢の間に不思議な詩の文句を見つけます。それは夢ながら素晴らしいものです」。そのほか、コルリッヂは夢から「クーブラ・カーン」を作り、ドストエフスキイは主人公たちやある場面の夢をみて「未成年」を書く気持を起し、トルストイは短編「何を私は夢に見たか」を書いたと伝えられている。
だがはじめに述べたように、こうした例を誇大に評価するのは間違いである。人々は素朴に天才たちを讃えるために、誇張して語り伝えたという点を考えねばならない。
エリスも「実際の睡眠中に時として行われた天才人の創作活動や、彼らが夢のなかでうけた暗示などに言及する必要はまずあるまい」と述べた。
たとえばコルリッヂの詩の場合にしても、実は阿片の影響の下であって、正常な睡眠中になされたのではないと仮定してもよいこと、タルティーニの場合でも、その曲が夢のなかでつくられたと断定する根拠はいささかもないことを指摘している。
ただこれらの挿話から、いかに彼らの自我が強く欲求していたかということ、彼らがやがて産みだそうとしていたものにたして彼らの魂がいかに意欲し模索していたかを感じとって頂ければよい。

彼らには強烈な力が内在していた。だから夢を見た。偶然夢があって何物かが生まれたのではなく、事実はその逆である。通俗的に好んで伝えられるインスピレーションなども同様である。手をこまねいて天からおとずれるものなどありはしない。たとえ本人自身が意識していないにせよ、彼の無意識ないし不意識が長い間求め、もがき、探り、そして感じとった産物なのである。
夢は一つの象徴であり、波間にあらわれた氷山の一角にすぎない。海面下に沈んだ膨大な部分のあることを忘れて、これらの話をうけとっては皮相な見方をまぬかれないであろう。
 ここで触れねばならないことに、夢の目的の問題がある。フロイトすべての夢を過去の願望の象徴と考えたが、ユングなどはこの解釈は後向きのものであり、もう一つ前向きの解釈がなされてよいとしている。
前向きの解釈というのは、未来にむかってなんらかの目的をもつというので、それでなければ前述の創造現象を説明することがむずかしい。

空想ということになると、さらにこの傾向は強くなる。

 空想は覚醒時の現象であるから、夢と同様の産物であるにせよ、もっと現実性がいりこんでいて、もっと意識的のものである。
われわれは現実に直面して不満をもつものであり、架空の世界に逃げこみ、かりそめの満足を求める。

ひとり取り残されたシンデレラと同様、田舎者は都会を夢み、腹のすいたビフテキを頭に描き、旧軍人がふたたび無敵皇軍の威容を思うなど、食欲、性欲、権勢欲などを満たそうとする。



これが行動の面にあらわれたのが子どもの遊びで、彼らは葉っぱを浮かべて舟と見たて、地面に線をひいて家のつもりでいる。

空想は現実逃避にはちがいないが、ユングのいう前向きの傾向の一面を有している。子どもの遊びが、未来の生活のための目的をもっていることを考えれば、この前向きの一面が、創造というものにつながるのである。

 空想にもあらゆる段階がある。
 創造者は強烈な自我をもち、したがって欲求がつよく不満もつよい人間であるといってもいい。
彼らは現実社会に適応しにくい。

よりよきもの、より美しいもの、より真なものを求める。

またより奇怪なもの、より醜悪なもの、より罪深いものを欲求するかも知れない。
空想の世界ではすべてお束縛がとかれる。

時間も空間も無視され、はじめてわれわれは無限を意識することができる。

自由という言葉は空想の世界でのみ可能である。

狂気したことのない人は遂に幸福を知らぬ人間だ」というラムの言葉にしても、そうした意味で受けとられるだろう。だが、いかに魅惑にみち、可能性にあふれた空想にしても、それだけでは客観的な価値はない。それは閉ざされた世界であり、そうした不毛の夢想なら、われわれすべてがなしている訳だ。これに意識的な操作が加えられ、現実性、社会性をおびてこそ、芸術作品としてわれわれの財宝にもなりうるのである。マラルメはいう。「暗示するこれこそわれわれの夢である。この神秘を完全に駆使することが象徴を構成する」。

創造の母体はあくまでも「夢」であり、創造者の秘密をとくになんらかの意味で、夢、幼児、無意識といった問題にふれないわけにはいかない。
彼らが空想にふけりやすいところは幼児に似ている。性格的には分裂気質、内閉的といったものと密接につながっている。

 創造的空想が、視覚、嗅覚、聴覚などから誘導されてくることは多くの実例がある。シラーはいう。「最初に情緒のある音楽的基礎があらわれる。」ついで詩的観念が生じてくる」。
クライストは、音楽が自分の思想に言葉の衣服を着せる基礎だ、と述べ、レーピンはリームスキイ・コルサコフの音楽から「イワン雷帝」の題材を得た。
コンドラーチェフの画法は、「なにか曲が奏でられ、まだ写実的乃至空想的な形象が視覚に浮んでこないうちは、リズムを線で画く」ことで、「メロディはどれも各その一定の色」であらわされた。またアセスは「リズムをつけて手足を交互にふるダンサーの絵を見て」オペラ「ラゴルスキイ王」を作り、真赤なケシの花からコルサコフは「カシュチュイ」を作曲せずにいられなかった。嗅覚の例としては、腐敗した林檎の香とシラー、松露の香とバイロンなどがあげられよう。空想から作品が生まれる創造の過程をドストエフスキイは苦役と呼んだ。彼の兄宛の書簡。「兄さんはそんな理論を持たれるか、そんな場面を大急ぎに書き上げねばならないと考えるか。どこもかしこも大変な労作なのです!プーシュキンの軽快な数行の詩も、易々書かれていると見るまでには、どのくらい長く推敲し書き直したかわからないのです。私はたとえばある場面をすぐ書き上げても、数ヶ月、一年以上も書き直しに要します」。ショパンはサンドの伝えるところによると、或一音の変転のために数週間を身をもだえして子どものように泣いた。フロベールは一ページ半書き上げるのに十二ページを書き汚した。セロフはある肖像画を描くのに九十回ポーズを変えさせた。

どのようにして芸術が生まれてゆくかという過程を、心理学的に解明することは可能であろうか。カントは、「予定を許さぬ創造的空想の遊戯三昧」という言葉を使い、はっきりと創造的現象にたいする実験的方法を否定している。ハルトマンは「創造の根底にある無意識的作用はいかなる場合にも自己観察を許さない」といい、リーボなども大体同じ意見を述べている。これにたいしヴントはいう。「空想の研究という課題は実験の課題と思われる。実験的方法のみが、対象と空想形象との間の関係を正しく支配する条件を意のままに変化させることができる」。
いずれにせよ、科学と芸術は次元の異なる存在であって、ある一側面をうきださす照明以上の役目を果たさないことは確かであろう。
グルゼンベルグの言葉は傾聴に価する。「もし創造心理学が芸術家の創造的空想の法則に関する学となるのを願うならば、それは形而上学的仮定や誘惑的イリュージョンから離れて、似而非なる「創造心理学」の樹立が可能なることを信じてはならない」。
トーマス・マンは詩人を定義して、自分自身のことだけを述べてそれがそのまま全世界を述べていることになる人のことだ、という意味のことを書いているが、同じように、元来個人的な、閉ざされたものである「夢」を解きはなち、普遍性、社会性を付与したものが芸術であるといってもよいだろう。
マンの名前がでたついでに、この辺で固苦しい話からはなれて、ジイドが比べるものがないと呼んだ彼の長編「魔の山」をひもどいてみることにする。
 この小説の主人公ハンス・カストルプは単純な「人生の厄介息子」であり、低地から隔絶されたダヴォスの療養所にはびこる「病菌」の実験材料にすぎない。対立した教育者たちは、この青年をそれぞれの自分の陣にひきいれようとする。だがあるときカストルプは吹雪に迷い、雪のなかで美しくも怖ろしい夢を見た。はじめ彼の前には、明るい霧雨のヴェールの下から、深い紺青の南海があらわれる。海浜の砂地の上では美しい太陽の子らが、楽しげに子どもっぽい、同時に品位にみちてつつましく、馬に乗ったり弓をひいたりして遊んでいる。それは見ていても胸がふくらみ温かくなるような光景だった。だがやがてカストルプは背後の神殿で行われているむごたらしい饗宴にも気づく。そこでは魔女のような老婆が白髪を乱し半裸体で、野蛮な落着いた様子で嬰児を裂いて食べている。彼はもろい骨が老婆の口の中でくだける音を聞き、醜悪な唇から血がしたたるのを見た。そこで彼は目ざめるが、それらの光景をどこかで知っているような気がする。
「僕は一体どこで見たことがあったのだろう?誰も自分の心だけで夢を生むのじゃなくて、めいめい思い思いの見様はしても、本当は無名で共同で夢を見るのではなかろうか。ある大きな塊があり、それが僕という一小部分を通して、僕は僕なりに、いつもその魂がひそかに夢見ている事柄を夢見るのだろう」。そしてカストルプは人間の地位と本領を考え、はきりと彼の「陣」をとる。「僕は人間の地位を夢に見、また人間の礼儀正しい聡明な恭謙な社会を夢に見た。その後ろの神殿では凄惨な血の饗宴が行われていることをひそかに考えているから、太陽の子らはあのように礼儀正しく麗しくいたわりあうのだろうか?」「死の冒険は生のなかにあって、それがなかったら生は生でなくなるだろう。そしてその真中、冒険と理性との中間こそ人間の位置すべき場所である。その真中の位置にあって、人間は上品にやさしくうやうやしく自己を遇さねばならない。なぜなら人間だけが尊いのであって、対立する考え方が尊いのではないからだ。対立しあう考え方も人間があってこそ存在するのだ。だから人間はどんな対立よりも尊いのだ。人間は死よりも尊く、死に耽溺するには尊すぎる。知性の自由を持つからだ。また人間は生よりも尊く、生に耽溺してしまうには尊すぎる。心に敬虔な気持をもつからだ。なんだこれは詩のようだぞ。人間についての夢の詩のようだ。僕はこれを覚えておこう」。
その通り、忘れさられたように見えたこの夢は、彼の魂の底ではずっと生きつづけていた。だから彼は「大きな無感覚」から目覚め、魔の山をくだるようになるのである。
ハンス・カストルプの雪中の夢を、後ろ向きの夢、前向きの夢という観点から眺めてみてもいい。たしかに「夢」はこの二面をもっているのだ。またどんな個人的の夢であっても、それは人間というものから、社会から切り離して存在するものではない。われわれは社会の一員であり、歴史というものに規定されている。またそれであるからこそ、個人個人の「夢」も、われわれの共通財産ともなりうるのである。われわれの「夢」の中には、人間の過去、現在、未来が含まれているのだ。
かつて、夢といえば無意味なもの、はかないもの、美しいものと考えられてきた。今日のわれわれは、夢に意味があることを知っている。それが溶鉱炉のどろどろしたたぎり、生臭いもの、醜悪なもの、抑圧されたものから成っていることを知っている。だが、人間はこの暗黒の中から、獣的なものの中から、絶えず美しいものを産み出しつづけてきた。われわれは「夢」の本質に目をそむけてはならぬ。いわゆる夢幻というヴェールをおしやり、きびしい認識の照明の下にさらしたとき、そこには執拗な生体の息吹きが、さまざまのエネルギーの葛藤が見られるだろう。芸術という面だけから見れば、大多数の「夢」は不毛の自慰に終り、いくばくかのものが見事な果実を結ぶ。

ISBN-10: 4122022657
ISBN-13: 978-4122022652

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