2015年10月28日水曜日

なだいなだ著「続娘の学校」中央公論社刊pp.148-154より抜粋20151028

はやいものだ。もう三年にもなるだろうか。NHKの番組で、私は、ある未来学者と名乗る人物っと討論したことがあった。討論には、まだ他にも二人ばかり参加していた。番組は、一九七〇年代に、私たちの地球がどうなるかをとりあげていた。
一方では、月に人間を送りこみ、それを通信衛星で世界の人たちがテレビ画像に見るという、大きな事件のあった直後でもあった。それは二十世紀の科学の進歩を、強く印象づける壮大なショウとでもいえるものであった。
が、他方では、あちこちで、公害や自然破壊が起こって、ようやく問題になりかけていた。そして、それが、未来に、大きな不安をいだかせていた。

討論では、今のような形で未来に進んでは、地球が回復不可能な自然破壊をこうむる、科学の進歩をとめねばならない、という主張と、現代の科学技術をもってすれば、自然と調和した成長が可能だという主張がぶつかりあった。
一方は、科学の進歩は、私たちをしあわせてにしただろうか、と科学を否定し、科学者を嫌悪する口ぶりだったし、未来学者は、こうした人たちを、頑迷な無知な人間たちと呼んで衝突した。
未来学者は、小柄な人物だったが、非常に威勢のいい、エネルギーのかたまりのような人物だった。
なにしろ、日に十冊の本を読み、百枚の原稿を書き、数回講演をしてまわると、自分のタフぶりを自慢にする人である。
こちらは、そんな話を聞いただけで目がまわる。彼のいうことは、とても勇ましかった。

「何ですと、先は暗いですと。科学の進歩など不要ですと。公害ですと。なにをこわがるのです。これまでの人類の歴史にも、いくらも困難がありましたよ。人類は滅亡するなんてさわいだこともありました。
しかし、人類は、そのすべてを克服して、現在ここにあるんじゃないですか。しかも、科学の進歩によって克服して来たんです。それなのに、科学の進歩がいけない、進歩をとめろですと。冗談いっちゃいけない。公害なんて、なぜ恐れるんです。公害があるのはたしかです。しかし、これまでに、これほどのものを作りだして来た科学技術を用いれば、公害なんてものはかならず解決できますよ。
すぐに、工場なども無公害化できます。そもそも、現在の公害だって、科学の力で、PPmを測定しているじゃないですか。
昔だったら、こんな微量の物質を測定できましたか。科学の進歩のおかげじゃないですか。それに、生産をおさえろですと、経済成長がいけないですと。それなら、どうやって、公害対策の研究費を作るんですか」

私は医者である。医者というものは、科学者のかたわれである。その討論に加わっていた、ただ一人の科学者だった私は、一方から、被告のようにとがめられ、未来学者から強引な弁護をされ、非常に居心地のわるいところにすわらされた気分だった。科学の進歩にいいところが少しもなかったといわれると、それは極端すぎやしないかねえと答えたかったが、その未来学者のように、勇ましい弁護をされると、恥ずかしくて、聞いていられない気がした。その間、議論は進んだ。

水俣病はどうです。科学技術の進歩は、悪をもたらさなかったといえますか」

「水俣病ですか。あんなものは、公害ではないですよ。あんなのは、れっきとした犯罪です。あんなチッソなんて会社は、びしびしと取り締まればいい。
チッソと、他の私たちの生活をゆたかにしている会社といっしょにしてもらったら、困ります。チッソが悪いのを、科学技術の罪だなんていうのは、あまりの飛躍です。
人殺しの犯人が一人いたからといって、人間全体が悪で、いいところはなにもないというようなものです」

「でも、川は汚れていないですか。カドミウム水銀で。海はヘドロで汚れていませんか。空気はスモッグで。
そのため、私たちの生活は、めちゃめちゃになりかけていませんか」


「心配ありません。それはたしかにそうでしょう。しかし、それも科学技術の進歩によって解決できます。」


「でも、それまでの間はどうしますか」


「人間には適応力があり、公害でほろびるものがあっても、かならず生きのびるものがいます。
汚れた空気も平気、汚れた水をのんでもびくともせず、生き残った人間が、二十一世紀の洋々とした時代をになうことになる。
二十一世紀の未来は、公害に耐えた、たくましい人間たちの前に開かれるものなんです。」


私は、そのやりとりを聞いていた。
議論というのは、両極端がぶつかりあった方が面白い。
中間的の立場では、議論をしても影がうすくなる。歯切れも悪い。
私は、おしっこのがまんをしていて、その方ばかりを気にしていた。
だが、私は、未来学者の主張のあまりの勇ましさに、がまんしきれなくなって、口をはさんだ。討論に来た以上、参加しなければならぬ義務感もあったからである。私はいった。


「科学技術の進歩によって、公害問題は解決できるといわれましたが、あなたに自信があるのですか」

「自信があります」

断乎とした口調で、相手は答えた。

「それで、あなたは科学者なのですか。自然科学者なのですか」

「いいえ、未来学者です。経済学を勉強しました」

私は、困った顔でいった。

「私は、科学者のかたわれです。医者です。
だが、私は自信をもって、解決できるなんでいえないのです。
たとえば、医者だからいうのですが、ある人たちは、すべてのガンの治療は一九八〇年までに、薬で克服されるといいます。
しかし、まだ、その薬は、発見されていません。
だから、これから、発見しなければならないのです。
ところが、発見には運とか偶然がつきものです。その運や偶然を、科学者としては、期待できないのです。だから、別の面でも、同じではないか、ぼくは、そう思うんですがねえ」

相手は、私を見て、情けない科学者だという顔をした。

「どうして、あなたは、悲観的なのです。ガンの研究だって、大変な進歩をしているじゃないですか」

「それはそうです。もう、あと一歩という感じです。でも、エベレストの登山だってそうでしたが、あと一歩というところまで行っても、それからが難しいのはないですか。そりゃ、いつかは解決できるでしょう。ガンの問題もねえ。それから、公害の問題も。
だけど、公害によって、人類の大半がほろびる前にそれをやれという、タイムリミットを与えられても、自信をもって間にあわせられるだろうということは、できませんねえ」

「でも、人間にだって、公害に対する抵抗力というものがあります。次の世代は、公害になれるでしょう」

「いやいや、個人の適応力には限度があります。だから、現に公害病がでているのです。突然変異で、公害に強い人間が生まれることを適応と呼ぶのです。これは不可能でしょう。世代の交替が非常に多ければ、それも考えられます。たとえば、細菌のように、一日で、数十世代も交替するようだったら。でも、一世代が二十年かかって交替するような人間に、二十年で突然変異は可能性として考えられませんね」

相手の未来学者は、私にいった。

「あんたはまったくのペシミストですなあ。よく、これまで生きて来られたですなあ」

私は、今、その三年前のことを思いだす。
そして、私は、いよいよ自信をなくしている。
まったく、よく生きていられるなあと思う。たしかに、未来学者のいったように、科学の進歩は、いくつかの公害対策の技術の開発をみちびいた。排気ガスの基準に合格する自動車のエンジンも作られた。お前たち生徒も知っているように、私は十万円も高い金を出して、その公害対策車なるものを買った。だが、依然として、東京の空気は悪くなる一方な。なんだか、そんなものは、焼石に水のような気がするのだ。そして、最近の、水銀魚事件である。海の汚れはひどくなっている。私は、三年前、何もこのんで、暗く見ていたわけではない。私は、ペシミストだったわけではない。ただ、ありのままを見ていたのだ。私は、科学の進歩を、頭から否定はしない。ただ、進歩は着実にあっても、公害のひろまりとの追いかけっこごっこで、科学に分がなさそうだと思っただけなのだ。


  • ISBN-10: 4122004675
  • ISBN-13: 978-4122004672

  • なだいなだ

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