2023年1月10日火曜日

20230109 中央公論新社刊 石光真清著 石光真人編 望郷の歌 - 新編・石光真清の手記(三)日露戦争 (中公文庫)pp.94-98より抜粋

中央公論新社刊 石光真清著 石光真人編 望郷の歌 - 新編・石光真清の手記(三)日露戦争 (中公文庫)pp.94-98より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122065275
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122065277

凱旋祝いや挨拶廻りに数日過ごした後のこと、老母が遠慮がちに私の考えを質した。「どうお考えかい」

「まだ、頭がまとまらないのです。もう暫く保養してからにします」

「そうだね、それがいい、もう当分は戦争もないだろうからね」

「はい・・・」

 これだけの問答で終わったが、私の胸には覚悟を促す強い言葉として響いた。その頃すでに軍を退いて貴族院議員になっていた叔父の野田豁通を訪うと、

「あせるなよ、いいか、ゆっくりやるんだよ」

と言い、参謀本部の田中義一大佐は、

「僕に考えがあるから待っとれ」

と言った。

 凱旋後の一カ月余は、御陪食とか歓迎会とか送別会が続いて気がまぎれた。弟の真臣を始めとして出征した親族も幸い無事に帰って来た。だが落ち着いて周囲を見廻すと、遊んでいるのは私だけであった。自分が職を持っていないと、ひがみではないが、とかく職場の人々を訪ねずらくなる。遠慮がちになるのである。すると自然に世間から孤立していくような淋しさを感じた。戦前にハルピンの写真館で生死を共にした人々には、満州に残して来た写真館を始め視点の類一切を無償で提供するほかに、何一つ与えるものがなかった。それ以上には頼りにならない境遇の私を諦めて、ちりぢりに去って消息を断ってしまった。

 こうして三カ月余り、なすことなく過ごしているうちに、花の季節がめぐって来た。その頃の私には、家からほど近い青山墓地の静かな桜並木の散歩が楽しみになっていた。香煙のただよっている新しい墓に立ち寄ると、きまったように陸軍歩兵上等兵何々の墓というように、ほとんどが戦死者の墓であって、例外なしに新しいお花が供えられていた。勝ったとはいっても、この大戦争の傷痕は深く広くえぐられていて容易に消えることはないであろう。ある時は幼い長女の手を引いて赤坂見附、三宅坂、九段、上野と・・・永年の間楽しめなかった桜の下を、たんのうするまで歩き廻った。明け暮れ家族と遊び暮らしているうちに、いつの間にか心の中に大きな穴があいているのに気がついた。埋めようとしても埋めきれないほど空虚な深い穴が、ポッカリと口をあけているように感じたのである。それはいけないぞ・・と気がついた頃、三月二十八日のことであった。参謀本部の田中義一大佐から招かれた。

 「君の苦労に酬いるためにな、実は接収した満州鉄道の会社が出来たら、長春に勤めてもらおうと思ってね、関係方面とも協議の上で名簿の中に加えてあるんだが、どうも会社の設立が思うように進まん」

と、南満州鉄道株式会社設立が、戦後の資金難と米国の鉄道王ハリマンの協同経営申し入れなどの国際問題がからんで、本格的に発足できないでいる事情を説明した。

「いつまでもぶらぶらしとるのは苦しかろう。どんなもんだろうな、もう一度満州に行ってみる気はないかね」

「・・・・」

 満州と聞いて私はぐっと言葉が詰った。田中義一大佐も敏感に私の心の動きを感じたらしい。声を落として言った。

「家庭の方はどうかな、そう永いことは要らん、まあ二年か三年かな・・・」

「どこですか」

「蒙古だ」

「仕事はなんでしょう」

「ゆっくり調査でもしとればいいさ、そのうち鉄道の方も片付くだろうからね」

私はこの話が田中義一大佐の非常な好意によるものであることを覚った。

「やりましょう、どうせぶらぶらするんなら蒙古の方が遠慮がなくていいです。内地ではどうも遊んでいるわけにはいきませんし・・」

と私が答えると、今度は田中義一大佐が心配の色を眼に湛えた。

「いいかな、そんなに簡単に承諾して」

「いいです。ほかにやることはありませんし・・そろそろ、やり切れなくなってきましたから」

 田中義一大佐は笑い出した。

「先方に落着いたら、どうだね、今度は奥さんたちを呼びよせたら。もう危険はないしな」

「いつからですか」

「正式に参謀本部の所管になるのは遅れると思う。気の毒だが、とりあえず陸軍通訳の名義で関東都督府陸軍付になって待機してもらえんかな」

「名義はなんでも結構です」

私はこう言って田中義一大佐の好意を受けたのである。誰にも先々の鉄道のことは話さなかった。老母は「御奉公ならいいさ」と言い、妻は「お気の毒ですね・・」と言葉を濁した。母や妻が喜ぶはずはなかった。それが判らないほど鈍感ではなかったが、私は当時何かしら追いつめられた気持でいたし、また一方では、これを機会に未来が開かれるような気もしていたのである。

 叔父の野田豁通に話すと「ほう、また行くかい、お前は馴れとるからな」と言って、これもあまり多くを語らなかった。

 このような次第で、またも私は家族と別れて、ただ一人船中の人となり、船橋(デッキ)から新緑の山々を眺めて、過去幾たびかの船出を偲んだのである。明治三十九年五月十日であった。

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