2024年3月5日火曜日

20240305 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」 pp.66‐69より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」
pp.66‐69より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

言語だって、二十世紀になってから、ずいぶん意識的に考えられるようになったわけだろう。言語に対する、ある種の不信といってもいいかな。

 そこできみに聞きたいのだけど、どうだろうね、純粋に意味というものを媒介にして、言語を普遍化する場合、それは意味の普遍性に対する信頼だね、ちょうど数字の記号みたいに、記号に対応する内容は、一応客観的な普遍性をもっている。もう一つ、言語はさまざまなイメージを誘発する。同時に一つのイメージが、さまざまな言語を必要とする。しかし、その間の操作さえ適切であれば、その言語が、ある普遍的イメージを誘発し得るという信念がありうる。第三は、言語自体に対する信頼だ。意味やイメージは疑わしいものだが、言語そのものを、それ自体として信じる立場。言語に対する信頼にも、こんなふうに、いろんな立場や見解があるわけだな。これも結局、二十世紀になって、言語に対する総体的な信頼が失われたために、そんなふうに分析的になっちゃったわけだが、どうだろうね、われわれとしては、今後の文学上の課題として、いったいどういう立場を選ぶべきなのか・・・。

三島 文明社会のなかのセックスの映像は言語で媒介されるのだから、言語はばい菌みたいなものだからな(笑)。

安部 それはそうさ。言語を媒介しなければ、なんだって無害なものさ。

三島 有害じゃない。言語というのは非常に猥雑だからな。

安部 しかし、なにも疑わないで言語を使っている文学が、依然としてわれわれの周辺には多いのだよ。

三島 それはもうどんな時代でも、きっとあったのだろうと思うよ。いまほどではないが。

安部 でも、言葉に対して、一見いかにも厳しそうなことを言う人がいるね。日本語の美しさとかなんとか・・・。

三島 おれもよく言うのだよ(笑)。

安部 きみも言う。おれはあまりいい傾向だとは思わないけれどね(笑)。だいたい、そういうことを言う人が、本当に言葉に疑いを持ってみたことがあるのかどうか。その疑わしさを前提にしないで、厳しさだけを言ったところで、それはただ規範を外に求めるだけだろう。そういう疑わしさも持たない前時代的な文学が、無神経に文学として通用しているとことは・・・。

三島 きみのを聞いていると、つまり日本のくだらん小説を頭のどこかにおいてる・・?

安部 うん、大多数の小説の普遍的状況だな。

三島 そうか。

安部 それはおく必要ないか。

三島 おく必要はないのではないか。おれはきみの話を聞いていてね、きみが三つ出したから、その三つの類型について一人一人具体的にきみのあれを聞きたいな。その一つにはこういう作家がいる。第二にはこういう作家がいる。日本人でも西洋人でもいいけれども。

安部 類型は図式だから、それほどすっきり現実に適用するわけにはいかないな。しかし、アンチ・ロマンの出現なんかは、やはり意味とイメージと言語の関係の再検討だろうし・・。やはり言語の疑わしさというものを、これからの文学を考える場合には、考えざるをえないのではないか・・。

三島 なるほど。それでね、純粋言語という問題が出てくるけれども、いま言語から夾雑物を取り除いて、そうして言語からコンベンショナルな観念をみな取り除いて、言語が成り立つかどうかということは、シュールレアリストがやったことだよね。それから十九世紀にそういう試みはたいていされていったのだけれども、絵なら絵というものが、絵の言語を、どうしても絵だけしか通じない言語をもちたいというのが、印象主義の芸術だと思うのだよ。そういう傾向はどこから出てきたかといえば、ロマンティックが何もかもごちゃまぜにしちゃった。これではいけないというので、みながそれぞれ考え出したのが、それからあとの傾向だと思う。二十世紀にきたら、そういう純粋言語に関する実験というものは、少し古くなっていると思うのだ。

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