2017年1月22日日曜日

20170121 最近読んだ著作から、顕教・密教

ここ最近は新たな長編小説などは読んでおりませんが、相変わらず何かしら新しい書籍は読んでおります。
その中で特に面白いと思ったものは森鴎外著「ヰタ・セクスアリス」であり、この著作に描かれていることは、現代社会でのさまざまな出来事を考えるうえにおいても、なかなか興味深く、有意義ではあるまいかと思いました・・。

とはいえ、同時にこの著作とは、おそらく当時の男性に向けて書かれたものであり、また現代においても女性からの共感を得ることは難しいのではないかと思われます・・(笑)。

さて、この著作冒頭部のなかで執筆当時に流行していた自然主義文学のことを「理解し難い」と描いておりましたが、こうした感覚とは後年の批評家、小林秀雄とも共通しているのではないかと思われます・・。

また、同様に、現代の我が国が世界に誇るノーベル文学賞の候補ともなっている某作家の諸著作に対しても、おそらく、それと類似した評価となるのではなかろうか?と思われるのですが如何でしょうか・・?

そして、そのように考えてみますと、今度は、時代毎に世に広く受け入れられている文学、音楽などの文化的事物とは、果たして本当の意味で優れているから受け入れられているのであろうか?あるいは、それらの人気の源泉となっているものとは一体何であろうか?と考えてしまうのです・・。

そして、そこから仏教用語の顕教密教といった概念に思い至るのですが、おそらく、世に広く受け入れられる事物とは、概して顕教的な意味合いが強く、それに対し、広く受け入れられないにしても何かしら深く、普遍的な価値を持つと認められる事物とは、密教的な意味合いが強いのではないでしょうか・・?

さらに、こうしたことは、ある程度文明が発達した社会に概ね普遍的に認められることではないかと思われます・・。

そして、それら(顕教、密教的な事物)とは、同時代、社会において、さまざまな相互作用が為され、そこから新たな文化全般の母胎ともなる時代精神が醸成されるのではないでしょうか?

それ故、双方共に有意義であると同時に、平和裏のみの共存とは実は望むべきものではないのかもしれません・・(苦笑)。

また同時に、双方のうち何れかの要素が社会において勝りすぎても、それは普遍的な価値を持つ文化の創造という観点からは好ましくないとも考えられます・・。

とはいえ、その観点から考えて現代の我が国の社会とは、果たして多少なりとも良い方向に向かっているのでしょうか・・?

こうした問い、疑問とは、これまで多くの著述家、研究者などが考え、それを著してきましたが、近代以降の我が国の場合、どうも夏目漱石著「三四郎」冒頭部での会話、あるいは同著者の「現代日本の開化」などを思い起こしてしまうのです・・。

そういえば本日ハリウッドにて製作された遠藤周作原作「沈黙」の映画作品が公開されたようです・・。

この著作はこれまでに何度か読みましたので、少し楽しみです・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。




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