2015年10月19日月曜日

徳力彦之助著「銅鐸は生きている」白川書院刊pp.43-50より抜粋20151015

銅鐸について 4 および「小林秀雄対話集」講談社文芸文庫pp.223-229より抜粋とあわせて読んでみてください。
また
小林秀雄講演 第8巻
小林秀雄講演 第8巻
↑上に示すCDの「勾玉のかたち」の講演内容が今回の書籍抜粋内容と関係していると思います。

鐘巻銅鐸
冒頭に道成寺境内にて江戸時代に銅鐸が出土していることをお知らせします。

以下書籍抜粋です。
釣鐘とは、あらためて云うまでもなく、お寺に付属した仏具の一種である。
お寺とは、立派な国宝になるような仏像が祀られて居る所である。
そして又、そこには、行いすました高徳の聖が、その寺を守って居て、たまたま来合せた観光客に対しても、その人が、信不信にかかわらず、何か神秘な感情をもって、心にすがすがしい気持を懐かせてくれる清浄な場所がある・・筈だと、一般人は思い込んで居るのである。
その聖地?にある仏具の一種!釣鐘、それが妙な象徴の芸術だと云って見た所で、一般の読者は、いや、それは心理学者がよく使うテスト用のインキのしみ(ロールシャッハ)みたいなもので、見方次第では、どのようにでも見えるものなのだ。
この筆者は、よほどHな野郎だぐらいに思われるかも知れない。
だが、お寺と云うものは、私に云わせれば、本来、汚水処理場の如きものである。
汚物も流れ込むし、悪臭も発生する。
それを、どうにか浄化して世間に還元する。
お寺は人間精神の浄化作用をいとなむ所であって、お寺自体が、汚れのない所ではないのである。
なるほど、表面はきれいである。が、きれいな事ではすまない汚物が、沢山溜まって居る所なのである。
なる程、お祀りしてある仏様も立派だ、高徳の聖も居る。
しかし、それだけで存続し得るお寺はない。
次代を背負う筈の若い僧侶も沢山集まって来なければならない。
これらの血気盛んな僧侶の卵たちは、この時点では、聖者でもなければ、高僧でもない。只の若者である。
寺は、昔は、女犯は固く禁じられて居た。
こうした大勢の若者が、一定の場所に閉じ込められて禁欲生活して居ると云うことはどういう事になるか。
大きなお寺の附近の民家では、若い娘は、あぶなくて家に置く事も案ぜられているほどなのである。
高僧たちが、自らの経験を生かせての温い思いやりから、境内の目立たぬ所に鐘楼を築いた事は、実にうまい考えであった。
そして、この思い付きを受けて、これに答える作品を造り上げた制作者は、実に立派な芸術家であったと私は思う。
一皮むいた中味は大へんなしろ物にもせよ、それをここまで立派な芸術に、昇華せしめた腕前は大したものなのである。
このような見事な象徴芸術は、世界でも類が少ない。
そしてこれが、何らの祖型もなく、試作らしいものも残って居ないで、いきなり一発で仕上げられたとなれば、それこそこの作者は天才中の天才である。
レオナルド・ダビンチや、ミケランゼロ光悦などが、百人も束になってかかっても、かなわない程の大天才ではなかったかと、私は思うのである。
[七]すり替えの芸術
これまで、私はしばしば、象徴とか、抽象と云う、かっこいい言葉を使って来た。
しかし、これらの言葉のもつ内容は大変あいまいでもあるので、ここではもっと明瞭にとらえて貰うために「見立てる」と云う言葉と、「すり替える」と云う言葉を使って説明する事にする。
銅鐘が陽物の象徴であると云う事は、さらに明確に云うと、そのように「見立てる」事が出来ると云う事と、陽物を銅鐘の型に「すり替えた」と云う二つの見方が成立する。
たとえば剣がある。矢が、又はステッキがある。これらは昔から陽物に「見立てられ」て居る。云わば、陽物の代名詞として使われて居る事は、御承知の通りである。
知り合いの誰かに子供が生まれた。
男の子か女の子かを問うかわりに陸軍さんですか?海軍さんですか?或いは大砲ですか、軍艦ですか、と問う。
陸軍または大砲が男の子で、海軍または軍艦が女の子である事は云うまでもないが、これらは、もともと男の子や女の子を象徴するために造られたものではなく、ただ世人が勝手にそのように「見立て」て居るだけである。
こう云う見立て方は、世界中共通であって、印度では象が、ヨーロッパではお寺のドームが陽物に見立てられて居る。
釣鐘が、そのように「見立て」られても一向に不思議ではない。
ところが「すり替え」の方は、それと反対である。
例えば何か、その正体をはっきりする事が出来ない事情がある。
そうした場合に、その正体を明確にしないで、他のものに似せて見せるのである。
一例を挙げると、マリヤ観音と云う仏像?がある。
徳川期に切支丹が禁じられたので、マリヤの像を安置することが出来なくなった信者は、観音の形に似たマリヤ像を造ってこれを祀った。
外観は観音像であるが、内容は全く違ったものに「すり替え」られて居るのである。これは観音像をマリヤに見立てたのではなく、初めからマリヤを造るべくして造ったのである。中国には換骨奪胎と云う言葉があるが、全くその通りである。
釣鐘の場合でも、男女の性技と云ったものを、そのものズバリと表現する事は、太古は自由であったにしても、次第にモラルが発達するにつれて、その自由がはぐくまれてくる筈である。そして、そのものを別の、さりげないものにすり替える知恵が発展してくるのである。釣鐘の創作は、丁度、その時期に遭遇して居たのである。
この場合、すり替えの内容を知って居るのは、一部直接関係のあった人だけで、この事を知らされて居ない人には、たとえそれが製作に関係あった人と雖も、そのすり替えに気付かずに居た人も多いと思う。このような作品は概して模倣する事は簡単であるが、それは単に外観だけの、表面に現れた形式だけの模倣にとどまるので、その内容を知らされて居ないため、必ず、どこかに形くずれが出て来るのである。その反対に、内容を知って居れば、その面では、益々精緻となり、完成への道が、積み重ねられるのである。若しも、この釣鐘が中国や朝鮮の模倣であって、その内容を知らずに日本で真似て造って居たものとすれば、これらの鐘は、その時点から型崩れが起きて居る筈であるが、事実は、白鳳の頃から始まった鐘造りは、平安から鎌倉期へかけて次第に精緻になっては行くが、型崩れはないのである。この事実は、その鐘の内容が何であるにせよ、それが工人から工人へ正しく内容が受け継がれて居たことを物語って居るのであって、この場合、たとえ祖型が中国・朝鮮であったと証明されたとしても、その祖型の上に、日本人の独創的な「すり替え」行われて居たと考えても大きな間違いはない筈と考えられる。所が、南北朝以降になると、どう云う理由だか、初めて型崩れが起きて居る。これは恐らくこの頃に、その創造の意図に関する伝承が断ち切られて、模倣だけが引き継がれた結果だと私は思う。このことは、現存する梵鐘の写真を見ても、どこまでが創造の積み重ねで、どこからが単なる模倣であるが、一見して見別けがつくが、その事は、しばらくおあずけにして置こう。ただ、この見事な創作品を前にして、せっかく長老たちが造ってくれた思いやりの作品を、あまりの見事なすり替えのために、俗物の塊りである若僧たちが、この贈り物の真の意味を理解出来たかどうかと云うのが、私らの心配の種なのであるが、そこは老婆親切で、ちゃんと解説まで用意してあると云う、至れり尽くせり振りであった。それは、道成寺縁起と云う、平安時代の中頃に出された「大日本法華検記」に出て居るのである。道成寺物語りの粗筋は、大抵の人は御存じの筈であるから省略するが、結末は、安珍が逃れて鐘の中へかくれると、追いかけてきた清姫が、毒蛇(竜)になって、その鐘を取り巻き、鐘は焼けて炎を挙げる。そのクライマックスの場面は、鐘胴と竜頭の関係を劇化して見せて居るのである。俗世間の我々仲間では、こんな話を聴いても、一向にエロでもなんでもないが、これが、抑圧された禁欲の世界の人達の間にあっては、まことに刺激的であったかも知れない。鐘楼はどこの寺でも、目立たない場所に造られて居る。寺では、初夜(午後八時)後夜(午前二時)に鐘を撞く。撞くのは若僧の役目である。暗夜の鐘楼での空想は、身、あたかも道成寺にあって、毒蛇に追いつめられるの思いを打ち消すのに、如何ほど苦労したことかと想像されるのである。所が、とんでもない道化師が飛び出した。頃はちょうど南北朝時代である。その名を観阿弥と云う。観世流謡曲の祖である。彼は、この道成寺物語のストリーを失敬して謡曲「道成寺」を作詞作曲したのである。観阿弥はもとより、釣鐘の裏側にこれほどの苦心があるとは知らない。ただ道成寺物語の筋書を頂戴しただけであるから、そのクライマックスの場面で、清姫が鐘の中へ入って、蛇体に変じて出て来ると云う、舞台技術上での変化に持って行ったのである。坊主が鐘の中へ入ると云うのは、安珍が鐘胴にすり替わり、大きく、固くなったところに話のおかしさがあり。その上へ、竜が襲いかぶさるから、人々はなる程と思うのであるが、女が鐘胴とすり替わったのでは、何の意味なのか一向に説明がつかないのである。模倣とは、この様に、その時点でたちまち型崩れが起きるのである。ちょうど、この観阿弥の出た頃、梵鐘にも乳の町のないものや、袈裟襷の乱れたものが出て、一般的には竜頭の型が崩れて、間延びして居るので、この頃が釣鐘の創造精神の断層であると、私は見て居るのである。親鸞聖人が妻帯を断行した後の時代でもあるから、も早、釣鐘の持つ特別な目的は不必要となったので、単なる鳴器としての梵鐘だけが残ったのであろう。話は別だが、今日、道成寺と名付けた歌舞伎や、おどりが十数種もある。いずれも女が鐘に入りこむタイプである。一犬虚をほえ、万犬実を云うのか?ここまで間違って来ると、如何に立派に演出されても、何だか白々しくて見る気が起こらないものである。
銅鐸は生きている
ASIN: B000J9GPVK

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