2015年9月22日火曜日

「加藤周一対談集 歴史・科学・現代」 ちくま学芸文庫刊 pp.135-140より抜粋

科学の「進歩」
加藤(周一) 科学の「進歩」という概念は、必ずしも人間的価値の実現とか、それ自身いいものであるとか、ないとかいうこととは別に、人間社会の進歩というようなことと直接結び付けないで、定義できるのではないでしょうか。知識がだんだん増大して、より美しくより純粋な形でその知識が叙述され、それによって自然をコントロールする力、あるいは社会科学なら社会をコントロールする力が増大するということ、これをかりに「進歩」というとすれば、その「進歩」ということは、今までもあったし、これからもあるでしょう。
ただ、今までは、その進歩が自動的に人間にとっていいことであると考えられてきたけれども、今では科学の進歩が人間にとって悪いことかもしれないという問題につき当たっているということじゃないですか。ただ、進歩の概念そのものをそういうふうに定義すれば、進歩は止まりそうじゃなくて、どんどん行きそうじゃないですか。

湯川(秀樹) その辺なんですが、近ごろいろんな人がいろんな問題提起をしておりまして、たとえば十九世紀的な考え方ですと、科学の進歩はつまり人間社会の進歩でもある。その区別は本来あるはずだったけれども、ほとんど区別がないと思ったのが近代の西欧社会でしょうね。ところが、二十世紀も後半になりますと、その関係がひじょうにおかしくなってきた。西洋たると日本たるとを問わず、科学の進歩といっても、やはり自然科学の進歩が主になっていて、それと人類とか人間社会というものの進歩とはどういう関係があるのか。
少なくとも二十世紀前半までのほとんどの人は、科学の進歩と人間社会の進歩とは、だいたいとして並行している。そんなに食い違っていないと思ってきた。ところが、今やそれらが食い違ってきてるんだというくらいのステートメントなら、全く常識化している。ところが、むつかしいのは、科学の進歩は急に止まるわけではない。ほんとの進歩かどうかは別にして、いわゆる進歩なるものはなかなか止まらぬ、また止めるのがむつかしい。社会に対する科学の影響力は圧倒的に強いということがありまして、ですから、別の基準で、人間個人、あるいは人間社会、あるいは人類全体についての価値体系みたいなものをかりにきめておきましても、そういうものは浮き上がっちゃって、科学の進歩に流されてしまうということが、ふり返ってみると、今までは、確かにあった。
そこで、これから先はそういうことがないようにしようと思っても、実際は大変なことだと思いますね。さきほどから芸術論について私がちょっとお聞きしたのは、芸術のように本質的にサイエンスと違うものでも、実際相当流されているんじゃないか。つまり抽象芸術なんかが盛んになるのは、芸術自身の必然性もあるけれども、やはり科学文明に流されるというと言葉が悪いかもしれんけれどもそういうこともあるんじゃないですかね。

加藤 それは強いと思いますね。科学的な考え方が芸術家に強い影響を与えていると思いますね、科学的進歩の芸術への影響には、およそ三つぐらいあると思いますが、一つは、科学者の考え方が直接に影響する。もう一つは、科学的な考え方が大衆化されるというか、普及して社会全体のなかに一種の大衆化された形での科学主義が成立して、それがその社会に生きている芸術家に影響する。それから三つ目は、科学者の考え出したことが技術と結びついて、その技術がいろんな媒体をつくり出す。そのために社会が変るし、芸術家の利用する事のできる材料や表現手段も変り、芸術がそのために影響を受けるということ。たとえば、音楽家の場合に、電子音楽というのは、あれは科学の影響というよりも、科学者の仕事がもとになって電子工学が発達して、ああう機械ができるようになった。要するにピアノが出すよりもたくさんの音が自由に出せるということになったために、今度は音楽家の手に渡って、音楽家が何かやってみたいということがあるような、そういう影響、それは三番目だと思います。第一の影響についていえば、たとえば一人の音楽家をとった場合に、音楽家自身、音楽に対するアプローチというか、態度が科学者のものの考え方に直接影響されているという面がある。それは方法的・分析的な考え方だと思うんですね。芸術制作の過程そのものに芸術家が意識的になり、分析的になって、その過程を方法化しようとする。分析的・方法的な形で芸術的な制作を考える傾向は、科学者の科学的なものの考え方の芸術家への直接の影響だと思うんですよ。それから第二の影響は、たとえば、音楽家が金属的な堅いキーキーいう音を出しますね。大衆化された科学といいますか、能率的によく動く新幹線とか、高速道路とか、そういうものの浸透した社会のなかで我々は生きている。ところが、モーツァルトは、十八世紀のいなかの貴族の別荘で弦楽合奏用の曲を書いていた。
今ミュンヘンならミュンヘンの高速道路でスポーツカーですっ飛ばしているという状況のなかでは、音楽家自身がモーツァルトよりもキーキーいう音を使うようになるということがあると思うんです。それから三番目は、南ドイツ放送局が電子音楽の機械を持っているので、それを使ってやろう、その機械を使えばキーキーいう音を出したければ出せるので、それを使って出すという。こういう三段階で芸術家のなかに科学が直接入ってくるんだと思いますね。
湯川 私は音楽はまりよくわからんので、ただ理屈しかいえないんですけれども、西洋音楽は―東洋の音楽はそれほどでもありませんけれども―ひじょうに古い時代からサイエンスと密接な関係がありまして、たとえばピタゴラスというような人は、数理的な性格を持った科学、そういう意味での精密化学の原点に立っている人の一人ですね。その後からデモクリトスのような人も出てくるわけですが、ピタゴラスは弦の振動のような最も単純な楽器による音楽と数―といっても整数―との間の関係を発見したわけですね。ですから音楽の原理的なものと、物理の原理的なものとは、そこで密着しておったといってもいいわけですね。それからいろいろに変っていきますけれども、西洋音楽というのは、どこまでいっても数学や物理とわりあい近い関係にあった。第一、西洋の楽譜を見ますと、あれは典型的なディジタル情報ですね。つまり、整数あるいは、もう少し広く台数的な数をあらわしているわけですね。連続的なアナログ情報ではない、ディジタル情報に従って演奏する。ハーモニーといったって、みなそうですわね。もちろん音の強さとか音色とかいう点になると、ディジタル情報で片付けられないでしょうが・・。それに比べて東洋の音楽は、もっと違うわけでしょう。ディジタルな情報でない部分が多くて、個人差みたいなものが、大きくものをいうようですね。しかし、それだって、実は程度の違いにすぎないのかもしれませんね。音譜に全然あらわせないのじゃなくて、近似の程度の問題だという見方もできましょう。ですから、とにかく音楽というのは、芸術のなかでもさきほどの彫刻とか絵画とかいうものとずいぶん違っておりまして、たとえば肖像画というものを考えると、肖像画である以上は、誰か、人間というひじょうに複雑な、しかもユニークな対象がありまして、加藤さんなら加藤さんがおられて、そのエッセンスを如何に表現するかというわけですね。これは数に還元する、あるいは数に対応づけるのとは、非常に違いますね。そういう違いがあって音楽と絵画というのは性格が大きく違うわけだけれども、そして、民族によって事情は多少違うわけでしょうけれども、やはり音楽の方が科学文明との並行関係は、より強いのじゃないですか。

加藤 それはおっしゃるとおりです。

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