2015年9月22日火曜日

加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑摩書房刊pp.184-187より抜粋

奈良時代の日本の支配層は、大陸文化に圧倒され、その消化に忙しかった。9世紀には、輸入された大陸文化が「日本化」され、日本流の文化の型が、政治・経済・言語の表記法・文芸と美的価値の領域に、成立した。
その日本流の型は、次の時代、10世紀・11世紀(摂関時代)に完成されて、12世紀末(院政期)までつづく、その間大陸との交渉はほとんどなく、極東の島国はアジアの全体の中で孤立していた。
この孤立の300年は、この国の歴史のなかでは、第一の鎖国時代であり、その長さにおいても、社会と文化の体系の自己完結性においても、17世紀初めから19世紀末に及ぶ第二の鎖国時代に匹敵する。

島国の内部で起こったことは、第一に、貴族支配層が外来の文化と土着の習慣とを融合させながら、内的斉合性の著しい自己完結的な一箇の文化体系(平安朝文化、王朝文化などの名でよばれる。) をつくりだしたことである。
その包括的な体系は、政治権力の構造、その経済的背景、信仰体系、生活様式、文芸の形式と内容、美術の様式のすべてにわたり、明瞭な特徴を示すものであった。
第二に、本来大陸から輸入された要素、殊に仏教が、広汎な大衆の層へ浸透するようになり、その結果大衆の世界観が変わった以上に、仏教そのものが変わったということである。仏教的な支配層と非仏教的な大衆との平行線は、この時代に「日本化」された仏教を媒介として、近寄ったといえる。
まさに支配層内部の知識人の大陸型と土着型が、この時代に、「日本化」された漢文と漢文化された日本文を媒介として近寄ったように。

時代の権力機構は、1011世紀には「摂関政治」11世紀末から12世紀には「院政」という言葉で要約されるものであった。
前者は律令制の制度的な枠組みを崩さず、したがって天皇の形式的な権威を保存しながら、実質的には藤原氏一族が全く排他的な専制権力を行使するものであり、後者は天皇・藤原氏政府の権力と平行して、引退した天皇(上皇、しばしば法皇)が独立の権力機関をつくるものである。
「院政」の成立は、藤原氏の権力独占によって疎外された支配層内部の要素の不満が、どれほど大きかったかを示している。
天皇家、藤原氏以外の没落した貴族、律令制に依存したところの中・下級貴族(殊に地方官)、地方の名主、武士層など。

経済的に見れば、この時代を特徴づけていたのは、いうまでもなく「荘園」である。
律令制の枠の外で、「荘園」という私的大土地所有に依存する度合が大きかったという点では藤原氏権力と院政権力との間に、本質的なちがいはなかった。
「院政」が律令制への復帰を徹底し、中、下層貴族を藤原氏に対して組織できなかったのは、そのためである。
経済的には不在地主、身分的には天皇家と貴族、社会的には宮廷を中心とした都会的支配層の第二の権力が、地方の名主・武士層を動員して、第一の権力に対抗することは、あり得るはずがなかった。
要するに貴族支配層の内部で9世紀からはじまった政治・経済的権力の集中の傾向は、10世紀以後律令制を形骸化しながら、天皇家と藤原氏、大貴族と中・下級貴族官僚、中央貴族と地方の名主・武士との間の矛盾を強め、12世紀に「院政」を介して、自己崩壊へ向ったということができる。

しかし政略結婚を通じて天皇を一族のなかに組み込んだ藤原氏の権力の独占は、少なくとも200年の安定期をつくりだした。

宮廷を中心にした閉鎖的な貴族社会は、その成員の組み込まれの度合いにおいて、またその排他性において、日本史上まさに画期的なものであった。
宗教も、芸術も、文学も、風俗も、相互に県連した一箇の文化の全体として、その社会に組み込まれ、社会はその文化を制度化し、形式化し、恒久化するためにおどろくべき力を発揮した。
宮廷社会内部の文化的秩序をかき乱す要因は、大陸からも来なかったが、大衆からも来なかった。

アジアで孤立した島国のなかで、宮廷社会は孤立し、しかもその宮廷のなかで、女房社会は独立の単位的な小集団をつくっていた。
比喩的にいえば、鎖国のなかに鎖国(貴族社会)があり、そのなかにより小さな鎖国(女房社会)があったのである。文化の「日本化」の過程は、鎖国条件のもとで、文化の集団への組み込まれの過程と平行していた、ということができるだろう。


  • ISBN-10: 4480084878
  • ISBN-13: 978-4480084873


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