2015年9月22日火曜日

中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」中央公論社刊pp.325-328より抜粋

ところで、日本の金属器文化の受容は甚だ特徴的なものであった。それは遠くメソポタミアを出発した青銅器文化と鉄器文化とが、ほとんど時を同じくして、西暦紀元前後に到着したからである。

即ちメソポタミアから日本まで、青銅器文化が伝播するにはおよそ三千年ほどかかったが、鉄器文化は約一千年で同じ道程を踏破したのである。

つまり鉄器文化の出発がおよそ二千年ほど遅れていたから、両者はほとんど同時に到着したことになったわけである。
アジアの東西を貫く交通の大幹線において日本はその東の終点である。これから更に東は太平洋があるから進みにくい。
この終点で、青銅製の幌馬車と、鉄製のトラックとが同時についたから、さあ大変だ。今まで新石器時代の惰眠を貪っていた日本人は、上を下への大騒動を演じた。

新しい文化が輸入されるということは、今まで大した価値のなかったものに急に値が出たことを意味する。

先ず第一に値が出たのは人間だ。人間をつかまえて楽浪郡へ持って行けば奴隷として買ってくれる。その代価に鏡だの刀剣だのをもらって帰れる。楽浪郡まで行くには船が大事だ。
そこで船にする材木に値がでた。山から木を伐り、船をつくるには労力が必要だ。労力の根本は食物で、食物は土地から出る。そこで今度は土地に値が出た。新開地は新しい交通線の出現によってブームに沸く。将来どこまで発展するかもわからない。こういう形勢を見てとって、いわば大急ぎで広い土地を買い占めて大地主になったのが大和朝廷家だ。だから日本の古代文化の性格は、それがターミナル文化だと言う事が出来る。そしてターミナル文化の特色は、植民地的であって、自然資源を売り出して、製造品を買い入れることにある。日本は由来資源の貧弱な国だと言われるが、そうひと口にいって棄てたものでもない。値段さえ安ければ商品は必ずどこかへ売れて行くものだ。日本には海産物があり、分相応の貴石があり、材木があり、そして悲しいことには人口が多い。日本古代の奴隷の輸出は、労力の輸出の一形態である。
それは海外移民や出稼ぎや、あるいはまた商品のダンピングと、根底において共通のものがある。しかしそれだからと言って、まんざら悲観的にばかり考える必要もない。人口が過剰だということは、どこかに暮らし易いところのある証拠である。「日本書紀」などを見ると、時々天候不順のために飢饉の起こったことを記しているが、しかし日本の飢饉はまだ被害の軽い方である。世界中、どこを探しても地上に極楽のようなところはない。大きな資源はあればあるで、あるにつきまとう悩みの種はつきぬ。土地の肥沃な所では安心して人口が増えたときに、急に飢饉に襲われると、目もあてられぬ惨状を呈する。また資源の所有権をめぐって、食うか食われるかの残忍な殺し合いが常に起こっていたのである。例えば日本が初めて経験した今度の世界大戦における原爆投下のようなことを、大陸の人民は古来何度となく経験してきたのである。それに比べれば日本の歴史はまだましな方だ。

ターミナル文化は、中央と地方の文化の落差の最も激しいのが特徴である。特に日本の古代の場合、その文化の傾斜は落差がひどく、まるで滝の様な格好で大陸から日本へ、日本ではまた中央から地方へと流れ落ちていった。即ち日本はこれまでだいたい新石器文化程度のところへ、急に大陸から、青銅器文化を飛び越えて、いきなり鉄器文化が流れ込んだのである。

戦争の上で言えば、まだ充分に団体の駆け引きの訓練もできておらぬところへ、大陸で研究に研究を重ねた末に出来上がった騎馬戦術が入ってきた。

いまさら戦車など輸入するひまはない。政治組織の上でも氏族制度の体制もはっきり規制づけられぬところへ、中国の古代帝国の触手がのびてきた。今さら都市国家どころの話ではない。こちらも対抗上、大きくまとまらなければならない。何をおいても統一だ。幸い中国とは距離が大幅に離れており、朝鮮の南部あたりで、漢の政治力の東漸が抵抗を受けている間に時をかせいで、何でも早く日本国内を統一しなければならぬ。氏族制度から一躍して古代帝国を造ろうとしているのである。多少の無理を我慢しなければできる仕事ではない。大和朝廷は地方豪族を討伐して、だまし討ちにしたり、寝首をかいたりして、遮二無二、統一の道を進んだ。勝ちさえすればいいのだ。理窟は後の人がつけてくれる。そこには後世の武士道のようなものはない。こういうやり方は、明治政府と大いに似たところがある。彼等の哲学は権力が正義であり、勝利が名誉であることだけを信ずる。しかしながら、この大和朝廷が成し遂げた統一のおかげで、日本の人民は外部世界の進歩に追いつくいとまを得て、一息つくことができたという事実も否定することができない。だから大和朝廷がその被征服民に向って、自己を謳歌しろ、と言えば、彼等は唯々としてそれを謳歌したのである。この点、後の明治政府も全く揆を一にする。
日本の統一が何故に近畿地方を中心として成し遂げられたかについては、ちょうど世界の文化が何故に西アジアにおいて曙光を見出したかと同じ理由によって説明される。大陸の金属器文明が日本へ波及する以前の新石器時代の日本において、やはり当時は当時なりの交易ルートがあり、緩慢ながら物資や智識が動いていたに違いない。

そして日本の地図を開いて見る時、近畿地方は世界における西アジアのメソポタミア。シリア地方に相当する。もしも物資や智識の集積が行われるとすれば、それは近畿地方をおいて他にない。事実そういうことが起こっていたときに、大陸から金属器文化が渡ってきたので、そのまま近畿地方が外来文化輸入のターミナル基地に選ばれたのである。大和朝廷は近畿で地歩を固めると、すぐに各方向へ向けて四道将軍を派遣した。四道へ将軍を派遣できるような位置は、日本中、どこを探しても近畿より他にない。だから日本の歴史は、大陸からの影響で展開したにもかかわらず、大陸に近い九州をさしおいて、大和平野中心として始められたのである。
アジア史論 (中公クラシックス)
アジア史論
宮崎市定

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