2015年9月22日火曜日

竹山道雄著「昭和の精神史」講談社刊pp.91-98より抜粋

「それにしても、あの歴史を回顧して怪訝にたえないのは、かつてあれほど慎重周密だった日本が、どうしてあのように大局の目途もなく作戦を拡大してしまったのだろう、ということである。

陸奥宗光の「蹇々録」は、日清戦争当時の苦心を記している。あのころの当局者は、外寇においてはあくまでも受動的で日本が戦争を欲しなかった体勢をとり、軍事においてはつねに機先を制して、これによって全体を有利に導くために経営惨憺した。成歓、牙山の役までは外交が指導し、まったく戦争になってから事を軍の統帥にゆだねた。

ところが今度はそういうことはまるでなかった。ことに日華事変はてんでばらばらだったらしい。ただ勢いに乗り、勢いに引かれて、ずるずるだらだらと最初からおそれられていた「ゲリラの泥沼」に足を踏み込んで、自分の墓穴を掘って行った。

あのころわれわれはしきりにニュース映画を見て、奥地の県城で髭をのばした日本兵が万歳を三唱している姿を見て、いったいこれでどうなるのだろうかと思った。

このようなことについては何も確証をもって知る事はできない。以下に記すのは、ただ、あれこれの本を読んで、それをおこった事実とつき合わせてみた推測である。

満州事変は、政府の意思には反していたが、すくなくともその勃発は、当時の描写を読むと、計画的だったことは疑えなく思われる。

しかし、その拡大の模様を、若槻氏古風庵回顧録」に次のように記してある。―「内閣が事件不拡大方針を定め、陸軍大臣をしてこれを関東軍に通達せしめたのに、関東軍はなほその前進を止めない。陸軍大臣にそれを責めると、そのままにして置くと居留民が危害を蒙る恐れがあるからやむをえず進撃するのだと弁解する。関東軍が吉林に進んだので、政府の方針に反するぢやないかといふと、は熈洽が大軍を擁して吉林にいて、関東軍に不安を与へるから進撃はやむをえないと答へる。関東軍が鉄道線路の西側に進出したのは、嫩江の鉄橋を守らなければならないからだといふ。それなら嫩江に止まるかと思へば()・・・。このやうに日本の軍隊が日本政府の命令に従はないといふ奇怪な事態となった」ここに弁解されているような目先の軍事的要求からの拡大ということはあっただろうが、しかし満州では全体的な計画はたっていたにちがいない。これが陰謀でなかったとしても、関東軍がかねてから万一の場合のために考えていたのは当然だったろう。

日華事変もやはり政府の意思には反していたが、ここには計画はなかったらしい。拡大の様相は前と似ていた。しかし本質はちがっていた。池田純久中将など多くの軍人の回想記がこれを切言しているが、事実もそれに符合するようだ。

日華事変は、ただその場その場のそのときそのときの軍事的観点によって拡大されたもののように思われる。―これも満州事変のように簡単に行くだろう。相手は弱い。もう一つたたけばよい。たたいておかないと反撃される。それによって生じる対外的影響は、政府が責を任ずることであって軍人は考えなくてもいい。そして、軍事行動は全て統帥権的天皇が許容するところである・・。

「米国戦略爆撃調査団」の報告に、

1937年の華北進出は、大戦争になるという予想なしに行われたのであって、これは、本調査団の行った多数の日本将校の訊問によって確認された。当時、国策の遂行に責任のあった者たちがかたく信じていたことは、中国政府はただちに日本の要求に屈して、日本の傀儡の地位に自らを調整してゆくであろうということだった。中国全土を占領することは、必要とも、望ましいとも、考えたことはなかった。・・・全面的な軍事的努力は、一度も計画されたことがなかった。」

しかもパル判事が判断しているように、おそらく盧溝橋か永定河をもって本格的な全面戦争ははじまったのだろう。そして日本は、このときすでにアメリカとは部分的戦争に入っていたのだったろう。自分ではそれを自覚しないながらに。

国際関係や戦争には不幸な物理的法則ともいうべきものがあって、双方とも欲しないのに、その意思をはなれた勢いのせりあいがはじまる。こちらが手段を講ずれば、相手もそれに対抗する手段を講ずる。それに対してこちらもさらに対抗する手段を講ずる・・。この「せりあい」がはじまると、もう後へは退けない。退けば敗北である。第一次、第二次ヨーロッパの戦争も太平洋戦争も、その原因にはこの法則が大きくはたらいた。事実あの日華事変のあいだ、侵略をしていた日本人は、主観的には侵略をしているとは感ぜずに、防禦をしていると感じていた。もし勝たなかったら亡国だ、という恐怖と焦燥を持っていた。この聖戦を完遂しなければこれまでの成果は全部空しくなる。今までたくさんの人々が英霊になり国帑を費やしたのに、いまさらどうしてその犠牲をむなしくすることができよう・・。

それは致命的な悪循環だった。戦局が拡大するから、おのずから兵力の不足をつげて、それを補わなければならなくなる。まさか見殺しにはできないから、中央部はそれに引きずられて派兵派兵と兵力をつぎこまなくてはならない。するとまた現地軍は拡大―かくて派兵・・。

軍首脳も不拡大方針だった。有力な作戦部長の石原将軍は、自分が満州でやったのと同じことを北支軍もはじめたと考えて、中国側がしきりに反撃してくる北支の事情を認識していなかったということであるが、とにかくこの作戦の中枢者は熱心に局地化の努力をした。「わたしが接触した範囲では、陸軍中央部のもので・・ひとりとして、不拡大方針がくづれてゆくのを、しんけんにしんぱいしないものはなかった、とわたしは断言するにはばからない」(風見章「近衛内閣」)。ただこの悪循環を断ち切る為の国家主体がなかったのである。軍隊が自分の判断で作戦行動すれば、こうなるのがむしろあたりまえだろう。中枢神経が麻痺して、手足が勝手にあばれだしたようなものだった。

満州国の独立と共に関東軍が独立し、北支軍は目さきの局地的情勢にひきずられて本国の方針に服しなかった。陸軍大臣にもどこまで拡大するのかわからなかった。この軍に中心がなくなったということは、当時の記録に人々がしきりに慨嘆しているが、原田日記にも西園寺公が昭和11年につぎのようにいったと記してある。


「何か軍に中心があれば大変都合がいいが・・。どうも現在どこに中心があるか判らない。各種各所に中堅があるけれども、軍全体としての中心がほとんどないやうな状態になっている。嘗て斉藤前総理が来た時に、やはりいろんな陸軍の話が出て、「今の陸軍の中心はどこだ」と言ったところが、その当時から「どうも中心といふやうなものがないんで困ってをる」といふやうな話であった。それで斉藤も、「中心さえあればまたそれをどうにでもできるんだけれども、まことに困ります」と言ってをつた」


軍事と外交がばらばらで統一した国家意思がなく、強力な非有機体と化した軍隊が無限の大陸で戦争したのだから、国はまさに亡びるべくして亡びた、というべきであろう。

そしてこれはノーマン氏の想像したのとまさにあべこべの姿であり、厳粛な封建的精神や階層支配が時代によって崩れたからこそ起こったことだった。国全体が多元的なアモルフなものに解消したのだった。



人間の意思は各局面によって変りうるし、変るのが当然である。やがて、これではならぬという反省がはじまった。種村参謀の「大本営機密日誌」によると、昭和15330日に、事変処理の方針の大転換が決定された。それは昭和15年中に日華事変が解決せられなかったならば、16年初頭から大陸から撤兵を開始、18年頃までには、上海の三角地帯と北支蒙疆の一角に兵力を縮める、というのだった。そして、「陸軍省側では、今すぐからでも撤兵を開始するような剣幕であった」

後の対米開戦の前には、東条陸相は士気の関係から大陸撤兵はできないと主張したが、このときにはアメリカとの談判の結果というあたらしい要素も加わっていた。しかし、そうなる前の右の大本営の決定は実行できたにちがいない。この前にも、司令官は減兵をしていた。

しかし、このときに生憎ダンケルクがおこって、「バスにのりおくれるな」という機運となり、それまでには考えられたこともなかった南方各地への作戦の研究がはじまった。

あの歴史には大切なときにこのような不幸な偶然ともいうべきものがいくつかはたらいたと思うけれども、今はそれについてはふれない。(他には、たとえば松岡外相の病気、野村大使への訓電が傍受され誤訳されたこと、など)

軍人には功名心もあったろうし、勲章のほしい人もあっただろう。しかし、それがあのような結果を生んだというのは、酷なような気がする。満州事変以来、国家意思が麻痺して、対外関係という重大なものを綜合的にきめる者は、対米戦争まではなかった。軍人はフリーハンドを与えられて、かれらは戦争をただ軍事的観点のみから見る習性をえていた。満州を保つためには北支を、北支を防ぐためには中支を。中支のためにはさらに南支を。物資が上海から入るのを止めれば広東から入るから、広東を止める、そうすれば仏印から入るから、仏印を止める。そうすればビルマから入るからビルマを止めなくてはならぬ・・。


たとえいかに現地軍が局地的判断で動いたとしても、大作戦は中央の計画だったにちがいない。大本営は、戦争を解決するためにますます戦争を拡大していった。」

ISBN-10: 4061586963
ISBN-13: 978-4061586963

竹山道雄


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