2015年9月22日火曜日

加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑摩書房刊pp.13-16より抜粋

日本で書かれた文学の歴史は、少なくとも8世紀まで遡る。最も古い文学は、世界にいくらでもあったが、これほど長い歴史に断絶がなく、同じ言語による文学が持続的に発展して今日に及んだ例は、少ない。サンスクリットの文学は、今日まで生き延びなかった。今日盛んに行われる西洋語の文学(伊・英・仏・独語文学)は、その起源を文芸復興期(145世紀)前後に遡るにすぎない。ただ中国の古典語による詩文だけが、日本文学よりも長い持続的発展を経験したのである。

しかも日本文学の歴史は、長かったばかりではない。その発展の型に著しい特徴があった。一時代に有力となった文学的表現形式は、次の時代に受け継がれ、新しい形式により置き換えられるということがなかった。新旧が交替するのではなく、新が旧に付け加えられる。たとえば抒情詩の主要な形式は、すでに8世紀に31音綴の短歌であった。17世紀以後もうひとつの有力な形式として俳句がつけ加えられ、20世紀になってからはしばしば長い自由詩型が用いられるようになったが、短歌は今日なお日本の抒情詩の主要な形式の一つである事をやめない。もちろん一度行われた形式が、その後ほとんど忘れられた場合もある。奈良時代以前から平安時代にかけて行われた旋頭歌は、その例である。しかし奈良時代においてさえも、旋頭歌は代表的な形式ではなかった。徳川時代の知識人たちがしきりに用いた漢詩の諸形式は、今日ほとんど行われていない。しかしそれは外国語による詩作という全く特殊な事情による。
新旧の交替よりも旧に新を加えるという発展の型が原則であって、抒情詩の形式ばかりでなく、またたとえば、室町以後の劇の形式にも、実に鮮やかにあらわれていた。15世紀以来の能・狂言に17世紀以来の人形浄瑠璃・歌舞伎が加わり、さらに20世紀の大衆演劇や新劇が加わったのである。そのどれ一つとして、後から来た形式のなかに吸収されて消え去ったものはない。

同じ発展の型は、形式についてばかりでなく、少なくともある程度まで、各時代の文化が創りだし、その時代を特徴づけるような一連の美的価値についてもいえるだろう。たとえば摂関時代の「もののあはれ」、鎌倉時代の「幽玄」、室町時代の「わび」または「さび」、徳川時代の「粋」―このような美の理想は、そのまま時代とともにほろび去ったのではなく、次の時代に受け継がれて、新しい理想と共存した。明治以後最近まで、歌人は「あはれ」を、能役者は「幽玄」を、茶人は「さび」を、芸者は「粋」を貴んできたのである。

このような歴史的発展の型は、当然次のことを意味するだろう。古いものが失われないのであるから、日本文学の全体に統一性、時代が下れば下るほど、表現形式の、あるいは美的価値の多様性がめだつ。抒情詩・叙事詩・劇・物語・随筆・評論・エッセーのあらゆる形式において生産的であり得た文学は、若干の欧州語の文学を除けば、他に例が少ないし、文学・美術にあらわれた価値の多様性という点でも、今日欧米以外には、おそらく日本の場合に比較する例がないだろう。清朝末期までの中国文学と同じように、伝統的な形式が何世紀にもわたって保存された事情は、日本の場合には、中国の場合とは逆に、むしろ新形式の導入を容易にしたように見える。中国の場合のように、旧を新に換えようとするときには、歴史的一貫性と文化的自己同一性が脅かされる。旧体系と新体系とは、そういう問題がおこらない。今日なお日本社会に著しい極端な保守性(天皇制、神道の儀式、美的趣味、仲間意識など)と極端な新しいもの好き(新しい技術の採用、耐久消費財の新型、外来語を主とする新語の濫造など)とは、おそらく盾の両面であって、同じ日本文化の発展の型を反映しているのである。

文化のあらゆる領域においてこのような歴史的発展の型が成立した理由は何であったか。その問題に十分答えることは、ここではできない。しかし文学に即していえば、その言語的・社会的・世界観的背景にあらわれたある種の「二重構造」が少なくともさしあたりの答えをあたえることになるだろう。

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