2017年7月17日月曜日

20170716 地域にて共有される認識と措辞への能動性について・・南北九州の違い

A「7月13・14日投稿分の記事の閲覧者数はその後も伸び続け、併せて150近くとなっております。

また、こうした題材を書いておりますと思い起こされるのが、以前読んだ野上彌生子著の『迷路』であり、この著作内にたびたび描かれている我が国近現代あるいはそれ以前からの歴史と絡めたさまざまな社会の様相およびその変化とは、大変興味深く、また、そうした著者の視点に13日投稿分記事に出た夢野久作の著作とのある種の類似性を考えさせられます。

また、その類似性は、その他のこの地(北部九州)が輩出した多くの研究者・著述家などについても、ある程度共通した何かがあるのかもしれないと考えさせれます。

そのように考えてみますと、北部九州一帯には、古来より歴史などを含めた『何かを物語る・措辞する』ことについて古来より続く何かがあるのかもしれないと考えさせられます。

そして、その基盤となるものが、おそらく表立って主張されることは少ないのかもしれませんが『我々こそが古来からの正統な日本人である』といった、いわば『真っ当ともいえる矜持』ではないかと思われます・・。

こうした矜持があってこそ、はじめて現今生じている出来事の価値・意味合いといったものを精確に認識し、歴史上に配置出来るといった一種の能動的な認識に結節することが出来るのではないかと思われます・・。

また、こうした認識とは、往々にして男性的とも称されるのでしょうが、それもまた、当地が古来よりさまざまな海外からの影響・圧力に対して真っ先に対応を迫られた地域であったことに起因しているのではないかと考えられます。

こうしたことを私見を交えて別言しますと
『あなた方中央におられる方々には分からないかもしれないが、我々は古来より外から訪れるものに対し、真っ先に対応してきたからこそ、現在の我が国があるのです。それ故、現在中央にて問題となっている種々案件の多くは、その根源を辿ってみれば、既に我々がどこかで経験し対応してきたことでもあるのです。また、そうした経験を持つ我々の為す判断、述べる意見であるからこそ、そこには少なくとも、ある一定(以上)の価値があるということを認識して頂きたい。』

といった感じになるのではないかと思われますが、こうした地域からの主張とは、時代の状況によって語調強弱のトーンが変化するのでしょうが、何れにせよ、その基層にあるものとは、さきに書いたような地域にて共有化された認識ではないかと思われます・・。

また、そうした(地域特有の)認識がなく、どの地域もこれといった特徴がなく、平均化されてしまった我が国とは本当にツマラナイのではないかと考えます。

しかし他方において、極論ではありますが、こうした認識およびその価値とは、その地域を一つの市場としてか見做していない他の地域・国々にとっては、おそらく、どうでも良いことなのです・・。

ただ、その地域が自らに利益を齎してくれるのであれば・・。

そしてまた、ハナシは戻り、そのことを古来からの歴史およびそこでの経験を通じて強く認識している地域であるからこそ『何かを物語る・措辞することについて』の価値を認め、そうした認識の共有が為されているのではないかとも思われます・・。

とはいえ、こうしたことは南九州および南西諸島においては、多少事情が異なるようであり、また、そうしたことが現在に至るまでの当地域が含まれる領土問題における我が国の対応にも影響を与えているのではないかと思われます・・。

また、その意味で西南戦争とは、やはり少なからぬ影響を今なお、この地域に与えているのではないかと考えます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。』



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