2017年7月11日火曜日

20170710 ネガティブなことがらの大きさが創造に与える影響について・・

昨日投稿分の記事もまた、これまでに作成した記事の中では平均的な閲覧者数でした。また、そのことから、自身は一種の安堵感らしきものを感じます・・。

それはつまり、こうしたネガティブなことがらを記事として書いても、あまり変な受け取られ方はしていないということであり、またそこから『この先も、もうしばらくは記事作成を継続しようといった』気持ちを生じさせてくれます。

とはいえ、昨日の記事を投稿して以来、今現在に至るまで著しく元気になったというわけでもありませんが同時に、以上のことから、その心境とは幾分かはマシになったのではないかとも思われます・・。

そして、それが継続し、ある程度の改善が為されたと感じられたら、今週中にでも応募書類の作成を再開したいと考えております・・。

さて、そういえば昨日投稿分の記事後半部において『継続的な文章の作成を行うためには、その前提として、ある程度の知識・思想の蓄積がなければ難しいのではないか?』といった意味のことを書きましたが、これはたしかに一理あるのではないかと考えます。

しかし、であるからといって、知識・思想さえ有していれば継続的な文章作成が出来るというわけでもなく、それに加えて何と言いますか、一種の感情・精神の【継続的な】発動あるいは気合いのようなものがなければ難しいのではないかとも考えます・・。

そして、この要素において、ネガティブなことがらより生じる精神の停滞、落ち込みといったものは文章の【継続的な】作成を妨げるものなのです・・。

そして、それは文章の作成のみならず創造的な活動全てに対しても当て嵌まり、そのことから、こうした要素【精神活性の程度・状態】とは、さまざまな『時代精神』あるいは『地域性』に対しても大きな影響を与えているといえ、さらには、こうした要素を抜きにして国、地域の歴史を生き生きと『物語る』ことは不可能ではなかろうかと考えます・・。

一方、『ネガティブなことがらを糧として創造の原動力にしているといった場合もあるのではないか?』といった意見もまたありますが、たしかにそうした要素【ネガティブなことがらと精神の発動・気合い】の内面での葛藤により創造的な行為を為されるということは、創造活動の一つの王道ではあると考えますが、そうしますと、ここで問題となるのはネガティブなことがらの『大きさ・程度』であり、それが感情・精神にとって大きすぎる、耐え難いものであれば創造の妨げとなり、一方慣れ得る程度のものであれば、それは内面での葛藤をひいては創造を駆動させる一つの要素ともなるということです。

その意味で昨今受け取った一連の公募での『選考もれ』の通知とは、自身のブログ記事作成を断念させるほどに大きなものではなかったものの、ある種自身を精神的にジリ貧、無気力な状態に追い込んでいたと評することが出来るのではないかと思われます。

そして、そうした状況を改善・打破するため、そうした状況自体を書こうとする試みとは、あるいは愚かではあるのかもしれませんが、同時にそうした試みとは、行ってみる価値はあるのではないかとも思われます・・。

現にそのことによって、一つのブログ記事は作成することが出来たようですし・・(笑)。

今回もまた、ここまで興味を持って読んでくださったみなさま、繰り返しになるかもしれませんが、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨といった自然災害によって被災された地域での出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。


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