2020年1月19日日曜日

20200119 昨日の続き、歴史の理解・認識について

さて、昨日投稿分の記事にて「歴史の理解・認識」について書きました。その主旨は、歴史など手に触れたり、見ることが出来ない、所謂「抽象的」なものに対しては、それについて書かれたさまざまな著作を読み続け、油絵の重ね塗りのようにして、その様相を理解・認識していくといったものでしたが、それと同時に、その歴史と同時代に作成されたさまざまな物を通じた理解・認識もまた、重要であると云えます。

そして、それら双方による理解・認識を通して、はじめて明瞭・クリアな歴史像を得ることが出来るように思われます・・。たとえば、具体的なハナシとしては、和歌山県和歌山市の紀ノ川北岸に立地する大谷古墳から、我が国では出土が珍しい戦闘時の馬に装着する「馬冑」というものが出土しています。この「馬冑」は、古来から乗馬文化を持っていた北東アジアを淵源とするものであり、中国北部や朝鮮半島の墳墓からも出土、さらに墳墓内壁画での描写、副葬品陶俑での表現などが見受けられます。

我が国における「馬冑」の出土は、さきの和歌山県、その他は福岡県、埼玉県の古墳からの3例のみであり、それらの時代はいずれも5~6世紀代とされています。また同時に、この時代は、記紀が伝えるように朝鮮半島内部での国々の争いに、ヤマト朝廷が派兵していた時期でもあり、そこから、おそらく上記3古墳の埋葬者は、この朝鮮半島への派兵に強く関与していたと考えるのが妥当と云えます。

つまり彼等は、ヤマト朝廷の朝鮮半島派兵に従って渡海し、現地にて「馬冑」を入手したのではないかということです。とりわけ、さきの大谷古墳に関しては、5世紀後半に在地豪族である紀氏に属する紀小弓また、その子である紀大磐が朝鮮半島での軍事活動に従事したという記録があることから、その信憑性は高いと云え、あるいは大谷古墳に前記二者(紀小弓・大磐)のいずれかが埋葬されていなくとも、同時期に朝鮮半島派兵に従った紀氏に連なる誰かが埋葬されているとも十分に考え得ることから、さきの「馬冑」の出土と、その背景にある記録されている歴史像は、整合性を持ち結節することが出来ると云えます。

そして、そのようにして抽象的な歴史像と同時代における作成物を重ね合わせますと、そこには、単に抽象的とは云いきれない、具体的なイメージを伴った歴史像が形成され得るのではないでしょうか。また、こうしたことは、歴史を扱ったマンガ・映画などにおいてはその評価をも左右する極めて重要な要素であると云えます。とはいえ、欧米で製作された歴史を題材とした映画と、我が国のそれを比較しますと、我が国の場合、製作された時代が現在に近づくにつれ、その描写が「必ずしも妥当とは云えない」といった作品が多くなっているという印象を受けます。あるいは端的に、我が国の歴史を題材とした映画作品は、全体的に過去と比べ、背景となる歴史への考証が必ずしも適切に為されていないといった感じを受けます。

この意見には、おそらく異論を持たれる方々も少なからずいらっしゃるとは思いますが、それでも、いくらか、そうした作品を読み、観てきた私からしますと、どうしても、そのような印象を受けるのです・・。さて、皆様、こうしたことについて、どのようにお考えになるでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設
日本福祉大学
オープンキャンパス

~書籍のご案内~
新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5

~勉強会の御案内~
歯科材料全般あるいは、いくつかの歯科材料に関する勉強会・講演会の開催を検討されていましたら、ご相談承ります。また、上記以外、他諸分野での研究室・法人・院内等の勉強会・特別講義のご相談も承ります。

~勉強会・特別講義 問合せ 連絡先メールアドレス~
conrad19762013@gmail.com
どうぞよろしくお願いいたします!













0 件のコメント:

コメントを投稿