2020年1月12日日曜日

20200112 書かれた文章の位相について思ったこと

かれこれ、約4年半にわたりブログ記事の作成を行っています。その間、毎日1記事の投稿を行いますと、1643記事ほどになりますが、現在までの自身の投稿記事数は1229であり、そこから、およそ10日のうち7日程度の割合で記事を作成・投稿してきたことになります。そのように考えてみますと、思いのほか多く作成・投稿してきたとも思われますが、今後、6月に迎える5年目までには、もう少しその率を上げていきたいとも考えています。

さて、つい先ほどまで、しばらくの間、これまで作成してきたブログ記事を眺めていましたが、自身のブログは、読んだ書籍・観た映画などについて扱った記事が相対的に多く、それに対し、日常生活について扱った記事は少ないと感じられました。さらに、ここからは私見になりますが、自身の場合、読書・映画などを主たる題材としてきたからこそ、これまでの間、記事作成を継続することが出来たのではないかとも思われるのです。


これは多少不思議にも思われることであるかもしれません。何故ならば、日常生活を題材とした方が、より、抽象的もしくは観念的と云える書籍・映画などを題材とした記事作成よりも容易に行うことが出来ると(普通は)考えられるからです。


このことは、ブログ記事作成当初、自分なりに悩んだところであり、現在、考えてみますと、初期に多く作成した対話形式の記事は、いわば、その悩みや迷いが結晶化したものであるとも云えるのです・・(苦笑)。また、これは今もって言語にて精確に表現することに対しての困難さを覚えますが、即物的・具体的な文体にて日常の出来事を述べることと、そうした即物的な世界観からいくらか離れ、接した書籍・映画などを題材とした抽象的・観念的とも評し得る内容を述べることの間には、それぞれで著された文章全体の位相が異なるように思われるのです・・。そして、過去の自身は「とりあえず抽象的・観念的なことを自分なりに精確に言語化してみることが自身にとっては重要であろう・・。」と考え、現在なおも右往左往している状態と云えます・・(苦笑)。


そして、この即物的・具体的そして抽象的・観念的な文章、いや、その文章のさらに基層にある認識・想念の明瞭化そして活性化こそ、極めて重要であり、また、これはおそらく我々の身体感覚と強く関連しているのではないかと思われるのです・・。


しかし他方で、上記に述べたような内容を、当ブログ開設以前の時期に、文章として述べることが可能であったかと考えてみますと、おそらく、それは困難であったと云えます。当時の方が体力は明らかに優れていたはずであるのに・・。


そのように考えてみますと、身体感覚と体力とは、必ずしも随伴、あるいは同一視されるものではなく、あるいは、旺盛な体力は、一面においてセンサーとしての身体感覚をいくらか鈍麻させるような性質をも持っているのかもしれません・・。


そして、年齢と共に体力がいくらか衰えてきますと、はじめて、それまで無意識に近い領域にて考えていた、認識していたことを文章として言語化することが可能になる素地が生成され、そこから、意識・無意識による何らかの修練(多分、文章の作成や更なる読書であるように思われます。)を経て、抽象的・観念的にして、いくらかの人々が読んで納得・理解して頂けるような文章を作成することが出来るのではないかと思われるのです。


とはいえ、無論、現在の自身がそれらが出来ているとは考えていませんが、また、畢竟それも一つのルート(理解可能な抽象的・観念的文章作成のための)ではあるのかもしれませんが、それを文章化しておくことも、また一興であるとも思われますので、ここに記しておきます・・(笑)。


今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

















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