2016年9月11日日曜日

20160910 筑摩書房刊・山田風太郎著 「秀吉はいつ知ったか」pp.243ー249より抜粋引用

榎本武揚はまさしく英才であった。
少年時、昌平黌に学び、青年時、海軍伝習所に学んだというのだから、現代でいえば東大を出て、防衛大学を出たようなものだ。そして二十代後半の五年間をオランダに留学した。当時おそらく近代兵学、近代科学についての素養において、彼の右に出る者はなかったであろう。

その自負ゆえに、彼は帰朝して早々にぶつかった幕府崩壊の嵐の中にひとり屈せず、幕府艦隊を率いて五稜郭に立てこもり、官軍に猛抵抗して徳川の侍の最後の意気地を見せた。

その壮絶さが官軍の参謀黒田清隆を感心させ、箱館戦争終結後、みずから坊主になってまで叛将榎本の助命に奔走するという美談を作り出した。

降伏後、牢から出た榎本は、以後海軍中将に任ぜられ、ロシアや中国の駐在公使、外務、海軍、農商務、文部等の大臣を歴任する。

元幕臣、しかも新政府に対する叛将というハンディキャップを持つ人間としては稀有の栄職である。いかに彼が有能であったかがわかる。

ただ、きれるだけでなく、榎本は快男児であった。
五稜郭の戦いのみならず、オランダへゆくとき、ジャワ海で嵐のために船が難破して名も知らぬ小島に漂着し、海賊船に襲われたが、かえって日本刀をつらねて海賊たちを制圧し船を出させたという逸話、海軍卿時代、隅田川に海軍の汽艇二隻を浮かべ、芸者を満載してドンチャンさわぎをやったという快談、ロシア駐在公使の任を終えたとき、まだ鉄道もないシベリアを馬車で横断して帰国したという冒険など、あたかも武侠物語の主人公の観がある。

しかも写真で明らかな通り、日本人は珍しいほどの颯爽たる美丈夫である。まさに人物、風貌、男の中の男といっていい。

この榎本武揚にして、私の見るところでは、その人生において重大な二つのミスをした。人生のミスはなにも彼にかぎったことではないが、いかにも武揚らしくないミスである。ミスというより、誤判断だがー。

一つは、例の福沢諭吉の「痩我慢」問題に見られる福沢との鞘当てである。

明治三十四年(1901)、福沢諭吉は「痩我慢の説」という文章を発表した。実に福沢が死ぬひと月前のことである。

彼は、国家も個人も痩我慢が大事である。平時において大国に対して小国が独立を保つのも痩我慢の精神、戦時において国敗れんとするも最後まで全力をあげるのも痩我慢の精神だとして、維新時なお戦う力があるのに幕府を売ってしまった勝海舟を嘲罵した。

兵乱のために人を殺し、財を散ずる禍いを軽くしたかも知れないが、一国の士風をそこなった罪はそれより重いとしたのである。さらに、それはなお許すとしても、維新後、勝が新政府の栄爵の地位を得るのは何ごとか、と弾劾した。

そしてまた彼は、ほこさきを榎本武揚にも向ける。

榎本が、すでに滅亡した徳川武士の意気地を見せようとして五稜郭で戦ったのはまさしく痩我慢の見本であっぱれなふるまいだ。たとえ敗れて牢に投じられたとしても、勝敗は兵家の常ととがむべきではない。
しかし、そのあとがいけない。

氏が放免の後に、さらに青雲の志を起こし、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服する能わざる所のものなり
と、福沢は言い、榎本よ、君はいま青雲の志をとげて安楽豪奢に余念がないかも知れないが、夜雨秋寒くして眠る能わず、残燈明滅独り想うのとき、五稜郭で君に殉じて戦死したいくたの部下たち、またそのあとに残されて路傍に彷徨した母や子たちを想像して腸を寸断されることはないか、と述べ、榎本のいま世に処すべき唯一の路は、坊主となって死者の菩提を弔うか、そうでなければせめて世間の耳目から隠れてひっそりと生きるべきである、と断案を下した。

実はこの文章を公開する前に、福沢はこれを勝と榎本に見せ、これについて何か言いたいことがあれば言え、という手紙を送った。

維新時まっさきに両刀を捨てた「平民」福沢諭吉から、「士道」についてのこの公開状をつきつけられて、勝海舟のほうは、行蔵は我に存す、毀誉は我に関せず、そのまま公表されても毛頭異存なし、という風のような返事をよこし、榎本のほうは、目下多忙、そのうち愚見を述べる、と、ぶっきらぼうに言って来たが、それだけで、以後何も言って来なかった。

実は福沢の文章を読んで、彼は真っ赤になって激怒したといわれる。

この痩我慢の説」は明治三十四年に発表されたのだが、実際は十年前の明治二十四年に書かれたもので、それはその年福沢が興津に遊んだとき、そこでの清見寺の境内に建ててある一つの石碑を見たからである。

明治元年(1868)八月、榎本は幕府艦隊をひきいて北海道へ向かったが、途中房総沖で暴風のために艦隊四散する難に遭った。
その中の一隻咸臨丸清水港までおし流されたところを官軍方の攻撃を受け、おびただしい死者が海に浮かんだままになった。それを土地の遊侠清水の次郎長なるものが一々ひろいあげて、ひそかに葬った義挙を伝えるための石碑であった。

咸臨丸は福沢が、勝艦長とともにはじめてアメリカへ渡ったときの船である。
「それからの咸臨丸」の悲運に万感をもよおしながらこの記念碑を見た福沢諭吉は、その裏面に、「人ノ食ヲ食ム者ハ人ノ事ニ死ス。従二位榎本武揚」と彫りこんであるのに気がついて、帰京後たちまち「痩我慢の説」の筆をとり、かつその内容をひそかに勝と榎本に示したのである。

榎本の文字は徳川に殉じた侍たちを悼んだものだが、福沢は、徳川の禄を食みながらついに徳川のために死ななかったやつが、えらそうに何を言うか、という心情を勃然と発したのであった。

そして、これについては福沢と榎本の間に、明治の劈頭早々に、次のようなただならぬいきさつがあったのだ。

明治二年(1869)六月、降将として箱館から東京に送られた榎本武揚が辰ノ口の牢獄にいれられたまま、それっきり消息が絶えてしまったのを、榎本の老母や姉たちがひどく案じているといううわさをふと耳にした福沢諭吉は、榎本とは一面識もなかったにもかかわらず、榎本の最後の勇戦ぶりに感心していたこともあって、義侠の人肌をぬいだ。

彼はひそかに武揚が牢で健在であることを調べて家族に知らせてやり、牢獄に書物その他を差し入れてやり、はては武揚の母に代わって助命嘆願まで書いてやり、さらに黒田清隆と相談して触法運動に奔走さえしたのである。

ところがである。やがて釈放された武揚は、この福沢の労にまったく酬いることがなかったのだ。どうやら出獄後、礼のあいさつにさえゆかなかったらしい。

福沢の尽力のことは家族から聞かなかったはずがない、-いや、それどころか彼自身獄中で、福沢から差し入れられたオランダの化学書も受けとったのに、これに対して彼の感想は、
「実は、この方一同、福沢の不見識には驚きいり申し候。もそっと学問ある人物と思いしところ存外なりとてなかば歎息いたし候。これくらいの見識の学者にても百人余の弟子ありとは、我が邦いまだ開化文明のとどかぬこと知るべし」
と、姉宛の手紙に書いたようなものであった。

榎本は、福沢から差し入れられた化学書があまり初歩的なものであったので、かえってむっとしたのである。

彼の語学力、また西洋知識についての自信は絶大なものがあった、自分の履歴についてのプライドは天より高かった。
おそらく、直参、最初の留学生、徳川艦隊司令長官のコースを経た彼は、九州の小藩の下級武士出身で、いまは市井に塾をひらいているだけの福沢という男が、自分のために多少の奉仕をしてくれようと、町人が殿様に犬馬の労をとってくれたぐらいにしか思わなかったのではあるまいか。」

秀吉はいつ知ったか





  • ISBN-10: 4480433031
  • ISBN-13: 978-4480433039