2021年7月16日金曜日

20210716 株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」pp.22-25より抜粋

株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」
pp.22-25より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480434828
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480434821

当時、中国大陸を支配していた明朝は海禁政策を布いていた。

明の皇帝は国内の反明勢力と海賊との結びつきを恐れて、自国民に他国との海上貿易を禁じ、外国の朝貢船のみに入港を許可した。いわば条件付きの鎖国である。 しかも朝貢船は好きな時に好きな場所へ行けるわけではなく、国ごとに時期や入港場所の指定があった。たとえば日本は十年に一度、浙江省寧波から入港するようにと定められていた。このように国同士の厳しい取り決めが交わされる一方で、盛んになっていったのが密貿易である。

 十六世紀初頭、東アジアの貿易市場をさらに活気づける事件が起こる。ポルトガルのアジア進出である。1510年、ポルトガルはインドのゴアを占領。その後セイロン島、マラッカ、モルッカ諸島が次々とポルトガルの手に落ちていった。

 ポルトガルの得た果実の中で、ことに重要なのはマラッカだった。マラッカは南シナ海とインド洋を結ぶ海上交通の要所だ。ポルトガルがこの地を押さえたことで、ヨーロッパと東アジアが一つに繋がった。

 ポルトガルはマラッカを拠点に東アジア貿易にも乗り出した。ちなみに東アジアの輸出品のなかで、特にヨーロッパからの需要が高かったのは日本の銀だ。日本の銀は石見銀山の発見と灰吹き法と呼ばれる精錬法の導入により飛躍的に産出量が増大し、日本は新大陸アメリカに次ぐ世界第二の銀産出国となっていた。 

 一連の動きのなかで、海上交通の花形に躍り出たのが琉球だった。

 琉球はもともと東シナ海と南シナ海をを結ぶ役目を果たしてきた。ポルトガルがマラッカを占領したことにより、自国の物産はもちろん、中国、朝鮮、日本など東アジア諸国の商品をマラッカに持込み、反対にインドやジャワ諸島、ヨーロッパの商品を持ち帰ることが可能になった。琉球に世界中の品物が集まるようになったのだ。

 この恩恵にあずかったのが薩摩であり、対琉球貿易の入口の一つが都城島津家所有の内之浦であった。

 従来、日本は明国との窓口を博多に設けており、貿易において薩摩は博多に一歩も二歩も先を越されていた。しかし薩摩は琉球を介することで、明どころか世界中の商品を手に入れることができるようになったのだ。

 慶長14(1609)年、家康の許可を得て薩摩藩は奄美地域から琉球へ出兵した。独自の高度な文明を誇っていた琉球王国であったが、最新鋭の兵器を携えた薩摩武士の猛攻撃の前にはひとたまりもなく、たちまち首里城は陥落、琉球国王・尚寧王は捕らえられ、鹿児島へと連行された。

 翌年、尚寧王は薩摩藩主・島津家久とともに駿府城で大御所・徳川家康と、江戸城で二代将軍・徳川秀忠と面会し、その後再び鹿児島に戻ると島津家の求めに応じて薩摩の琉球統治方針に従う旨の起請文に記し、やっとの思いで琉球へと帰国した。ここから琉球の苦難の歴史が始まる。

 幕府から琉球の仕置きを命じられた薩摩藩は、与論島以北の奄美地方を割譲して薩摩藩領としたものの、琉球全土は植民地化せず、沖縄・先島を琉球王国として残した。

 薩摩藩は琉球をあえて同化せず、従来の王朝体制を温存して、中国との朝貢関係も継続させた。言うまでもないが、このような形式をとったのは薩摩側にとって都合がよいからであり、琉球の独自性を認めていたからではない。

 薩摩藩は琉球に出先機関(琉球仮屋)を設置し、朝貢貿易の運営に関与するとともに、琉球から多額の租税を徴収した。薩摩藩がいろいろな名目をこじつけて琉球から甘い汁を吸い上げる様子は、まさに「骨の髄まで」という表現がぴったりとあてはまる。

 また、琉球は薩摩藩を介して幕府へも服従を強いられた。

 琉球王が即位するたびに謝恩使を、将軍の代替わりのたびに慶賀使をそれぞれ将軍家へ遣わすことになっていた。その際、使節は中国風の衣装を身につけ、異国情緒たっぷりな行列を仕立てたという。 

 使節派遣は幕府からすれば異国を従えていることを天下に示す機会であり、薩摩藩にとってはその異国を事実上従えている自らの存在感を幕府に示す機会でもあった。

 むろん、こうした支配の在り方は琉球にとっては屈辱的なものだった。しかしながら、この時代の琉球支配と、近代になってからの琉球統治とを比べて、どちらのほうがより文明的であったこといえば、その答えは簡単に出ない。なぜならば江戸幕府も、薩摩藩もいわゆる「同化政策」だけは行わなかったからである。つまり、支配はしても、琉球の文化や風俗まで変えようとはしていない。

 このように薩摩藩が琉球固有の文化を残したのは、あくまでも政治上の思惑であり、琉球の文化に高い敬意を払ったからではなかった。琉球からみれば薩摩藩は憎むべき侵略者そのものだ。

 その点を踏まえたうえでなお、薩摩藩には多様な文化が並立して存在することを良しとする、度量の広さがあったーそう言っても差し支えないのではないか。


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