ISBN-13 : 978-4004306184
地名の一致
沖縄最初の統一王朝、第一尚氏んお根拠地であった沖縄本島の東南部、知念半島の根もとにある佐敷という地名は、じつに私の故郷の熊本県水俣市(もと水俣町)の北にもある。水俣町大字浜に祀る八幡宮は私の氏神であり、「日本の地名」(七八ページ)でも触れたが、幼少の折に、宮詣りする参道の傍に源為朝を祀る小祠のあるのを見て通りすぎていた。そこは江戸時代に浜村の舟津と呼ばれた漁民集落であるが、「肥後国誌」によると、為朝は舟津から琉球にむかって船出したという。曲亭馬琴も「椿説弓張月」の中で、この挿話を取り上げていて、同書の末尾には、
肥後に佐敷と唱ふる所あり、水俣へ四里半、八代へも遠からず。琉球山南省に、又佐敷と唱ふる間切あり。肥後に浜村といふ漁村あれば、琉球の勝連にも、又浜村といふ村里あり。
と述べている。
肥後の浜村は、水俣の大字浜にほかならない。八幡宮のある舟津はその中に含まれる。琉球の勝連に浜村のあることは「中山伝言録」巻四に見える。これは今の浜比嘉島である。私の郷里の水俣の浜(旧浜村)や近傍の佐敷と同じ地名が、第一尚氏の根拠地にも見出せるということは偶然の符合だろうか。それとも、肥後の南部と第一尚氏との間に何らかの関係があることを示す証跡なのだろうか。
こうして私はいつの間にか折口信夫の「琉球国王の出自」という論考をめぐってあれこれと考えてみるようになった。
折口によれば、後醍醐天皇の皇子懐良親王が九州に下向した折、肥後に領地を持つ伯耆の名和一族も肥後の菊池水軍と協力して、南朝方に尽くしたが、親王はやがて亡くなり天下の大勢を挽回することもできなくなった。
そこで肥後の八代、佐敷などを根拠地としていた名和水軍の残党は、九州西海岸に沿って南下し、沖縄本島の東南部の知念半島一帯を制圧し、佐敷に沖縄の最初の統一王朝の基礎をきずいたという説である。
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