2015年10月10日土曜日

山本七平著「私の中の日本軍」文藝春秋刊pp.506-509より抜粋

一体全体「捕虜になったら自殺せねばならぬ」という「規定」はだれが制定したのかという問題である。

陸軍刑法にはそんな規定はない。
従って天皇が裁可した規定ではない。
戦後には、この問題でよく引き合いに出されるのが「戦陣訓」だが、空閑少佐事件」のときは「戦陣訓」は存在しない。 そして、部隊長の意見では、そうではなくて、実は日本の新聞がきめた「規定」だということであり、その発端が「空閑少佐事件の報道」だというのである。

これは上海事変のとき、日本軍の一個連隊が中国軍に壊滅させられたときの話である。
何しろ「マスコミ無敵皇軍」には敗北はないはずだから、知らせずにおけたらそれが一番なのだが、連隊長は戦死し、大隊長の空閑少佐は負傷して人事不省になり、捕虜になってしまった。 事変は短期間で終わり、停戦・捕虜交換となる。
当時はまだ「捕虜は自決セエ」の時代に入ってなかったから、すべてを―一個連隊の壊滅を含めて―明るみに出さないわけにはいかない。

ところが、これがすぐ「美談」にすりかえられてしまった。
まことに「美談」とは奇妙なものである。 非常な残酷な描写と美談とをミックスすると、人々をコロリとだますことができるらしい。 「中国の旅」の南京戦の叙述にも、残虐描写と美談とが、非常に興味深く交錯しているが、昔も今も、これをやられると人々は完全に騙されるらしい。 従って、以下の美談を、当時の人々が、全く抵抗なく受け取って、そのまま「事実」として信じたとて、それを批判する資格は今の人にもないはずである。

その「美談」によれば、重傷の空閑少佐を乱戦の中から助け出したのは中国軍の甘中尉で、彼は日本の士官学校に留学したことがあり、空閑少佐はそのときの恩師であり「師を救った」というわけである。 感激的な「敵味方を超えた美しき師弟愛の発露」の物語であり、そして一個連隊全滅の事実はこれによってどこかに消えてしまうわけである。

「どうもこの話は少し変だな・・・」部隊長はやや皮肉に苦笑して言った。 というのは記事によればそれは夜戦なのである。 そして大隊本部は全滅したわけでなく、全員が「大隊長殿!大隊長殿!」と叫んで、闇の中を死物狂いで探したがわからなかったと、記されている―ということは、負傷した大隊長をほったらかしてみな逃げた、といって悪ければ撤退したということである。 そこへ中国軍がとびこんできた。

戦場の闇は、文字通り鼻をつままれてもわからない真の真っ暗闇である。 また前線で不用意に懐中電灯などふりまわす非常識人はいない。 まして陣地奪還の逆襲の恐れがあるときは、敵味方を問わず、負傷者の後送などは後まわしになる。
それどころではない。ところが日本側は連隊長が戦死した。これは最後の軍旗中隊まで壊滅したという惨憺たる状態か、連隊長を放り出して逃げたかのどちらかのはず。 従っていずれにせよ逆襲能力はない。 そこで助けを求めて呻いている負傷者を後送したわけであろうが、暗闇でわからないため、ある地点までは、空閑少佐は、おそらく中国兵を誤認されて担送されたか、あるいは自ら助けを求めたかであろう。
それが普通の人間であり、そして人間はほっとすると人事不省になる。 従って人事不省は担送後であろう。 そうでなければ暗闇だから死者と間違って放置されるはずである。

そして日本軍の佐官であることがわかったのは、おそらく仮繃帯所についてからだろう。佐官クラスの捕虜はどこの国でも「大切」にする。 これは実に貴重な情報源で、その氏名・階級・所属がわかっただけで、正面にいるのが、どこの連隊でどの程度精強か判断できるからである。

従って「通達」が出されて、日本語のできる、士官学校への留学経験者が呼び出され、そこでその教え子である甘中尉が出てきたというわけであろう。
これならば不思議ではない。

いずれにせよ空閑少佐は「大切」にされ、事変終了と共に捕虜交換で日本側に引き渡された。 そして軍法会議にかけられたが、「人事不省」で「捕虜」になったと認められて判決は「無罪」。 ところが、彼は内地送還の直前、戦死した連隊長の墓標の近くで自殺したという。 ここの話も少々変なのだが、細部は省略しよう。 いずれにせよ当時のマスコミは例の手で「激戦の記事」「師弟愛美談」「微笑を浮かべて自決」「武士道の華」を巧みにミックスして、この全滅・捕虜交換を隠し、彼を一種の偶像とした。

だが一体全体、軍法会議で「無罪」の彼がなぜ自殺したのか、本当の意味の「自殺」だったのか、それとも何らかの圧力で「自決させられた」実質的な他殺だったのか?
自殺なら軍法会議前が、否、「捕虜」とさとった瞬間が普通である。 だが彼には「捕虜→自殺」は必然的帰結という考えはなかったように思われる。当時はこれが当然だったのかも知れぬ。そして彼は、判決後、「今後、もし戦争があったら一兵卒として従軍したい」という意味のことを言っているから、その時点までは絶対に自殺の意思はないはずである。

児島襄氏も記されているが、カーッと頭に血がのぼって自殺することはありえても、通常三日たてば、「再び自らお役に立てるのが真のご奉公」と考えて、自分の生存を正当化するのが普通である。会田雄次氏も同じ発言をされている。
さらに例をあげれば、赤城艦長である。
彼のことは「週刊文春」に載っていたが、彼は、赤城と運命を共にするつもりだったが、これを消火して日本まで曳航するというから、駆逐艦に乗りうつった。
ところがその直後に、赤城を沈めよという命令が山本司令長官から来た。
彼はそれなら自分も赤城といっしょに沈めよ、赤城にもどせ、といって狂ったようになる。人々は、自殺を心配して彼を監視しつづける。
大体三日ぐらいで「再び自らお役に立てる・・」と考えはじめる。そして彼はその通りの生涯をおくる。

これが普通であり、これ以後に、何らの強制もしくは外的圧力もなく、全く自らの意思で、そのことのために人が自殺するということは、まず考えられない。
従って、空閑少佐没後昭和十九年まで、こういうさまざまなケースを見てきた部隊長には、振り返って空閑少佐の「自決」を見れば、それが到底本当の意味の「自殺」とは見えなかったとしても不思議ではない。
私にも、そうは見えない。―彼は自殺したのではなく、何らかの圧迫、たとえそれが無言の圧迫でも、何かによって「自決させられた」と私も見る。

この古い話がなぜ話題となったか。
言うまでもなく、前線のわれわれはいつ空閑少佐と同じ運命に陥るかわからない。
人事不省になり、捕虜になることは当然にありうるであろう。そして捕虜交換で帰されたらどうなるか。

陸軍刑法という「悪法」ですら、その者を無罪といって放免したのに、その悪法以上に恐ろしい「何か」がそのものを殺してしまった、という厳然たる事実がわれわれの前にある。

「絶対に日本に返さないでくれ、帰さないでくれれば、何でもいいます」これが日本軍のお定まりの台詞であることは前に記した。
そこにはこの気味の悪い「何か」が、全く得体の知れぬ「何か」が、ちょうど「殺人ゲーム」後のヒステリー状態のような何かが、「獣兵は名乗り出よ」と言った如く「捕虜は名乗り出よ」と言ってギラギラ目を光らせており、その人間が「自決」したら、血に狂ったようなわっという歓声をあげ、新聞はたちまち空閑少佐流の「美談」をその死体に投げかける、といった感じが、すべての人間にあったからだろう。
そしてそうなるくらいなら捕虜でいたままの方がよい、と。

空閑少佐の話は、私の少年時代のことなので、当時の私も部隊長の話で知ったわけである。そして部隊長がこの事件に接したのはおそらく下士官時代であって、彼はそのときの新聞報道に、何か「ショック」を受けたのだと思う。いわば今までの軍隊にはなかったはずの何かが、ある種の影のようなものがしのび寄って来たような感じであったろう。

私の中の日本軍
私の中の日本軍
ISBN-10: 4163646205
ISBN-13: 978-4163646206
山本七平



         
      




 




 

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